雨の砂糖キビ畑-2

 

島へ島へと

雨の砂糖キビ畑-2

 

雨に濡れると砂糖キビは柔らかくなり、手斧を振るたび棘のような粉が飛ぶということはなくなった。倒すにも葉を落とすにも、皮を削るにも、やりやすくなったのだ。

どんなに土砂降りになろうと、はじめは雨合羽を着てやる作業のほうが、炎天下にいるよりずっとましだった。だが汗をかくと、着ている服は濡れ、合羽の内側の身体は暑くなる。晴れれば、ただちに合羽を脱ぐ。するとたちまち服は乾いた土砂降りになっても、その時間がくれば弁当を食べなければならない。このことが精神的につらかった。樹影もない野面の真中で、弁当をひろげて食べる。弁当箱の中に雨が降りこみ、おかずは水漬けになり、飯粒は浮かんだ。身体が芯からこごえてきた。

仕事は過酷に違いないのだが、身体というものは強いもので、つらさに少しずつ慣れてくる。自分にしかわからない強靭さが身についてくるという感覚は、嬉しいものであった。仕事はまだはじまったばかりで、先は気が遠くなるほど長い。当初は一日二日と過ぎ去る日を指折り数えたのだが、何日過ぎ去ったのかわからなくなっていた。

砂糖キビ畑に人が増えたり減ったりするのは、ユイマールという制度があるからだった。人の手を借りた農家は、自分が相手の仕事をして返す。求められると返さなくてはならないので、自分の畑を置いてでも手助けにいかなければならない田植えや稲刈りや砂糖キビの収穫など、短期間にたくさんの人手が必要のなる時期には、隣近所や親せきの間でなんとなく順番が決まり、ほとんど同じ顔ぶれがあちらの家の田んぼ、こちらの家の砂糖キビ畑という具合に、仕事を巡回させる

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砂糖キビ畑へ

 

島へ島へと

砂糖キビ畑へ

一九八一年二月十一日、私は宇都宮郊外にある家を出発した。一年中で最も寒い季節で、内陸的気候の栃木県宇都宮は緯度のわりに寒い。樹木や屋根やアスファルト路面は、銀色の粉をまいたように霜で真白だ。私はリュックを担ぎ、白い息をはきながらバスに乗った。

宇都宮駅から上野駅行きの東北本線の電車に乗った。当時はまだ東北新幹線が開通しているわけではなかったので、急行に乗ったのであろう。関東平野を疾走する車窓で、私は不安を覚えていた。砂糖キビ畑での仕事に耐えきれるかどうか、地震がなかったからだ。

私は三年前まで、故郷の宇都宮市役所に勤めていた。だがそれも辞め、小説執筆に文字通り専念する日々を送り、「遠雷」なども発表していた。それから原稿用紙千枚を超える長篇小説「歓喜の市」の執筆をすませたばかりで、あまりにも作品に集中したので疲れてしまった。そこで身体を動かして、汗をかきたくなった。疲れたのなら温泉に行くのが普通なのだろうが、私は若くて元気だったのだそれと一年ぶりに沖縄にいきたかったのである。

砂糖キビ畑で、肉体労働の単純な喜びを取り戻したい。また日本に復帰して九年たった沖縄の現実を、離島でも一番端の与那国島から見詰めてみたい。そしてなにより、私自身の旅心を満足させたい。改めて数え上げてみれば、そんな理由からであったろう。

羽田から飛行機に乗り、那覇にいった。宇都宮ではよほど早くなければ、石垣ぐらいまではいけるが、与那国島までは無理である。それに時間はたくさんあったのだから、沖縄を楽しみながらゆっくり南に向かいたかった。急ぐ理由は何もなかった。

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砂糖キビ畑へ-2

 

島へ島へと

砂糖キビ畑へ-2

 

