オジーの訃報

 

島へ島へと

オジーの訃報

与那国島には久しくいっていなかった。石垣島までは何となく足を運ぶ機会もあるのだが、与那国島までは行こうとすると飛行機が欠航になったりした。大嵩長岩さんや苗子さんからはしばしば電話をもらい、「与那国島にきなさいねー、待ってるよー」といわれていた。また石垣空港で与那国島の顔見知りと会い、「早くこないとオジーはぼけてしまうよー」と、冗談とも本気ともいえないような誘いを受けていた。

そんな時、「農援隊三十周年記念式典」への案内状が届いた。式典と祝賀会平成十七年三月二十六日㈯の午後三時から行うということだ。そのことで大嵩苗子さんから電話をもらったこともあり、私は参加することに決めた。農援隊の組織者で、先ほどの共同通信社を定年退職藤野雅之さんがツアーをつくるというので、そこに混ぜてもらうことにした。準備は全て整ったのである。

その日の手帳を、私は今開いている。三月十六日は月刊誌「家の光」の取材で、私は静岡県の磐田にいっていた。母ちゃんたちが兼業農家の灯を守り、チンゲン菜を日本一の産地にした。父ちゃんたちは工場に勤め、定年を迎えて家に帰ると、日本一のチンゲン菜の産地になっていた。そこで父ちゃんは昔やった農業を思い出し、チンゲン菜栽培の手伝いを始めた。そんな取材を始めた後、磐田のホテルにいくと、サッカーチームのジュビロ磐田の選手たちが合宿をしていた。

翌日、私は浜松にでた。岐阜羽島で講習を頼まれていたからだ。新幹線の浜松駅にいった時、妻からの携帯電話が入った。与那国のオジーが亡くなったということだ。私は驚いてしまい、与那国の大嵩家に電話をいれた。するとケイコさんがでた。オバーの姪で、与那国空港で勤めている。与那国の人は本名のほかに、なんとなく呼びやすい愛称を持っている。それがケイコなのだ。

「私にもよくわからないんですけど、みんな石垣にいって、それからこっちに戻ってきます。

ケイコさんにも事情はしっかり掴めていない様子だった。しかしながらオジーが急死したことに間違いはないようだった。私はケイコさんに献花の手配を頼み、妻に電話をして電報を打ってもらうことにした。

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