島へ島へと
操業がはじまった-2
波照間島では、製糖工場の処理能力は低いのだが、長い日数をかけてほとんど島民だけで製糖事業をやっている。つまりは与那国島が人手不足になり、製糖事業が困難になっているのは、やり方が間違っているからなのである。それを正すための何かの方法があるはずなである。それをかんがえたい。
製糖をはじめているまわりの島でも、手伝いの暖農隊は様々な困難に直面していた。小浜島では畑で働く人も工場に住み込んでいたのだが、出される食事があまりに粗末であった。このことわは団体交渉をした。また小浜島は「はいむるぶし」というリゾートがあり、農家にしてみればじぶんたちはリゾートに勤めて高い賃金をもらい、安い労働力の暖農隊を雇ったほうが経済としては合理的である。もちろん島の自立を求めて意気に感じて暖農隊に参加した人にとっては、矛盾としかいいようはない。
当初の予定より二ヶ月遅れの三月六日になって、ようやく製糖工場の操業がはじまった。これ以上遅れると収穫をしても良質の黒糖は得られない。つまり、ぎりぎりの日程だったのである。
やっと仕事につくことのできた暖農隊であったが、仕事はきつかった。畑は明るくなってから、手元が見えなくなる暗くなるまでが労働時間である。月夜の晩にも働かねばならない。限界まで働かなければ、一日二百トンの原料搬入はとてもできない。
工場は午前八時からと午後八時からの二交代で、一日で十二時間働く。昼番と夜番は一週間交代で、交代の都合によっては一日十八時間労働になる。一週間で夜と昼が逆転することになり、深夜から明け方にかけて眠たくてたまらなかった。