民宿さきはら

 

島へ島へと

民宿さきはら

光が強いと、カメラでは絞りを絞って光量を弱める。そんな感じで人は心に映じる光の量を自動的に調節するのかどうか、与那国島の風光は全体的に暗いとも感じられた。

飛行機は祖内と久部良を結ぶ、島の大動脈ともいうべき道路の途中にある。今でこそ一周道路も完成したし、あっちこっちにいく道路もでき、島を横断する道路やほかの道路がいくつもできたので、道に迷うほどである。

あの当時は、島に三つある集落、祖内、久部良、比川をようやく結ぶメインの道路があるだけだった。私は稲垣さんが運転する軽トラックの荷台に乗った。便乗して乗ってくる人も他にいて、私には誰が誰やらわからない。人を迎えに来て飛行機場から去っていく車が、祖内に向かってなんとなく列をつくっていた。

藤野雅之さんは稲垣さんの隣の助手席に乗っていたので、私には荷台で向き合っていた男が、指を伸ばして教えてくれた。

「ここが製糖工場さあ」

森が途切れるとアスファルト舗装した広い空間があり、その羽毛に大きな煙突を立てた黒ずんだ建物があった。最新鋭の工場とはとてもいえないのだが、長いこと島と苦楽をともにしてきた老人の風貌であった。だがまだまだ働いもらわなければならないのである。

製糖工場にはタイヤをあかさびだらけにした普通車のトラックがはいってくる。工場前の広場には、キビの山ができていた。煙突から黒い煙が立ち、甘ったるい風が吹いてきた。気が付くと、新しくできた私に見せるためなのか、稲垣さんは製糖工場の正面前でトラックを止めてくれているのだった。

製糖工場からほんの少し行った右側は、隆起珊瑚礁のティンダバナである。それ以後何度もこの隆起珊瑚礁の丘に登ることにはなるのだが、与那国島では象徴的な名所なのである。翌年に住み込むことになる大嵩長岩さんの家の窓からよく見えた。

ティンダバナの脇から坂を降りて祖内にはいっていく。最初に行った時は家が密集していて、道路は迷路にさえ感じた。役場と農協が街の中心にあり、その前に信号機がある。島の人が町に出て信号というものを目にした時、どのような態度をとったらよいかわからないと困るので、教育的配慮で信号機をつけているということだ。

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