朝鮮漂民の見聞-2

 

島へ島へと

朝鮮漂民の見聞-2

「この島の住民は長大でひげが美しく坐ると膝に至り、女は髪が長く立って地に届いた。言語衣服は日本人とはちがう。漂流民が木の葉に朝鮮国と書いて見せたが解らぬようであった。衣服は麻や木綿で絹はなく苧を織った布でつくり、袖は短く広く仕立て藍青に染めてある。男は褌はなく裳を着ける。その裳も青に染てある」着るのは麻や木綿で、麻を裂いて苧を織るということは、現在でもなされている。すでに藍を使っていたようである。

稲を食べた。粟はあっても植えなかったということは、雑草として存在していたということであろう。それだけでもそれだけでも島人の豊かな暮らしが想像できる。飯を炊くのに釜や鍋はなく、土で鼎をつくって、稲でいぶすだけなので、五、六日でこわれてしまう。皿や椀などの陶器はなく、飯は竹筒に盛って掘り飯にし、木の葉を食器にした。海水を菜に加えてあつもりをつくり、米を噛んで

木桶にいれ口噛み酒をつくった。舟にはさおがあり、櫓はない。風が出ると帆を張る。「盗賊がいない、道におちたものは拾わない。互に罵ったり喧嘩をしたりしない。小児を愛撫し、泣きわめいても手で打つことはしない」まことに平和な島の様子が感じられる。

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波之上の歳月。

 

島へ島へと

波之上の歳月。

波之上の「ビアホール清水港」で働いたことは、私のとってよい思い出である。私は沖縄を旅するたび、あの思い出の香りをかぎたくて、波之上に足を運ぶ。

ある日、マスターとママの顔が見たくて「ビアホール清水港」にいくと、外装がまったく別のものになり、派手なネオンサインが輝いていた。潜りのナイトクラブではなく、正式にAサインの看板をだした堂々たる店に生まれ変わっていたのである。名前も「チャイナタウン」となっていた。尋ねると、経営者は別の人だった。

夜空に怪しい花を咲かせたような、赤と緑と黄色の三色のネオンサインであった。「ビアホール清水港」のひっそりとしたたたずまいが、懐かしかった。今から思えば、あの頃が波之上の最後の輝きだったのかもしれない。ベトナム戦争は最後の決戦に向かって、いよいよ惨烈になっていた。すべてに余裕がなくなり、Aサインバーが閉まってから開くアウトローの店など、許容できなくなったのかもしれない。

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波之上の歳月。-2

 

島へ島へと

波之上の歳月。-2

マスターやママやチーママはどうしたのだろう。生活力のある彼らだから、何処かでしぶとく生きているのだろうが、私は消息を知らない。歓楽街とは、人が激しく交通する場所なのだから、出会いは一瞬の花火のようなものだ。あれから歳月がたち、アメリカ軍政下にあった沖縄は日本に復帰した。私は総理府発行の身分証明書がなくても、簡単にいけるようになった。昔は沖縄にいくとなったら必ず船だったのだが、今は飛行機が当たり前になった。日帰りさえも可能になり、旅は実に簡単でドラマも失われたのである。

那覇にいったら私にとっての青春の聖地を訪ねるのがならわしとなり、はからずも私は波之上の変遷を眺めることになった。ベトナム戦争がアメリカ軍の敗戦で終焉し、基地はそのまま存続していたが、兵士の数はめっきり減った。明日の命も知れず破れかぶれで遊んでいたアメリカ兵の姿はぐんと少なくなり、ナンミンの灯は消えそうになった。その灯を救ったのは、本土から新しくやってきた自衛隊員だった。アメリカ兵が去っていった隙間を、自衛隊員がそっくり埋めたといってもよい。

そのかわり、アメリカ人好みの派手なネオンサインは、どんどん影をひそめていったようだ。ナンミンはラスベガス風の街ではなくなっていき、なんだか暗く淫靡(いんび)な感じになってきた。暗闇の中から生まれてきたとでもいうように風俗営業の店が、軒を連ねるというのではなくぽつりぽつりできた。辻の遊郭があった時代に戻っていったのかもしれない。建物と建物の間には吸い込まれそうな深い闇があり、善良な市民から遠ざかるという印象がますます強くなった。ネオンがやたら明るくて、少なくとも表面的には陽気に酔っぱらっていたあの頃とはずいぶん雰囲気が変わっていった。

