東京からきた学生

 

島へ島へと

東京からきた学生

泊めてもらうことになった小学校の宿直室で、東京からきた学生と本格的に議論する気になった先生は、私のほうに身を乗りだしながらいう。

「私たちの復帰運動は、東京のほうではどう受けとめられているんですか」

こんな質問を向けられても私は明解に答えることはできない。東京のほうでといっても一枚岩であるはずがなく、沖縄に対するさまざまな考えが分裂している。沖縄をアメリカや日本からの解放区とする、つまり、沖縄を革命の前線基地とし、アメリカと闘うベトナム民族解放戦線と連帯する。このような左翼的な考え方から、アメリカより日本に帰るべきだという、民族主義に基づく考え方まで、様々に四分五裂していたといったほうがよい。また沖縄独立運動を支援したいという心情もあった。共通しているのは、第二次世界大戦後の軍政下からの脱却である。

当時の私といえば、物情騒然としていた東京の学生運動の左翼的な考えの影響を強く受けていた。そのため大学で議論したり、パンフレットに書いてあったりしたことを受け売りで話す。復帰運動をしている現場の先生とは微妙にニュアンスが違い、なんとなく困ったようなことになる。沖縄に対するあふれる思いはあっても、それをうまく表現する自分の言葉を私は持っていなかったのだ。

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東京からきた学生-2

 

島へ島へと

東京からきた学生-2

「この前、東京の学生がここは日本なのだからパスポートは必要ないと主張して、那覇港に上陸する前に船内で身分証明書を燃やしましたね。沖縄の学生も何人か交じっていたようですが。気持ちはわからないでもないが、その行為は自己満足的だとは思いませんか」

鋭い言葉が私に向けられてくる。身分証明書を燃やし、警察に逮捕されることにによって沖縄の現状をあぶり出す捨て身の行為に、私はできないながらも共感するところが多かった。その知らせを聞いた時、私は個人的な旅人にすぎなかったのだが、那覇港にいって学生たちの小さなデモに加わったりした。もとより覚悟の上で逮捕されるのは勇気ある行動だが、子供たちとの現場から発想する先生たちからすれば、もっと粘り強く持続的な行動をすべきだと考えるに違いない。身分証明書を燃やした事件の当事者でもないのに、私はその先生の議論にこてんぱんにやられてしまう。その先生の論理ももとをただせば政党の受け売りだと読み取ることはできるのだが、とにかくその日の宿を確保しなければならない私は、どうしても反撃を控えてしまう。とことんやりあい、議論が白熱し、学校の宿直室から追い出されることだけは避けねばならなかった。

情のないのだが、沖縄の現状を心情でしか理解してない浅はかな旅人の、それが限界であった。いろんな主張があり、その幾つかに私は共鳴してもいたのに、宿直室で主張し通すほどには自分の意見になっていないのxである。私のいいたいことは類型的で、もしかして先生のいわんとしていることも類型的なのであろう。ただ先生には、学校や子供という現場がある。私には茫然とした旅の空があるばかりなのだ。

「勉強させていただきました」

私がこういってたいてい議論は終る。よくいえば強張りのない受難性があるのだが、つまりは自分の言葉がないのである。情ない。

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砂糖キビ畑で見られる

 

島へ島へと

砂糖キビ畑で見られる

働きたいし、使いたいのだが、お互いの心理の糸を結ぶことができず、話もろくにできない。一九六〇年代後半、沖縄がアメリカ軍政下にあった時代、沖縄の砂糖キビ農家の親父と東京からきた大学生はそんなふうだった。沖縄の強い訛に耳が慣れていなかった私は、何を言っているかも聞きとれないほどであった。結局私は砂糖キビ畑を何箇所かまわっても、使ってもらえなかった。技術はともかく、屈強な体格をして若く元気なのにである。路銀はそろそろ尽きようとしている。鹿児島まではいけばななんとかなるだろうが、その金もないのであった。それならどうしたらいいのか。世界共通のことではあるが、土地に生産関係を依存している農民は、土地を守ろうとしてどうしても保守的になる。素性のわからない人間に対しては、どうしても保守的になる。東京の大学生と名乗っても、どこからやってきたのか得体の知れない私は、どんな災いを持ち込まないともかぎらない。災いとは、働かなくてもいいといって、サボタージュしたり、人に怠け癖を植え付けたり、その土地にある上下関係やいろんな関係を否定したり、つまり悪い思想を持ってくるかもしれない。この思想というやつは目に見えないから、どんな外見で近づいてくるかわからないのである。そんな危ないかもしれない人間なら、自分たちの領域にいれないほうがましだ。砂糖キビ畑の手が足らず、働いてもらいたいのはやまやまではあるのだが、とりあえずかえってもらおう。

