与那国島援農隊史

 

島へ島へと

与那国島援農隊史

与那国の大嵩長岩さんの訃報に接した私は、与那国のことを考えた。そのすこしまえに藤野浩之さんから「与那国島サトウキビ刈り援農隊ーー私的回想の三十年」(ニライ社)が送られてきて、私はちょうどその本を読んでいろところであった。

私ははじめて藤野さんは当時共同通信社の記者で、その職業のかたわらボランティアで援農隊を組織し、与那国島に人を送り込んでいた。その慰問にいくということで、古くからの友人である私は藤野さんについていったのだ。藤野さんがいなければ、与那国島サトウキビ刈り援農隊は存在していなかったし、もちろん私と与那国島との出会いもなかったので。藤野さんの著書を参考にして、援農隊小史というものを描いてみよう。

百十一キロの海を挟んだ与那国島と台湾とは、隣人であった。ことに小さな与那国島にとって、台湾の影響は大きかった。台湾が日本の植民地の時代には、与那国の娘さんたちは台湾の日本人家庭に奉仕して、花嫁修業をしてきた。与那国島から石垣までは百二十七キロあるから、台湾との交流はごく自然なものであった八重山に水牛を持ち込んだのは台湾人であるし、砂糖キビ刈りの季節にはたくさんの季節労働者がやってきた。その与那国島と台湾にとって、一九七二年は大きな変動があった年だ。五月十五日に沖縄は日本に復帰して沖縄県となり、九月には日本と中国の国交が回復した。日中国交回復は田中角栄首相が北京を訪問しての、劇的な展開であった。台湾は中国と対立していたから、日中国交回復は即、台湾との断絶を意味した。

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