西武門交番(にしんじょうこうばん)の角から波之上宮のほうにブロックをひとつ寄った角にあった「ビアホール清水港」の建物は、ある日そこにいってみるとまったく消えていた。ビルになっていたのだ。そこにテナントなのかどうか、沖縄料理の店がはいっていた。高級そうな店である。あとで人に尋ねると、内地からの観光客が食事にくるコースになっているということであった。

当時のことであるが、波之上には沖縄に通り過ぎていった歴史が、そのまま通っていったのである。

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シマチャビ

 

島へ島へと

シマチャビ

かつて東京から与那国島に渡るには、まず那覇にいき、そこから石垣にいき、そこまでは予定通りにいくことができた。その先は不安定要素が多くて、予定がどのように変わるかわからなかった。石垣島からは、福山海運の「よなくに丸」で八時間かけ黒潮を渡る。この船は揺れるので有名だった。

もしくは石垣空港から十九席しかない小型飛行機DHC-6に乗るかだった。これはあまりにも小さい飛行機なので、天候の具合でしょっ中欠航になった。石垣飛行場までいくと、「欠航」の看板がでている。有無をいわせない力が、その看板にはあるのだった。「欠航」がでると、どんな事情があろうともそこから引き返さなければならない。予約はその時点で完全に取り消されるので、また改めて予約を取り直さなければならない。次の便、もしくは翌日の便でいければいいのだが、なかなか予約をとることができない。それが大問題なのだった。船ならば予約をとれないということもない。しかし、週に二便ほどしかなく、どうしても飛行機でいけない時のための補助という感じがあった。牛などを送る時も、牛だけ船に乗せ、人は飛行機でいく。船は揺れるし、船酔いもする可能性もあるので、難儀でもある。そのことをよく知っている島の人はほとんど飛行機を利用し、船に乗るのは九割までが内地の人間である。船のほうが運賃は安いのだが生活のためには船は不便だということである。

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シマチャビ-2

 

島へ島へと

シマチャビ-2

今は与那国空港の滑走路は拡張され、石垣からも那覇からもジェット機が飛んでいる。石垣の便は午前中と午後と二便あり、たくさんの人が乗れるし、大型なので欠航もめったになく、昔のような不便さはない。ただし、昔の不便さがなつかしい反面もある。与那国島にしてみれば、午前中の便で人がどっときて、小さな島の中を駆け足で観光し、午後の便でまたどっと帰ってしまう。旅館に泊まるわけでもないし、ただゴミを落としていくだけだということになる。

私もむかしの不便をなつかしく思う。かつては石垣までいた派手な服装をしたいかにも観光客らしい人たちも、与那国島行きの便では影をひそめた。普段着の島の人か、作業服を着た工事関係者ばかりであった。与那国まで、観光に行くとは一般にはあまり発想にはなかったのである。

実際に、観光旅行というものは会いたい予定が決まっているのであり、石垣で空席待ちを二日間もするというのは考えにくい。かつての与那国空港は、少しでも強い南風が吹けば、飛行機は横風を受けて着陸不能となった。私も与那国空港も上空まできながら、引き返したことがある。

比較的最近の事であるが、沖縄県から与那国島で講演をするよう頼まれたことがあった。私は東京から石垣島まで直行便で行き、同行する石垣島の校長先生と待ち合わせた。ところが天候がどうもよろしくない。石垣はよいのだが、与那国は風が吹いていて、飛行機が着陸できるかわからないということだ。私は校長先生たちとチェックインをすませ、飛行機が出るかどうかとやきもきしながら待合室にいた。

その時、突然アナウンスがあった。

「与那国空港横風のため、欠航します」

そのとたん、待っていた人たちが一斉に立ち上がり、帰っていった。みんな無言で、運命に従順という感じであった。私も人の流れとともにいきながら、昔を思い出し、一つの言葉を思い出した。シマチャビ、離島苦という言葉である。どんなに便利になったようであっても、本質は変わっていない。