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砂糖キビ畑で見られる-2

 

島へ島へと

砂糖キビ畑で見られる-2

災いは、まだほかにもある。日当いくらで雇ったはいいが、意識的にであれ能力に問題があるからであれ、全然働かないかもしれない。それで一人前の賃金をとるのだとしたら、払うほうも損だし、一生懸命働いている人も、自分のやっていることが馬鹿らしくなる。これは仕事にはかりしれない影響が生じてこよう。

この人間は、悪い病気を持っているかもしれないではないか。病気でその人間だけが働けないのならともかく、周りの人間にうつし、砂糖キビ畑刈りどころではなくなってしまうかもしれない。また大飯喰らいで、もしくは大酒のみで、いくら食べて飲み、どんなに働いてもらっても割に合わないのかもしれないのだ。

暴れもので、まわりの人に暴力をふるったら、秩序が乱れて大変だ。女性達に襲いかかるような人間かもしれない。犯罪を犯して、ここまで逃亡してきたのかもしれない。そのほか悪いことを考えると、次から次と連想されてくる。名前の知らないこの男など、雇いいれないほうが無難というものだ。

一方、砂糖キビ畑の勤勉な働き手となれば、その農家の主人にとっては得がたい富を手にすることになる。よい考えを持つよい人で、まわりによい影響を与えてくれるかもしれない。ほかにも先程もなれべたような悪いことを裏返したらよいことを、次から次やってくれ、はかりしれないよい働きをしてくれるのかもしれないのだ。

まれびとは、災いをもたらすか、富をもたらすかである。どちらの可能性をもある。砂糖キビ畑を手伝って富をもたらしてくれるかもしれないが、もっと大きな災いをもたらしてくれるかもしれず、それがわからない以上、この男には近づかないほうが無難である。

砂糖キビ畑の男は、私を前にして一瞬のうちにこんなふうに考えたのだろう。

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青竹の灯火

 

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青竹の灯火

朝鮮済州島から漂民が与那国島にやってきたのは尚真王治世のはじめの頃で、一四七六年と推定される。この頃、大和」のほうでは応仁の乱の余波がいつまでもつづき、京都の寺が兵火にかかって焼失した。足利義政の時代が終わり、足利義尚の時代になっている。戦乱は各地でつづき、殺したり殺されたりをつづけ、戦国時代への予感を覚えさせる。

下剋上のすさんだ風が吹き荒れるヤマトとはまったく別の世界に、与那国島はあった。池間栄三「与那国の歴史」をテキストに、朝鮮漂民が記述した与那国島の描写を試みてみよう。

穀物や草を刈る時には、鎌を使う木を伐る時には鎌を使う。小刀はあるのだが、弓矢や矛はない。人々は小槍を持ち、いつもこれをま持ち歩いている。

農業をするのに、鉄を使っていたということである。小刀は日常生活になくてはならないものであるが、弓矢は狩猟や戦闘のためである。つまり、戦争を想定していず、まことに平和な暮らしをしていたということだ。いつも小槍を持ち歩いていたということは、あくまで自衛のためのものであったろう。

与那国島には鉄山はなく。砂鉄を産するということも聞いたことはない。つまり、鉄は島以外のところから運び込まれたのである。貴重品であったろうが、農業の鎌に使い、木を伐る斧に使い、一人一人が持つ槍に使ったということは、誰もが持つことができるほどに普及していたということだ。またそれぞれの家庭の中にも、小刀がはいっていたというのはことに手の届かないほどの貴重品というわけではない。

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青竹の灯火-2

 

