苦しい船旅

 

島へ島へと

苦しい船旅

お欣和になぜ行こうと思ったのか。私は大学二年生、十九歳だった。十九という年齢を覚えているのは、免税店で酒を買えなかったからである。一九六八年当時沖縄は日本にとっては外国だったのだ。

私は外国旅行をしようとしたのではない。当時はベトナム戦争が激化し、その後方基地としての役割をはたしていた沖縄の位置が理不尽であるとかんじていた。ベトナムで戦われていたベトナム戦争は、世界戦争の危機をはらんでいて、拡大した戦火がいつ沖縄にやってこないとは限らなかったからだ。

「民族の怒りに燃える島、沖縄を返せ、沖縄を返せ」と歌いながら、私は東京の竹芝桟橋から琉球海運の船に乗ったのだった。実態は組織にも属さない単なる一学生であったのだが、気分は民族主義者だった。インターナショナルなものを求めながら、こと沖縄となると、とたんに民族主義者になったものだ。本土の多くの学生たちが、私と同じ気分だったはずである。そんな表面的な政治状況とは別に、私は北関東のはずれ、冬になると乾いた冷たい空っ風が吹きまくる栃木県宇都宮市の生まれ育ちである。沖縄の風土とはまったく違う。しかし、私の母方の地は関西はずれ、兵庫県朝来郡、つまり但馬の、生野銀山にあった。渡り坑夫として栃木県の芦尾銅山に流れてきて、その子孫が私なのである。つまり、私という一個の血をとってみても、交通してきたことがわかる。

南へ欲求というものは、自分でもよくわかっていないながら、血の奥にはっきりとかんじていたのだ。そのことが政治状況とは別に、よんどころないものとして私を動かす根源的な泉であった。

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苦しい船旅-2

 

島へ島へと

苦しい船旅-2

故郷を離れて東京に遊学し、まだ二年目である。旅に出たという気分はあったが、吹きくる風に誘われても身も世もなく身体を動かしてしまうというような強いものでもなかった。なんとなく南に行きたい。その場に自分を置き、皮膚と血がどのような作用をすゆのか感じてみたい。そして、もしかすると遠い先祖たちの故郷として感じられるかもしれない沖縄が、アメリカ軍の統治化にあり、ベトナム戦争の火を受けるかもしれないのだ。実際、嘉手納基地からはB52戦闘爆撃機が北ベトナムのハノイやハイフォンに爆撃にいっていたから、ベトナムに報復されても仕方ない立場にあったのだ。若い私の内部は混沌とした感情が渦巻いていた。社会の影響を受けてもいた。

東京湾を出航する船旅は、未知への不安と船酔いとで苦しいものであった。二泊三日ほど、三等のすえた臭気のする船室で、他人の体臭の染み着いた湿った毛布にくるまり、じっとしていた。立ち上がると、伊の奥から酸ぽいものが込み上がってくる。それまで気分は悪くなかったのに、トイレに行こうと立ち上がった瞬間、一気に嘔吐感に襲われる。

横たわっていても波の乗って持ち上がっていき、登りつめたところでほうり出されるようにしてふわっと落ちる。これを際限なく繰り返すので、胃の中は空っぽで疲れ切っているはずなのに、頭が冴えて眠れない。

沖縄の旅は、苦しいものであった。

それでも沖縄に行きたかった。

 

コンビーフなるもの。

 

島へ島へと

コンビーフなるもの。

「サンドイッチシャープ」は、いまでいうフェースとフードの店である。今時のハンバーガーショップと違うと違うのは、ガラスケースにおさまっているサンドイッチはどれも店のおばさんの手づくりだということである。カウンターについて好みのサンドイッチをとってもらい、コーラで食べる。今考えれば、これこそアメリカン的である。

私が一番好きなのは、コンビーフ炒めだった。玉ネギやキャベツを切り、コンビーフとともにフライパンで炒める。御飯と味噌汁がつく。要するにランチなようなものである。

恥ずかしい話なのだが、栃木県に生まれて東京で学生生活を送っていた私はコンビーフは極めて御馳走だったのだ。ほとんど食べたことがないといってもよい。

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コンビーフなるもの。-2

 

