波之上の歳月。-2

 

島へ島へと

波之上の歳月。-2

マスターやママやチーママはどうしたのだろう。生活力のある彼らだから、何処かでしぶとく生きているのだろうが、私は消息を知らない。歓楽街とは、人が激しく交通する場所なのだから、出会いは一瞬の花火のようなものだ。あれから歳月がたち、アメリカ軍政下にあった沖縄は日本に復帰した。私は総理府発行の身分証明書がなくても、簡単にいけるようになった。昔は沖縄にいくとなったら必ず船だったのだが、今は飛行機が当たり前になった。日帰りさえも可能になり、旅は実に簡単でドラマも失われたのである。

那覇にいったら私にとっての青春の聖地を訪ねるのがならわしとなり、はからずも私は波之上の変遷を眺めることになった。ベトナム戦争がアメリカ軍の敗戦で終焉し、基地はそのまま存続していたが、兵士の数はめっきり減った。明日の命も知れず破れかぶれで遊んでいたアメリカ兵の姿はぐんと少なくなり、ナンミンの灯は消えそうになった。その灯を救ったのは、本土から新しくやってきた自衛隊員だった。アメリカ兵が去っていった隙間を、自衛隊員がそっくり埋めたといってもよい。

そのかわり、アメリカ人好みの派手なネオンサインは、どんどん影をひそめていったようだ。ナンミンはラスベガス風の街ではなくなっていき、なんだか暗く淫靡(いんび)な感じになってきた。暗闇の中から生まれてきたとでもいうように風俗営業の店が、軒を連ねるというのではなくぽつりぽつりできた。辻の遊郭があった時代に戻っていったのかもしれない。建物と建物の間には吸い込まれそうな深い闇があり、善良な市民から遠ざかるという印象がますます強くなった。ネオンがやたら明るくて、少なくとも表面的には陽気に酔っぱらっていたあの頃とはずいぶん雰囲気が変わっていった。

西武門交番(にしんじょうこうばん)の角から波之上宮のほうにブロックをひとつ寄った角にあった「ビアホール清水港」の建物は、ある日そこにいってみるとまったく消えていた。ビルになっていたのだ。そこにテナントなのかどうか、沖縄料理の店がはいっていた。高級そうな店である。あとで人に尋ねると、内地からの観光客が食事にくるコースになっているということであった。

当時のことであるが、波之上には沖縄に通り過ぎていった歴史が、そのまま通っていったのである。

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