島へ島へと

青竹の灯火-2

外部世界との交易がさかんに行われていたということである。朝鮮漂民を島から島へ送っていった連携は、すでに手慣れた交易がなされていたということではないだろうか。

人が死ぬと桶に納めて崖の下におく。土で埋めることはせず、広い崖には五つも六つも桶が一緒におかれている。最近までは琉球や離島で行われていた崖葬であるが、朝鮮漂民にとっては、まことに珍しい光景であったようだ。こんな報告があることも、この見聞記が憶測や推量で書かれているのではないかという証拠である。

家に煙燈はなく、夜は竹を束ねて燃やして明かりをとる。木の実から蝋をとったり、植物や動物から油をとったりして、灯火にしたのではない。与那国島に自生している竹を燃やしたのである。

与那国の島建て神話には、島に人が住みはじめて間もない頃、島に四ヶ月も雨が降り続いたとされる。

薪が得られなくなり、暖もとれず、煮炊きもできない。大変困っていると、どこからともなく老人が現れた。突然出現した老人こそ、訪来人である。老人は生の竹がよく燃えることを教えた。こうして島人は竹を燃やすことを覚え、凍えと飢えから救われたとの伝説がある。長雨もいつかはやみ、はじめて太陽が射したところを「てだん・どくる」とし、拝所になっている。与那国の祖納の集落の中央部にその拝所はある。「てだん。どくる」とは、漢字で書くなら太陽所である。

竹を束ねて燃やし、明かりをとっていたということは、島のはじめの災害を忘れないとうにしているのかもしれない。なるほど生の竹なら一気に燃えつきるのではなく、少しづつ燃えるので、灯火にはふさわしい。

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基地のフライドチキン

 

島へ島へと

基地のフライドチキン

基地の中は、完全にアメリカだった。まるでカリフォルニアであった。カルフォルニアであった。カルフォルニアにもアメリカでもいったことはないのに、そう思った。沖縄とも、日本のどことも違う。沖縄にいるのに、沖縄とは異なったかぜが吹いているように感じた。

なだらかな起状を重ねた緑の芝の上に、充分な空間をとって白い建物があった。建物はクラブハウスだったり、スーパーマーケットだったりした。私をヒッチハイクで拾ってくれた男がいちいち説明してくれるので、わかったのである。それらの施設を、ゆっくりアスファルト道路が結んでいた。私は、日本国内のどこでも、こんな風景を見たことがなかったのである。

住宅もアメリカ式で、無理のない充分な空間の中に、色とりどりのペンキが塗られてならんでいた。この風景は見たことがあるなと私は考えていたのだが、映画やテレビの中でのことであった。このあたりは少し前は田んぼや砂糖キビ畑だったのだろうか。森もあったろうし、御嶽になっていたかもしれない。しかし、そんな土地の遠い記憶を根底から壊し、風景をまったくつくり変えてしまうことに、私はアメリカ人に対する態度を感じるのだ。運転しながら、男は得意そうだった。もちろんここでは英語が話され、基地の外でも同じなのだがドルが流通している。私はパスポートなしに、彼らの国に連れてこられたのだった。ここの豊かな様子をよく見て、外の貧しい友人たちに話したらいいと、そんなことまでいわれているような気がしたのだった。もちろん私のコンプレックスだったのかもしれない。しかし、どう言おうと、どのようにつくり変えようと、ここは彼らのくにではないのである。

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基地のフライドチキン-2

 

島へ島へと

基地のフライドチキン-2

「腹が減ったろう」

男は助手席の私にこう尋ねる。私はどのような返事をしたか記憶にない。あるいは本当に空腹で、頷いてしまったのかもしれない。男は口笛をしながらこういった。

「何か食べにいこう」

飛行場に向かっていた車は、軍事施設の手前で折り返す。もっと先へ行くようたとえ私が望んだとしても、かなえられることではなかったろう。

車はコンクリート建ての白大きなビルの前に止まった。クラブハウスであった。ジーパンにゴムゾウリニをはいた私は、明らかに場違いで、おどおどしてしまった。男は善意だけで案内してくれたのかもしれず、東京からきた大学生とまではわからず沖縄の若者を気まぐれに驚かせてやろうとしたのかもしれないのだが、私自身はどうしていいのかわからなかった。

