南凕というイメージ

 

 

島へ島へと

南凕というイメージ

滑走をはじめてから、陸地がぐんぐん近づいて、

私は飛行機に乗っているのだったと改めて感じた。

窓から遠影や海を眺めているときには、自分の力で空を飛んでいるような錯覚を覚えていた。いやそんなことを考えず、自分が海の彼方へと向かっていることにひたすら快感を覚えているのだった。

海の彼方には何があるのか。それは万人に共通する憧れにも似た思いであるだろう。もちろん私は台湾に行ったことがあるし、その先遥かな外国にも行ったことがある。日本国内も歩き回ってきた。日本が暮れたところがその日の宿というような、自由奔放

な旅を繰り返してきたのだ。

与那国島は日本国内の最も遠いところである。南凕

という言葉があるが、これは荘子にいう南方にある大きな海である。亜熱帯の明るい太陽の光が降りそそぐにもかかわらず、暗いイメージがつきまとう。

凕とは、暗い海という意味なのだ。単なるすき通った光に満ちているところとは違う。その暗さの原因は、要するに知らないというところから発するのではないか。与那国島はヤポネシアのはじまりであり

琉球孤のはじまりといってもよい。また台湾の位置する国境のしまである。だがこれは、あくまで地図を見た上での表面的な知識だ。一般的な知識として薩摩藩の人頭税の取り立てがことに厳しく、砂糖が

薩摩藩に膨大な富をもたらした。そのため人々の暮らしは厳しく、そんなところから南凕というイメージも生まれるであろう。また書物上の知識だが、過酷な表現があっても、海に囲まれた島だから、容易に逃げ出すことはできない。その現実とは、人口を調節するため、妊婦を海岸の岩の割れ目に飛ばせ、落ちたものを殺したクブラバリの伝説が物語っている。たとえ飛べたとしてもあまりのストレスのため、流産をした。食料が乏しかったために、一定以上の人口は調節する必要があった。トゥングダの伝説の悲惨である。ある時突然鍋や釜の底を叩いて合図を送り、一定時間内に島の中央部にあるトゥングダを集める。老いていたり、酔っぱらいだったり、

身体障碍者だったりすれば、短時間のうちに長い距離を移動してくるころができない。トゥングダに集まることができなかった人は惨殺されたという。クラブバリもトゥングダも私は新川明「新南島風土記」を単行本で読み、亜熱帯の明るい島に恐ろしい

南凕という印象を持つに至った。

もちろん後に私はクラブバリもトゥングダにも何度もいき、観光客にまじって記念写真におさまったり

してきた。クラブバリでは観光客たちは岩の裂け目を飛ぼうとするポーズを決まってする。成人の男が飛ぼうとして飛べない距離ではないので、実際に飛んで得意になっている人もいる。

あれは伝説にすぎないだろうなと私は思う。小さな共同体の中で、人はそんなに残酷になれない。しかし、よくできた伝説で、「新南島風土記」は八重山

の発見の書物でもあったのだ。八重山は沖縄の中の

他界で、与那国島はその最深部、他界の中の他界であった。つまり、南凕の中でも最も暗いのが与那国島であった。

その与那国に私の乗った飛行機は着陸しようとしていた。滑走路のアスファルトに車輪のタイヤが触れた。

 

 

藤野博之さんとの旅

 

島へ島へと

藤野博之さんとの旅

紆余曲折の中で与那国島へサトウキビ刈り暖農隊がはじまったのが一九七六年で、私が興味を持ち参加をしたいと願ったのは、暖農舎の藤野博之さんから話を聞いたのが直接のきっかけであった。

一九七六年二月に藤野さんは暖農隊が現地でうまく溶け込んでいるか視察し、また暖農隊を励ますために、与那国島に行く計画を立てているということだった。藤野さんは共同通信社の記者で、私は昔からの友人であった。その頃私は長編小説「遠雷」で野間文芸新人賞を受賞したばかりで、何かと忙しかった。暖農隊に参加して、二ヶ月も三ヶ月も家をあけるのは無理だったが、藤野さんが休暇をとっていく一週間ほどの旅なら、私も同行することができる。今回は暖農隊の様子を見て、来年も改めて時間をとって畑で働けばよいのである。

そのようなことにたちまち話が決まり、私は藤野さんとともにまず那覇にいった。宿泊したのは、暖農隊がよく泊まる民宿であった。共同通信社の支部は沖縄タイムスのビルの一室にあるので、そこを訪問すると、沖縄タイムスの新川明さんや川満信一さんを紹介された。雑談の折、私が復帰前に那覇の波の上のアメリカ兵向けナイトクラブで働いたという話をした。その店はAサインではなく、Aサインが閉まったあとに開くモグリ営業だったのだ。折からベトナム戦争が激しく、私は客のアメリカ兵を通して裏側から戦争を見ていた。