島へ島へと

コンビーフなるもの。-2

宇都宮で私の母は小さな飲食店をやっていたから、もちろんコンビーフの缶詰は見たことはある。だがそれは高い棚の上にならんでいて、こどもにはとても手に届かない。母の店で最も高価なのがコンビーフの缶詰で、つぎが鮭缶だった。正月でもなければコンビーフは食べられなかった。それも薄く切って、刺身のように醤油につけて食べるのだった。沖縄にくると、コンビーフなどいくらでもある市場通りにいくと、アメリカ製の缶詰が山と積まれている。国産品よりアメリカ製の缶詰が百倍上等だと思っていたから、正直にいうと私は沖縄の部室的な豊かさに圧倒されたのだ。いくら驚いたところで、金がないのだから何も買うわけではなかったのだが・・・・。「サンドイッチシャープ」で食べるコンビーフ炒めは、私のとっては沖縄から眺める豊かなアメリカだった。なにしろ牛肉などほとんど食べたことがなかったのだから、糸のように切ってある牛肉の味は心からうまいという感じだったものだった。それに安いことが嬉しい。私はコンビーフ炒めライスが食べたくなれば「サンドイッチシャープ」の看板を探す。そうでなければ沖縄風の食堂にはいって、ゴーヤーチャンプルやトーフチャンプルや中味汁や足テビチや魚汁に御飯をつけて食べた。

何を見ても食べても珍しかった。栃木や東京での暮らしと、まったく違ったからである。アメリカ製品は東京暮らしからもうかげえる憧れであったが、ゴーヤチャンプルや足テビチは私には本当に珍しいものであった。東京からうかがうのではなく、後に旅をくりかえすことになるアジアの空気とつながるのもであり、本当は幼いころから栃木あたりの生活でひたっていた水脈なのである。その時は不分明ながら、ゴーヤチャンプルの苦味を噛みしめつつ私が感じようとした魂の古層がそこにあるのだ。

でもその当時の私は、表面の賑わいに浮かれてコンビーフ炒めをせっせと食べたのだった。

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離島農業の現実

島へ島へ島へと

離島農業の現実

まるで呼び寄せているかのように、困難は次から次へとよびよせている。製糖工場の寮は使えず、民宿に泊めてもらうことにしたが、急なことで蒲団が足りない。その晩は米軍払い下げの寝袋などを使ってどうにか過ごし、翌日に毛布を石垣から飛行機で運んでもらう。枕は藤野さんや他のスタッフや農協の女性職員が縫ってつくってくれた。与那国農協や町があれほど熱心によんでくれたのだが、実際にきいてみると、受け入れ態勢がまったくできていない。

肝心の作業をはじめることもできない。砂糖キビの製糖工場は農協に変わって沖縄県経済連が操業することになったのだが、工場買取りや創業資金を融資したのは県信連で、収穫した砂糖キビ原料一トン当たり二千万円を農家から差し引くとの条件が出されていた。農家は一日二百トンの原料を搬入しなければならない。などの厳しい条件が出されたこともあり、反発もあって話がまとまっていなかったのである。農家は農協に預金しているのだが、その預金は完全に凍結されていて、キビ一トンにつき二千円引き出されるということは、唯一の収入がより細かくなるということなのだ。また労働力の少ない与那国島では、毎日二百トンを収穫しつづけるのははじめてのことである。あまりに過酷な条件は、簡単にのむということではない。最後の一線で農家もゆずれないと踏ん張っていた。

援農隊にとって、島の事情は寝耳に水である。

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離島農業の現実-2

 

島へ島へ島へと

離島農業の現実-2

 

農家に同情はあっても、踏み込むことのできない世界であった。時代の谷間に落ちて翻弄されている。やっと与那国島までやってきたのに働くことができず、何もしないでいるだけでも経費がかかる。少なくとも民宿代は毎日必要なのだ。

製糖工場が操業していないから、キビを刈り取ることはできない。どうにもならないところに追い込えいるのは明らかだ。何もしないでも民宿代がかかるのなら、やれることはないかと考えた。