那覇の空港前の庭には、桜が咲いていた。私はコートを手に持ち、その上でセーターを脱いだ。日本列島は南北に細長いため、風土の襞が深いと、改めて実感するのであった。あらかじめ予約をしておいたビジネスホテルに旅装を解く。そこは島敏夫さんが冬を沖縄で過ごすために宿泊するホテルだと、以前前川信治さんに教えてもらったところで、私も前に一泊していた。泊港の南側に面していた。私は三十三歳であった。十年前ならば、ハーバービュー・ホテルと称して、港に野宿したであろう。ビジネスホテルに泊まったのは、私が若くなくなったということもあるが、そもそも日本に復帰して以来、昔のような野宿が許されなくなっている傾向である。かつての沖縄らしいおおらかさが少しづつなくなっていると、私は感じていた。那覇に着くと、まず私は波之上に行ってみることにしている。かつて私がボーイとして働いたナイトクラブの「ビアホール清水港」がどうなっていくか、確認したいからである。「ビアホール清水港」は跡形もなく消滅し、その後派手なネオンサインに飾られたナイトクラブ「チャイナタウン」になったが、それも取り壊されてビルになっていた。そこは内地からの観光客のための沖縄料理店が、テナントとして入居していた。何もかのが激しい速度で変化していく。

昔からまったく変わらないのは、マチグワーだった。旅人にまで「魚を買いなさいねー」と声をかけてくるオバーたちは、相変わらず元気だ。この変わらないところが、旅人にはまことに心強い。私はマチグワーで、砂糖キビ畑で使う合羽と長靴を買った。砂糖キビ刈りをする時に調子よく身体を動かせるよう、喜納昌吉のミュージックテープ「ブラッドライン」を買った。ここには「アキサミヨー」「ジンジン」など調子のいい曲がはいっていたからだ。

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ダマトゥ・ハガト

 

島へ島へと

ダマトゥ・ハガト

二十年よりももう少し前のことである。私が初めて与那国島を訪れた時、援農隊うがいこ員の世話をする係の男といっしょに島の観光巡りをしたことがある。私はバイクの荷台に乗せていってもらったのだ。その時に一番印象的だったのは、ダマトゥハガトである。

バイクを降りて砂糖キビ畑を突っ切ると、それほど高いわけではないのだが、なんとなく黴臭くて陰気なところだった。

「大和墓といわれているけど、よくわからないんだ。不思議なところだろう」

その男はいう。その場所には骨が散乱し、形がそのまま残った頭蓋骨などもあった。鳥葬か風葬にでもしたところかとも思えた。私は不用意にその洞窟に入ってしまったが、うっかりすると白く乾いた骨を踏み折りそうで、一歩も歩けなかった。妖気が漂うというような雰囲気である。「大和墓というくらいだから、和冦とか海賊の墓場だったんじゃないか」

もちろん学問的な裏付けがあるわけでもなく、その人は想像でいった。私は大和墓といういい方を真に受けていて、その時にはそんなものかと思ったしだいである。実際に員骨芽散乱していたのだから、いろいろなことを類推するのも不謹慎なことかとも思えたのである。池間栄造氏「与那国の歴史」によれば、明治の初め頃まで人骨にまじって刀剣や馬鞍や汁器や匂玉が保存されていたという。その後、内地からやってきた役人や旅行者のため、好きなように蹂躙され、金目になりそうなものや、歴史的な遺品は島外に持ち出されてしまったということである与那国島のいい伝えによると、平家の落武者の墓ではないかということだ。「南島探検」をあらわした笹森儀助が明治二十六年ダマトゥ・ハガトにやってきて、これは平家の落武者の墓であると断定した。そしてここで鎮魂の儀式をしたという。笹森儀助による直感による断定は次のようである。

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ダマトゥ・ハガト-2

 

島へ島へと

ダマトゥ・ハガト-2

 

屋島で破れた平家一門のうち、節操もないものは降参して捕虜となり、二君に仕えて源氏の臣妾奴僕となることを拒んだ忠節の人々は、遠く南洋諸島に流れていった。そして、ついに与那国島で没したのである。

こうして笹森は、忠義の神魂を慰すというのだ。この独善は、明治の人間の一面である。そして、南島の与那国島を皇国史観の地と位置付けようという意図がかいまみられる。

笹森は頭蓋骨を京都大学の解部教育に持ち込み、鑑定を依頼した。鑑定によると、数百年以上前の人骨とは思えず、しかも、日本人一般の人骨とは異なるということであった。平家落人説になって、八重山群島調査隊が与那国島にやってきて、ダマトゥ・ハガトの調査が行われた。それによると、近代の人骨であって、まわりからは十六世紀以降の南中国やベトナムの陶片が多数見つかった。つまり、墓であるのことはは間違いないのであるが、それ以前に住居として使用していた形跡がある。火を燃やした跡があり、食用にしたと思われるヤエヤマ・オオコウモリの骨がでてきた。食用のヒザラ貝もたくさん発見された。池間栄造氏はつぎのようにいう。