そんな話をすると、それを書きなさいと新川さんにいわれた。新川さんも川満さんも復帰運動をリードした知識人だったが、当時は沖縄タイムスの編集幹部だったのだと思う。さっそく私は原稿用紙とボールペンを借り、片隅の机で書いた。その文章は数日後の新聞に掲載された。

藤野さんと沖縄にいると、どこにでも知人がいる。沖縄との親密な付き合いをしてきた人だということがよくわかるのだ。

東京から与那国島にいく場合、当時はまず那覇に飛び、それから石垣、与那国と飛行機を乗り継がなければならない。今は東京から石垣、那覇から与那国の直行便がそれぞれあるのだが、当時の那覇と石垣に寄っていくのがというのが友人をつくるためには幸いである。しかも、悪天になれば飛行機は欠航になるのだから何日も滞在せねばならず、顔を見合わせる機会も多くなる。藤野さんはそのような旅を、これまで幾度もくり返してきたのだろう。

那覇にいけば、新川さんや川満さんと酒場にくりだし、談論風発する。時には朝まで飲む。おかげで私も新川さんや川満さんと友人となった。今でも顔を見合わせれば、暗黙のうちに酒場にくり出すということになる。

石垣島では、私立文化館にいった。与儀館長は当然のことだが、ルポライターの友寄英正さんや八重山毎日新聞も上地義男さんがいる。みんな藤野さんとは旧知の間柄で、藤野さんといっしょにいるだけで私も友人になる。途端に世界が一瞬と広くなるのだ。もちろんその晩わ酒盛りである。泡盛は悪酔いしないので、いくら飲んでも平気だ。

与那国島に飛ぶ日、風が強かった。私は民宿で朝に自転車を借り、飛行機の様子を見にいく、すべての便に欠航の表示が出ていた。風がおさまるまで、あと何日か石垣にいなければならない。日程に余裕がないので困るのだが、無理な自己主張をしても仕方がない。

さっそく私はシマチャビ(離島苦)の洗礼を受けたのだった。

 

オジーの訃報

島へ島へと

オジーの訃報

与那国島には久しくいっていなかった。石垣島までは何となく足を運ぶ機会もあるのだが、与那国島までは行こうとすると飛行機が欠航になったりした。大嵩長岩さんや苗子さんからはしばしば電話をもらい、「与那国島にきなさいねー、待ってるよー」といわれていた。また石垣空港で与那国島の顔見知りと会い、「早くこないとオジーはぼけてしまうよー」と、冗談とも本気ともいえないような誘いを受けていた。

そんな時、「農援隊三十周年記念式典」への案内状が届いた。式典と祝賀会平成十七年三月二十六日㈯の午後三時から行うということだ。そのことで大嵩苗子さんから電話をもらったこともあり、私は参加することに決めた。農援隊の組織者で、先ほどの共同通信社を定年退職藤野雅之さんがツアーをつくるというので、そこに混ぜてもらうことにした。準備は全て整ったのである。

その日の手帳を、私は今開いている。三月十六日は月刊誌「家の光」の取材で、私は静岡県の磐田にいっていた。母ちゃんたちが兼業農家の灯を守り、チンゲン菜を日本一の産地にした。父ちゃんたちは工場に勤め、定年を迎えて家に帰ると、日本一のチンゲン菜の産地になっていた。そこで父ちゃんは昔やった農業を思い出し、チンゲン菜栽培の手伝いを始めた。そんな取材を始めた後、磐田のホテルにいくと、サッカーチームのジュビロ磐田の選手たちが合宿をしていた。

翌日、私は浜松にでた。岐阜羽島で講習を頼まれていたからだ。新幹線の浜松駅にいった時、妻からの携帯電話が入った。与那国のオジーが亡くなったということだ。私は驚いてしまい、与那国の大嵩家に電話をいれた。するとケイコさんがでた。オバーの姪で、与那国空港で勤めている。与那国の人は本名のほかに、なんとなく呼びやすい愛称を持っている。それがケイコなのだ。

「私にもよくわからないんですけど、みんな石垣にいって、それからこっちに戻ってきます。

ケイコさんにも事情はしっかり掴めていない様子だった。しかしながらオジーが急死したことに間違いはないようだった。私はケイコさんに献花の手配を頼み、妻に電話をして電報を打ってもらうことにした。

「島で力一杯生きた生涯でした。オジーのことは忘れません。安らかにお休みください。」

これが手帳に走り書きしてある電報の文面だ。私は三月二十五日に出発し、その日は石垣に泊まって、与那国には翌日にはいる。ツアーだからそうなるので、私はその日のうちに与那国にはいってしまうところである。オジーのことがあって、この日程はますますもどかしい。しかしながら、「援農隊三十周年記念式典」まで、私は約束がいろいろ詰まっていて身動きがつかない。

午後少し遅く与那国に電話をすると、またケイコさんがでた。その日は空港の仕事は休んだのだろう。情報は少し詳しくなった。オジーは石垣島の病院の検査にいっていて、それで亡くなったということだ。検査で死に至るということが、私にはどうしても納得できない。ケイコさんも納得できていないのだが、そこまでしか知らないのである。とにかくオバーはオジーとともに与那国の家に向かっているということだった。

