島へ島へと
東京からきた学生-2
「この前、東京の学生がここは日本なのだからパスポートは必要ないと主張して、那覇港に上陸する前に船内で身分証明書を燃やしましたね。沖縄の学生も何人か交じっていたようですが。気持ちはわからないでもないが、その行為は自己満足的だとは思いませんか」
鋭い言葉が私に向けられてくる。身分証明書を燃やし、警察に逮捕されることにによって沖縄の現状をあぶり出す捨て身の行為に、私はできないながらも共感するところが多かった。その知らせを聞いた時、私は個人的な旅人にすぎなかったのだが、那覇港にいって学生たちの小さなデモに加わったりした。もとより覚悟の上で逮捕されるのは勇気ある行動だが、子供たちとの現場から発想する先生たちからすれば、もっと粘り強く持続的な行動をすべきだと考えるに違いない。身分証明書を燃やした事件の当事者でもないのに、私はその先生の議論にこてんぱんにやられてしまう。その先生の論理ももとをただせば政党の受け売りだと読み取ることはできるのだが、とにかくその日の宿を確保しなければならない私は、どうしても反撃を控えてしまう。とことんやりあい、議論が白熱し、学校の宿直室から追い出されることだけは避けねばならなかった。
情のないのだが、沖縄の現状を心情でしか理解してない浅はかな旅人の、それが限界であった。いろんな主張があり、その幾つかに私は共鳴してもいたのに、宿直室で主張し通すほどには自分の意見になっていないのxである。私のいいたいことは類型的で、もしかして先生のいわんとしていることも類型的なのであろう。ただ先生には、学校や子供という現場がある。私には茫然とした旅の空があるばかりなのだ。
「勉強させていただきました」
私がこういってたいてい議論は終る。よくいえば強張りのない受難性があるのだが、つまりは自分の言葉がないのである。情ない。