「ダマトゥ・ハガの語意は、ダマは山、トゥは山奥、ハガは境界であるから、いわば山奥の境界であって、墓の意味はないようである。」

こうして、ダマトゥ・ハガトの平家落人説は一蹴されてしまったのである。

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沖縄ロック

 

島へ島へと

沖縄ロック

那覇に戻り、波之上のビアホール清水港にいこうか、ごく当たり前に安里ユースホテルに行こうかと、港で一瞬迷う。泊港からは、南に向かうか東の向かうかということである。結局私はザックを担いで南へと一歩をしるすのであった。

波之上の景色は何も変わらない。昼間はネオンも乾いた骨のように見え、精彩にあふれる夜の賑わいを知っていると、まったく別世界である。歩いている人も化粧をしていないホステスなどで、どことなく緊張感が漂っていない。アメリカ兵たちも朝の点呼があるのかどうか、朝までうろうろしている姿はない。街は脂気がぬけている。

ビアホール清水港のたたずまいに、なんの変化があるわけではない。夜な夜なここで酒と女の乱痴気騒ぎがおこなわれているかと思っただけで、なんとなく涙ぐましいような思いにとらわれる。ベトナムの戦場に送られて明日死ぬかもわからないアメリカ兵たちと、刹那のうちに彼らを慰め励ます沖縄の女たちと、彼らの間に介在するのはドルである。それとささやかな人間の情だ。

ずっと後になるが、私はロック歌手喜屋武マリーと話したことがある。私が波之上で働いたというと、みんなたいてい疑わしそうな顔をする。私はたまたま紛れ込んだにすぎないのだが、マリーはコザのゲート通りのクラブで歌っていた。マリーという名から、アメリカ兵たちは聖母マリアを連想し、明日ベトナムで死ぬかもしれないという恐怖をぶつけたのだそうである。

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沖縄ロック-2

 

島へ島へと

沖縄ロック-2

 

コザや金武や那覇にある外人向けのクラブは、ただ酒を飲ませて金をとるという場所ではなかったと思う。少なくとも兵士たちは、刹那にでも生きている実感を確かめるところであったのだろう。

何か月か後にまた休暇がもらえ、沖縄に帰ってきた兵士たちは、マリーのところにやってくる。そして、きっとこういう。「まだ生きているよ」彼らの悲しみと恐怖とを受け止めて、マリーは歌うのである。「紫」、「コンデション・グリーン」など当時は沖縄ロックがコザのゲート通りを中心にしてさかんであったが、それらのバンドは兵たちと彼らを受けいれる沖縄の悲しみと結びついていたような気がするのである。あれほどに隆盛をきわめた沖縄ロックが、日本に復帰後に東京あたりで受け入れなかったのは当然だ。アメリカ兵の心の中にはいっていたのだから、当然のことアメリカのにおいが強すぎる。日本向けに薄められ、醤油の味がする日本のロックとはそもそも存在の仕方が違うのだ。コザであれ、金武であれ、波之上であれ、当時はベトナムの戦場のすぐ後方に位置していたのだ。東京の人間からすれば、とても食べきれないステーキのようなものだ。当時はステーキとはいわず、ビフテキと呼んでいた。ビフテキという言葉に込められた思いは、この世に存在する最高の御馳走だということで、実際に一年に一度も食べることはできなかったろう。しかも、ナイフもフォークも必要ない、箸で千切れるような薄い肉であった。

離れていると、むしろその街のことがわかる。私は波之上に帰った。ビアホール清水港のマスターもチーフもまるで昨日も私がいたようにして迎えてくれた。生きることは闘いであった。みんなはよく闘って生きている。彼らが元気なのを見て、嬉しかった。

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ナナサンマル音頭

 

島へ島へと

ナナサンマル音頭

沖縄にいって正直のところ私などが当惑したのは、流通する紙幣はドルで、車は右側通行であったことだ。すべてがアメリカ式なのである。私は子供の頃から「車は左、人は右」とイギリス式交通方式をたたきこまれてきた。

