青竹の灯火-2

 

島へ島へと

青竹の灯火-2

外部世界との交易がさかんに行われていたということである。朝鮮漂民を島から島へ送っていった連携は、すでに手慣れた交易がなされていたということではないだろうか。

人が死ぬと桶に納めて崖の下におく。土で埋めることはせず、広い崖には五つも六つも桶が一緒におかれている。最近までは琉球や離島で行われていた崖葬であるが、朝鮮漂民にとっては、まことに珍しい光景であったようだ。こんな報告があることも、この見聞記が憶測や推量で書かれているのではないかという証拠である。

家に煙燈はなく、夜は竹を束ねて燃やして明かりをとる。木の実から蝋をとったり、植物や動物から油をとったりして、灯火にしたのではない。与那国島に自生している竹を燃やしたのである。

与那国の島建て神話には、島に人が住みはじめて間もない頃、島に四ヶ月も雨が降り続いたとされる。

薪が得られなくなり、暖もとれず、煮炊きもできない。大変困っていると、どこからともなく老人が現れた。突然出現した老人こそ、訪来人である。老人は生の竹がよく燃えることを教えた。こうして島人は竹を燃やすことを覚え、凍えと飢えから救われたとの伝説がある。長雨もいつかはやみ、はじめて太陽が射したところを「てだん・どくる」とし、拝所になっている。与那国の祖納の集落の中央部にその拝所はある。「てだん。どくる」とは、漢字で書くなら太陽所である。

竹を束ねて燃やし、明かりをとっていたということは、島のはじめの災害を忘れないとうにしているのかもしれない。なるほど生の竹なら一気に燃えつきるのではなく、少しづつ燃えるので、灯火にはふさわしい。

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