与那国町農協の危機

 

島へ島へと

与那国町農協の危機

一九七0年代、与那国島の砂糖キビ畑は畑の土地改良が進んでいず、畑は起状があって石が多く、生産性が低かった。また海からの潮風が強く、塩害を受けやすくて、砂糖キビそのものの生育も悪い。そんな悪条件の中で懸命に生きている与那国島の人々を、当時共同通信社の記者であった藤野雅之や黒田勝弘は、援農隊を組織して援助をしようとしたのだった。援農隊の出発を三日後に控えたある日

与那国町農協から突然電報がはいり、出発を見合わせるようにといってきた。藤野氏は何とか農協に連絡を取ろうとしたが、どうもらちがあかない。一体何があったのか。新聞記者の特技を生かし、共同通信那覇支局の記者にも協力してもらい、与那国農協に何が起こったのかを調査した。

一九七五年沖縄海洋博のとしである。沖縄の日本復帰を祝う経済イベントでもあった沖縄海洋博は、特に沖縄では盛り上がっていた。海洋博に関する海運会社に、与那国町農協が投資をした。その資金は、もちろん組合員の預金である。

その海運会社が倒産し、与那国町農協は三億円の損金をかぶることになってしまった。この他にも闇の部分があり、与那国町農協の名前で導入預金を集め、しかも裏金利までつけていたというのだ。与那国農協は製糖事業は経済の支えなので必ずやらなければならなかったが、援農隊を島に迎えても、約束の資金を払えるかどうかわからなくなってしまったのだ。

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