与那国島援農隊史-2

 

島へ島へと

与那国島援農隊史-2

与那国島と台湾の間の国境は封鎖され、交通ができなくなった。これまで交通の道だった海が、壁になったのである。台湾からの季節労働者がこなくなった与那国島では、まず、砂糖キビ畑での生産が困難になった。これまでは島が過疎になってきても、出稼ぎ労働者によってどうにか困らないできたのだ。砂糖キビ畑の仕事ができなくなったのは、沖縄の他の離島も同じようなものであった。

日本では外国人単純労働者の受け入れを禁止していたのだが、沖縄の離島の現実を見ればそうも言ってはいられない。そこで沖縄復帰特別措置として、韓国から季節労働者を受け入れることにした。

同じ外国人にしても、韓国と台湾とではずいぶんと違う。台湾人とは昔から交流があったため、生活習慣はお互いに理解することができた。お互いに影響を与えあってきたので、食べ物も似ていて、言葉で苦労することはなかった。

一方、韓国人とは、食べ物も生活習慣も言葉も、何もかもが違うお互いに理解しあうためには、たいへんな努力が必要であった。言語が通じないのでお互いの意思を通わすためには通訳が必要とされるのだが、現場の畑にいちいち通訳がいるわけではない。製糖工場には、砂糖キビを満載した大型トラックがひんぱんに出入りする。キビは荷台から横にふくらみ出しているので、運転手には後方が見えない。そんな時には言葉で注意しあうのだが、肝心の言葉がわからない。そのため韓国人が車ではねられるという事故があった。死亡事故は二件起きた。

小さな島にとって、韓国から季節労働者を受け入れるということは、あまりにも負担が大きかった。労働者募集の経費、飛行機のチャーター料、口にあう食料の準備、相次いつぐトラブルと与那国島では支えきれない。

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