入り口には特に案内もいず、基地にはいれるものなら誰が足を踏み入れてもよさそうであった。内部には薄くジャズが流れ、どこで聞こうと変わりはないのに、ああアメリカだなと私は思った。

「まあ坐れ」

男にいわれて、私はテーブルについた。男は一人でカウンターのほうにいき、盆にのせたフライドチキンとコーラを持ってきてくれた。こう書いてしまえばそれだけのことなのだが、私は実はフライドチキンを食べたのがはじめてだったのだ。世間に出回っているものではなかったのである。うまいものだなぁ、これがアメリカだと、私は感心してしまった。

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水争いの現場

 

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水争いの現場

朝はアシボシ、夜はヨボシ大嵩のおじーは田んぼを歩きながらいった。朝は星がでている暗いうちから起きて、夜も星がでるまで動いた。それでもサツマイモしか食べられなかった。米はたべるものではなくて、売るものだったのである。米を食べれるようになったのは、島で製糖事業がはまってからである。

田んぼや畦に草や藁を敷いて寝転がり、一晩中夜空を見上げている気分はどうなんだろう。毎晩毎晩の動きを眺めていると、運航の法則のようなこともわかってくるのだろう。星の物語が発生するかもしれない。

だがもちろん、ひたすら現実の要求で、田んぼに泊まるのである。

現在のように自動車道路が通っているわけではなく、馬に乗っていく。ひたすら仕事に追われ、行き帰りの時間を惜しんだということなのだ。

焚火をたき、サツマイモを焼く。イモをかじりながら、泡盛を飲む

その時、泡盛はしみじみとした人生の友だったに違いない。過酷な現実かもしれないが、私が思い描くのは悪い情景ではない。

私はおじーの後について、田んぼの水の中を歩きまわった。

水泥棒は低い位置にある田んぼの持ち主がやったに決まっている。

誰が水泥棒なのか、よくわかるのである。

水泥棒の現場はすぐにわかった。棒を田んぼに垂直に立てて穴をあけ、横からまた棒を突き立て水路を結ぶ。水の面に皺が寄り、ゆっくりとした大きな渦を描いている。月光の下で、その模様がはっきりと見えるのである。

それからおじーは畦道に生えている木の枝を鎌で刈り、水泥棒の現場に突き立てた。現場をおさえたのだから、二度とやるなということである。もちろん水抜きの穴は、足の裏で泥を寄せて埋めた。

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水争いの現場-2

 

島へ島へと

水争いの現場-2

昭和の終わりのことであったが、中世の時代のの出来事のように私は感じた。田んぼに水がなければ稲が育たないのは当然のととであるにせよ、このようなあからさまな水争いが現実に起きているのだ

「こうしておけば、もうやらんだろうさあ」

田んぼの底に枝を突き立て、畦道のほうに進みながらおじーはいった。水泥棒の顔が、おじーにはありありと見えていたはずである。わずかな水を、島の小さな共同体の中で、プライドも捨てて奪いあう。それはなんだか悲しいことであった。貧しいものが貧しいものから奪うということなのだった。みんな早く田植えをしなければ収穫ができなくなってしまうと、追い詰められたのである。

おじーは心の底から怒っている様子であった。私はおじーの怒りの前で、ただおろおろしていたのであった。トラックに乗り込み、おじーの田んぼから離れていく時、田んぼを見捨てるようで心残りであった。

祖内の集落に向かう道は暗かった。ヘットライトの黄色い明りが、

行くべき道を照らしてくれる。ハンドルを握る私の視界に動くものは何もなかった。「君はゆっくり休みなさい。おじさんは田んぼに寝る。今晩は久しぶりに田んぼに泊まるさー」

おじーは私を下すと、こういってまた田んぼのほうにトラックで戻っていった。水泥棒がまた出現するかもしれず、こうしなければ気がすまなかったのだろう。私は連日慣れぬ砂糖キビ畑の仕事で、体力の限界に直面していた。そんな私へのおじーの心遣いであった。

その晩、蒲団にはいっている私の耳に、激しい雨音が響いてきた。

おじーはトラックの荷台にねているのだろうが、それにしてもどうしているかと気になったことであった。

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