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ウラブ岳の月見

 

島へ島へと

ウラブ岳の月見

民宿さきはらは夕方になると出かけていく人があり、しばらくすると帰ってくる人もいた。製糖工場は十二時間交代で、昼夜は一週間に一度は交代する。帰ってきた人は、まず、お風呂に入ってさっぱりし、それから夕食をとる。民宿のおばーは、これら出勤する人のためにと、仕事から帰ってきた人のためにと、二度夕食を出さなければならないということになった。

夕食が終わると、おばーは、一安心するようであった。おばーも昼食は砂糖キビ畑に出てキビ刈りをしているのである。夕食の支度のために畑から少し早く切り上げ、近所のおばーに手伝いにきてもらっていたかもしれないが、満室の客に朝晩の食事を供するのは大変なことである。だが砂糖キビの季節はみんなが頑張る島で遊んでいる人は一人もいない。役場や農協に勤める人は土曜日の午後と日曜日は鎌をもって畑にやってくる。内地からきた学生が海岸でテントを張ってキャンプをしていると、畑に引っ張り込まれる。その翌年のことだが、そんな学生たちを私はたくさん見たのであった。島外からたくさんの若者がやってくる砂糖キビ刈りの季節は、島の人たちにとって楽しみの一面もあるようだった。はじめは他所者(よそもの)に慣れなかった島人も、よそからくる人は結局島を救っているとの認識が広がってきて、そんな変化を受け入れてきたようであった。「ウラブ岳にお月見にいきましょうかねー。今夜満月だから、きれいですよー」

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ウラブ岳の月見-2

 

島へ島へと

ウラブ岳の月見-2

 

民宿さきはらのおばーがまわりの人にいきなりいう。いこういこうということになり、民宿さきはらのおじーがトラックを運転することになる。みんなは我先にと荷台に跳び乗っていく。私も乗った。

島の外では人がトラックの荷台に乗るのは道路交通法違反になるが、島ではトラックは最大の交通手段だ。駐在所に警官が一人いる。そんなことでそんなことで取り締まろうものなら、実際に取り締まった例がないのでわからないにせよ、大変なことになるに違いなかった。

今でこそ島内にはアスファルト道路が縦横に通っているのだが、当時はウラブ岳にいくにはずいぶん迂回していかねばならず、しかも砂利道であった。暗い夜道をトラックが大きくバウンドするたび、荷台の鉄板に尻をしたたかに打たれ、荷台に乗っている男も女も一斉に悲鳴を上げる。それがまた楽しかったのであった竹が道の方にかぶさっていて、荷台を掃くようにしていく。そんなことでもまた悲鳴が上がる。気持ちのよい風が吹いてくる。私は三十歳の半ばであったが、まるで青春が戻ってきたような気分になったものだ。ウラブ岳の山頂には大きなアンテナが並んで立っていた。そのために工事用の道路が通っているのだ。おかげで私たちは月見ができる。トラックが止まったので荷台から跳び降りると、四方に海が見えた。暗い海と月あかりが染みた空との間に、微かに水平線が見えた。満月の下の海は、黄金の光の粉がこぼれたようにキラキラと輝いていた。本当に粉が降りそそいでいるかのように見えた。自分は今日日本列島の最南西端の与那国島にいるのだと、荷台に乗ってきた連中は皆しみじみと思ったに違いない。

運転台にいたのはおじーとおばーだった。おばーは三線を持ってきていて、みんなの前で民謡を歌いはじめた。三線が出てくると、ナイチャーは聴く側にまわるしかなくなる。文化の違いを思い知るのだ。いつしかウラブ岳山頂の月見の会はおばーの民謡を聞く会になっていた。月も聞いているかのようであった。

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日本の札。

 

島へ島へと

日本の札。

東京のナイトクラブ探訪に、私が案内人としてふさわしくないと気づいたマスターは、一人で歩きだすようになった。新宿の三色メニューのナイトクラブにいった時も、次の店へは自分一人で歩いていった。大体の場所がわかったら、経費のこともあるし、私は行かないほうがよかった。