砂糖キビは刈り倒してから、葉を落とし革を剥き、結束して製糖工場に運ぶ。その順番を変えたらどうかというのだ。まず砂糖キビは刈り倒さず、立っているままで葉を落とし皮を剥き、条件が整ったところで刈り倒そうというのである。そうすれば、あとは刈り倒しただけで、製糖工場に搬入することができる。製糖原料としてのキビは、刈り倒したらできるだけすやかに製糖工場に運ばなければ、糖度が落ちる。畑に立っている砂糖キビを先に葉を落とし皮を剥くというのは、前代未聞のことで、糖度が落ちて原料として品質が悪くなるのは当然である。しかし、援農隊としては遊んでいるわけにはいかない。

現場でそんなジレンマに陥っているのに、援農隊の第二陣の募集があ¥はじまり、すでに東京を出発した。あまりゆっくりしていたのでは製糖の時期が終わってしまうということで、飛行機で与那国島にやってきた。

それでもまだ製糖工場は操業をはじめることはできず、第二陣も葉落とし作業とし作業をやるしかなかったのである。畑では刈り倒せば風も抜けて涼しいのだが、立っている砂糖キビは葉を落としたくらいでは暑い。そして、先の見えないことが、何よりもつらかった。

新聞社から有給休暇をもらって付き添ってきた藤野さんは、東京に帰らねばならなかった。もちろん他のスタッフがいたのではあるが、援農隊の一人一人が離島農業の厳しさを身をもって体験することになったのである。善意だけではどうにもならない。

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辺戸岬の奥

 

島へ島へと

辺戸岬の奥

沖縄本島の最北端の辺戸岬(へどみさき)は、鋭くそそれ立隆起サンゴ礁の断崖である。サンゴ礁の石灰岩がナイフのように尖ってならんでいて、ゴムゾウリでは歩きにくいことこの上ない。与論島が水平線に望まれる。

沖縄がアメリカ軍政下にあって当時、辺戸岬は本土が見える唯一のところであったのだ。年に一度、沖縄側からと与論島川から船を出し、境界線上の海で集会を持った。そんなことが大々的に報道されたものである。

ヒッチハイクで沖縄をまわっていた私は、辺戸岬にいった。会場集会のある日でもなく、高い山もない与論島は、穏やかな陽の下で波の間に間に浮かんでいるかのように見えた。私が常日頃思い描いている南島のイメージそのものだったのである。

浜から赤土を歩いていると、農作業帰りのトラックに出会った。手を上げると止まってくれ、運転していた男はこれから奥という集落に帰るという。地図で改めて見ると、奥という集落がある。その先があるならいってみようというのが旅の情けであるから、奥という名の集落にいってみることにした。

細かなことは忘れてしまったが、奥は山のゆるい坂を下りたところに開けた小さな集落であったと思う。茅葺きの屋根の家もまだ残っていた。二人で旅をしていた私たちは、トラックの荷台に乗っていた。集落は空と大地との間にはさまっているかのように見えたことを覚えている。

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辺戸岬の奥-2

 

島へ島へと

辺戸岬の奥-2

運転していた人が世話してくれ、私たちは公民館に泊まることになった。そこは土間のある公民館だったとぼんやり記憶がある。十五人ほどの団体の先客があり、私たちは隅の土間のほうに寝ることにした。夜露を防げるだけでありがたかった。

先客は琉球大学の学生たちであった。私も東京の学生だから、お互いに珍しくていろんな話をした。その内容までは覚えてない。そのうち学生たちは座敷に座布団をならべ、座敷の隅のほうを

舞台にした。

夜になると、集落の人が一人二人と集まってきた。さして広くもない公民館の内部は、人でいっぱいになった。みんなこの夜を楽しみにしているふうな顔であった。学生のリーダーが挨拶をし、学生たちによる寸劇や楽器の演奏がはじまった。私たちも土間の端から見ていた。日本復帰前で那覇のあたりは政治活動がさかんであったのだが、学生たちの演じるものに政治的要素はなかった。この村の人たちすら楽しんでもらおうというのであった。都市の学生と村の人の積極的な交流の場に接したことのない私たちは、不思議な世界であった。昔の山村工作隊もこんなものだったのだろうかと、私は考えてみたりもした。

