青竹の灯火

 

島へ島へと

青竹の灯火

朝鮮済州島から漂民が与那国島にやってきたのは尚真王治世のはじめの頃で、一四七六年と推定される。この頃、大和」のほうでは応仁の乱の余波がいつまでもつづき、京都の寺が兵火にかかって焼失した。足利義政の時代が終わり、足利義尚の時代になっている。戦乱は各地でつづき、殺したり殺されたりをつづけ、戦国時代への予感を覚えさせる。

下剋上のすさんだ風が吹き荒れるヤマトとはまったく別の世界に、与那国島はあった。池間栄三「与那国の歴史」をテキストに、朝鮮漂民が記述した与那国島の描写を試みてみよう。

穀物や草を刈る時には、鎌を使う木を伐る時には鎌を使う。小刀はあるのだが、弓矢や矛はない。人々は小槍を持ち、いつもこれをま持ち歩いている。

農業をするのに、鉄を使っていたということである。小刀は日常生活になくてはならないものであるが、弓矢は狩猟や戦闘のためである。つまり、戦争を想定していず、まことに平和な暮らしをしていたということだ。いつも小槍を持ち歩いていたということは、あくまで自衛のためのものであったろう。

与那国島には鉄山はなく。砂鉄を産するということも聞いたことはない。つまり、鉄は島以外のところから運び込まれたのである。貴重品であったろうが、農業の鎌に使い、木を伐る斧に使い、一人一人が持つ槍に使ったということは、誰もが持つことができるほどに普及していたということだ。またそれぞれの家庭の中にも、小刀がはいっていたというのはことに手の届かないほどの貴重品というわけではない。

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