今でもそうなのだが、外国にいって一生懸命左側を見ていて、渡ろうとしたら右から車がやってきたという危ない経験を何度かした。しかし、三時間くらいすれば慣れてしまう。車を運転していて、交差点などにはいり、一瞬アレッと迷うこともあるが、それもすぐに慣れてしまう。

沖縄は日本に復帰した。一九七二(昭和十七)年五月十五日のことである。その時、流通する貨幣も変わり、いろんなことが混乱した。その一つが交通方式の変更である。人は何もかもを一気に変えることはできないので、できることからやることになる。米軍基地に関して、核つきとか、核の自由使用とか、沖縄基地の利用について日本本土と異なる特別の条件をつけることなく沖縄の返還を求めるという議論があった。交通方式も本土並みになることになった。

それでも復帰後六年間は変更されることはなかった。アメリカ式の右側通行は、米軍占領以来三十三年間である。その習慣になじんだ人には、反対側に車を走らせようといっても簡単にできるはずもない。自分一人だけが反対を走れというのなら、まわりにあわせなければよいのでなんとかなるが、全員が一斉に変えるのだ。

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ナナサンマル音頭-2

 

島へ島へと

ナナサンマル音頭-2

 

交通方法が同じ国の中で違えば危険があるというので、国際条約では「一国一方式」にしなければならない。政府は最初一九七六年実施の方針であった。だが石油危機など経済事情が発生し、沖縄の日本復帰の目玉事情ともいえる沖縄海洋博が延期になり、交通方式変更も延期になった。

一九七八年七月三十日午前六時を期して、すべてを反対にするという閣議決定がなされた。このことが社会におよぼす影響は大きかった。車は増えていたし、日本政府は沖縄の実情を踏まえていないとのひはんもなされた。要するに現地は不安だったのだ。平滑の根底がひっくり返されるのだから、当然のことであろう。

この頃沖縄を旅した私の耳に響いてきたのが、「ナナサンマル音頭」であった。

「ナナサンマルだよ、ナナサンマル、シタリガユイヤサー・・・」私の耳に残っているのは、こんな文句である。県内のどこにいても鳴り響いていて、さすがに唄の土地だと思った。人の心に一番影響があるのが唄なのだろう。あまりに珍しいので、私はレコード店にいってSPレコードを一枚買った。今も押し入れのどこかに仕舞い込んであるはずだ。

「ナナサンマル音頭」は、私には沖縄の人の悲鳴にも聞こえた。当事者の都合によって、生活のすみずみまで影響をうけなければならない。歴史の転換といえばまあそうなのだろうが、しなければしないほうがよい。

「交通方法変更は混乱、事故続発といった大きな騒ぎを巻き起こし、とくに那覇を中心とした都市地区は十日以上にわたってマヒ状態に陥った。実施後八月六日まで八日間の事故発生は、人身事故四一件、物損事故五二八件、そのうち一二七件がバス関係の事故である」

ナナサンマルの日のことは、「沖縄大百科事典」にはこう書かれている。

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与那国の歴史

 

島へ島へと

与那国の歴史

その時私は援農隊の正規メンバーではなく、ただついていっただけだったから、時間はいくらでも自由になった。援農隊の組織者は東京や札幌で説明会をやり、面接をして、島にいくメンバーを決める。与那国島に援農隊を送り込むが、中心の大きな仕事である。砂糖キビがはじまり、製糖工場が動きだすと、あとの仕事は自動的に進んでいくということになる。

私は翌年援農隊に参加しようと決めていた。そのためにこそ、与那国島について知りたいと思った。実体験の集積が一番よいのであるが、それには時間がかかる。ガイドブックというのではなく、その島に地誌や歴史などが書いてあるししっかりした本がほしい。しかい、たいていはないものねだれのことが多い。

そんな気持ちであいている時間に島を散歩し、島に唯一ある土産店にふらりとはいった。クバ笠や籠がたくさんある中に、ハードカバーの一冊の本が目にとまった。カバーもない、青い単色の上に金の箔押しがしてある地味な本で、「与那国の歴史」池間栄造著と書いてある。私は手にとり、ぱらぱらとページをめくって完全に私が求めている本だということがわかった。さっそく私は買い求めた。

ここには与那国島のすべてが書かれていた。地誌、伝説、上代の遺風、祭事、民謡、年表と、この一冊を読めば、今日的なことはともかく、与那国島のおおよそすべてのことはわかるのである。これだけのことを独力でやりとげた人がいる。

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