私が先に下宿に帰って寝ていると、明け方頃にマスターはずいぶん酔って、御機嫌で戻ってきた。「東京はチップの習慣がないねータクシーの運転手にチップやったら、喜んどったさー。あんなに喜ぶのんかねー」マスターはいかにも不思議だというふうにいう。チップはそもそもがヨーロッパかアメリカの習慣で、東京あたりではほとんどない。マスターがあまり驚いたふうにいうももだから、私は問う。「いくらあげたんですか」「これだよ」マスターが財布からだして私に見せてくれたのは、五千円札だった。今の五千円よりも遥かに大金である。

「こんなに・・・・」

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日本の札。-2

 

島へ島へと

日本の札。-2

 

「喜んだからいいじゃないか」

「五千円ですよ」

「何ドルか」

「五千円を三六Oで割ってください」

マスターは頭の中で計算し、拳を自分の掌に打ちつける。しまったということだ。私の下宿の一月分の家賃はどである。「暗いからわからんよー」マスターはいかにも残念そうにいうのであった。「運ちゃんはよろこんだでしょう」「それは、本当にいただけるのかって、何度も聞いたよー」「そりゃそうですよ」「日本の札はわからんよー」残念そうにマスターはいうのである。当時沖縄はアメリカ・ドルを使っていて、マスターには日本の札は馴染みがない。千円も五千円も一万円も、札のデザインをよくよく見て頭で考えなければ、判断がつかないのである。その逆のことが、沖縄にいった時の私などにもいえた。百ドル紙幣などはめったに見ることもないのだが、それも一ドル札と同じような色とデザインと大きさである。印刷されている人物の顔と、金額の数字だけが違う。支払う時には数字をよく確認してからにする。それは今でもアメリカにいくと経験することである。形もデザインもまったく違うのであるから、日本の札のほうがまだわかりやすいということになる。マスターは東京で大いに札びらを切ったようであるホテル代を浮かそうと発想したくらいだから、そもそもの所持金もたいしたことはなかったのかもしれない。マスターは東京のナイトライフを存分に楽しみ、また船で帰っていった。飛行機も飛んでいたはずだが、飛行機に乗ろうという発想は、貧乏な学生の私はもとより、多少金を持っているマスターにもなかった。

しばらく後で私は波之上の「ビアホール清水港」にいったのだが、その時チーフが、私の耳元でこんなふうに囁いた。「マスターは新宿で大暴れしたそうだねー何か気にいらないことがあって、ナイトクラブの店長呼び出して、テーブルひっくり返したそうだねー。店長は土下座して謝ったってねー」

「それはすごかったですよ。どうなることかと思って」

マスターの名誉のために、私はこう答えたのだった。

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犬と花嫁

 

島へ島へと

犬と花嫁

与那国に伝わる「いぬがん」の話は、池間栄三氏の「与那国の歴史」にあっても、古代の雰囲気を漂わせている。久米島から琉球中山王への貢物を積んだ船が出航したというから、中世のはなしであろう。離島に流れる時間は、沖縄本島に流れるものとも、またヤマトに流れるものとも、まったく違っている。それがまたおもしろいところである。

琉球王朝への進貢船は、嵐のあって行き先を失い、漂流をする。何日の何日の大海原を漂い、ようやく島影をみつけた。さっそくこぎ寄せていき、上陸すると、よさそうな無人島で、ある。そこが与那国島である。

伝説の中で、与那国島が無人島として何度も登場するのだが、不思議である。長雨が降り、火が降り、大津波があり、大災害にみまわれ、ごく少数の人が生き残る。生き残った人が与那国島の祖だというのだが、何人も始祖がいることになってしまう。災害にみまわれたのは何度もで、そのたび少数の人が生き残り、そこから派生した幾系統かの子孫たちが、それぞれの島建ての物語を語り伝えてきたのかもしれない。「いぬがん」の始祖は久米島の女である。久米島の一行は全員で何人かはわからないのだが、一人の女と一匹の犬がまじっていた。小屋を建て、海や山で獲物をとって生活をはじめた。ところが男が一人ずつ姿を消してゆく。どこにいってしまったのか、まったくわからないのである。

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