島へ島へと
基地のゲート
ヒッチハイクをして車に乗せてもらったアメリカ人は、米軍向けの車の販売会社ということだった。もともと軍人として沖縄にきて、そのまま残って会社を興した。民間人には違いないが、軍とは特別の関係があり、基地内にも自由に出入りできるということであった。
コザのゲート通りは、基地からそのままアメリカが延長してきたようで、軍人向けのバーやキャバレーや土産店がなんでいる。全体にアメリカ人向けの土産物は原色が使ってあって派手で、ジャンパーの背中には金糸銀糸や赤い糸で竜の刺繍がしてあったりし、どう見ても中国風だ。沖縄の土産といえばそういえるのだが、アメリカ人向けにつくられたものである。TシャツのデザインもOKINAWAの文字がなければ、どこのものなのかわからない。
今はコザ市は沖縄市になり、ゲート通りの風景もまったく変わってしまったのだが、当時基地の周辺は東京からきた学生にとって珍しいかぎりであった。アメリカ人と沖縄の人の間には明らかに経済格差があり、それは東京からきた人間にもアメリカ人との差は同様で、ゲート通りの風俗は私には眩しく見えたのだった。
双ではあるにせよ、ここはアメリカではないのだし、ベトナム戦争の基地になっているのは明らかなのだから、私にはわだかまりもある。アメリカの基地風俗に驚くなどという心境からは遠いのであった。つまり私は、当時のウチナチューや
ヤマトンチューがそうであるように、複雑な気持ちでコザにやってきたのであった。