学生の出し物が終わると、集落の側からの返礼とばかりに泡盛が一升壜で何本もだされ、三線と太鼓がでて、歌と踊りとがはじまった。私たちにも泡盛がふるまわれ、たちまち大宴会の様相を呈してきた。東京からきた大学生の私たちは、珍客であった。琉大の学生も集落の人も、私たちを大切にしてくれたのだが、どうしても一線があった。外部の私たちがいるために、琉大の学生と奥に人は同じアイデンティティを持つ沖縄人としてむしろ強い意識が働いているように、私には思えたのだ。

賑やかな沖縄らしい宴会に入ったのは、私にははじめてもことだった。

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アメリカの万年筆

 

島へ島へと

アメリカの万年筆

沖縄に行けばアメリカ製品が買えた。ウィスキーとか缶詰はそれほど欲しいとは思わなかったが、どうしても欲しいものがひとつだかあった。万年筆である。

パーカー万年筆は当時高嶺の花で、学生の身分ではとても手にはいらなかった。沖縄でも高いことは高いのだが、それでも本土に比べればずいぶん安い。一点豪華主義で、万年筆を一だけは本買いたかった。

その代金はなんとなく準備していたのだが、安いことにこしたことがない。そのために安く売っている万年筆屋を探すことになる。当時のバックパッカーの情報は素早くて正確だった。ユースホテルありで何人かに欲しい情報を尋ねると、ああそれならどこそこへ行けということになる。

記憶が正確ではないのだが、仲宗根万年筆店というのだったか、市場通りに面するあたりに、万年筆専門の小さな店があった。土産屋の一角で万年筆を売っていることはあっても、万年筆しか売っていない店は珍しい。

店に入ると、一見気難しそうな親父がいる。こちらが内地からきた学生で、本当に万年筆を求めてきたのだということはわかると思う。親父は特に親切ということではないが、つっけんどんというのでもない。

「気にいったのがあったら、インクをつけて書いてみたらいいさー」ガラスのショーケースをのぞき込んでいる私に、親父は声かけてくる。万年筆は外見から見ても良し悪しはわかるものでもない。私は手頃の値段の一本を指差す。

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アメリカの万年筆-2

 

島へ島へと

アメリカの万年筆-2

親父はそれをとって、ガラスの上に置いてくれる。それからインク壜の蓋をとってくれる。新しい万年筆のキャップを回転させてはずし、金色のペン先をほんのわずかインクの液体にひたす。どっぷんとひたすと新品の万年筆が汚れてしまう気がするのだ。

傍らに置いてあるメモ用紙に、丸をいくつもずらしながら書いてみる。万年筆はちょっと書いたくらいではそのよし悪しはわかるはずもないのだが、感触ぐらいはわかる。ちょっとペン先が硬いかなあという気もして、別の万年筆をとってもらう。試し書きをしても、それでわかるはずもない。

またきますといって、結局店を出てしまう。気負いが強すぎるため、一本の万年筆を選ぶことができないのだ。親父はこちらの気持ちを見通していて、またいらっしゃいとさり気なく言ってくれる。一まわりして、またくることになる。あるいは翌日、翌々日にきて、同じことをくり返し、確信が持てないまま一本を買うことになるのだ。その店では一番安いものかもしれないが、私にとっては最高級品である。

インクはたっぷりいれてもらった。ケースにいれたまま鞄にしまってあるのだが、晴れがましい気分である。さっそく使ってみたいので、土産屋で絵葉書を買い、昼食をとる食堂のテーブルでさっそく書きはじめる。故郷の親に旅先から手紙などだしたことなどないのに、新しい万年筆のおかげで親に孝行まがいのことをするようになる。友人たちも片っ端らから絵はがきを出す。

絵はがきを読んでもらうというより、万年筆を使いたいというただそれだけのことである。おそらく、自分自身への土産はその万年筆一本だけだったはずである。

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