我が家に最初の一報をいれてくれたのは藤野さんである。藤野さんなら、農協か役場の人の電話をまずもらうであろう。そこで藤野さんに電話をいれるのだが、いつも留守電だった。

私の焦りが空回りしたような一日であった。

 

 

民宿さきはら

 

 

島へ島へと

民宿さきはら

光が強いと、カメラでは絞りを絞って光量を弱める。そんな感じで人は心に映じる光の量を自動的に調節するのかどうか、与那国島の風光は全体的に暗いとも感じられた。

飛行機は祖内と久部良を結ぶ、島の大動脈ともいうべき道路の途中にある。今でこそ一周道路も完成したし、あっちこっちにいく道路もでき、島を横断する道路やほかの道路がいくつもできたので、道に迷うほどである。

あの当時は、島に三つある集落、祖内、久部良、比川をようやく結ぶメインの道路があるだけだった。私は稲垣さんが運転する軽トラックの荷台に乗った。便乗して乗ってくる人も他にいて、私には誰が誰やらわからない。人を迎えに来て飛行機場から去っていく車が、祖内に向かってなんとなく列をつくっていた。

藤野雅之さんは稲垣さんの隣の助手席に乗っていたので、私には荷台で向き合っていた男が、指を伸ばして教えてくれた。

「ここが製糖工場さあ」

森が途切れるとアスファルト舗装した広い空間があり、その羽毛に大きな煙突を立てた黒ずんだ建物があった。最新鋭の工場とはとてもいえないのだが、長いこと島と苦楽をともにしてきた老人の風貌であった。だがまだまだ働いもらわなければならないのである。

製糖工場にはタイヤをあかさびだらけにした普通車のトラックがはいってくる。工場前の広場には、キビの山ができていた。煙突から黒い煙が立ち、甘ったるい風が吹いてきた。気が付くと、新しくできた私に見せるためなのか、稲垣さんは製糖工場の正面前でトラックを止めてくれているのだった。

製糖工場からほんの少し行った右側は、隆起珊瑚礁のティンダバナである。それ以後何度もこの隆起珊瑚礁の丘に登ることにはなるのだが、与那国島では象徴的な名所なのである。翌年に住み込むことになる大嵩長岩さんの家の窓からよく見えた。

ティンダバナの脇から坂を降りて祖内にはいっていく。最初に行った時は家が密集していて、道路は迷路にさえ感じた。役場と農協が街の中心にあり、その前に信号機がある。島の人が町に出て信号というものを目にした時、どのような態度をとったらよいかわからないと困るので、教育的配慮で信号機をつけているということだ。

民宿さきはらは、役場と農協の建物の裏側にあった。崎原家も農家で、自分たちでも砂糖キビを栽培し、その上で民宿をして援農隊や観光客を受け入れているということだ。そもそも砂糖キビ畑で手が足りないわけで、民宿の仕事でも人を雇ってはいるだろうが、目の回る忙しさであろう。

民宿の中には障子を閉め切ってある部屋があり、そこには極力近づかないか、廊下を通り過ぎていかなければならない場合には、物音を立てないようにしてほしいと注意を受けた。おしゃべりをしながら廊下を歩くなんてとんでもない。製糖工場で夜勤をしてきた人たちが眠っているのだ。眠れるときに眠っておかなければ、働くことはできない。

民宿に泊まって、畑に働きに行く人もいた。農家に泊まることが原則なのだが、農家のほうでも三食の世話がやりきれないのであろう。民宿全体には緊張感がみなぎっていた。援農隊の現地本部もここにおかれ、稲垣さんが常駐して、何かあればすぐに出かける態勢である。私は藤野さんと同じ部屋に泊まることになった。

 

墓地を見る

 

 

島へ島へ

墓地を見る

小型飛行機に乗って食い入るように窓に顔お近づけ、天井からの景色に目を奪われていた私は、さながら鳥にでもなったようである。明るい海を越えていくと、軍艦の形をした島影が見えた。近くに寄り添うような島のない、絶海の孤島といってもよいところだ。飛行機が大型化した現在はまた違うのだろうが、当時は東のほうから島の上空を飛ぶ事が多かったと思う。もちろん風向きによっては進入路は変わる。東からはいると断崖絶壁につづき、墓地になる。亀甲墓である。その時私はその時私は沖縄伝統芸能の亀甲墓のことは知ってはいたが、真上から眺めることもなく、古代の遺跡か何かのように思った。島で生きてきた人々が、幾代にもわたってここに眠っているのだ。

後年、私は与那国行って時間ができると、よくこの墓地に足を運ぶ。珊瑚礁石灰岩を積んで建物のように造った亀甲墓は、中には人が暮らせるほどに大きなものもあり、さながら一つの集落のようである。

知識もなくなりここに迷い込んだら、死者の街のように感じられるかもしれない。大城立裕氏の小説に、「亀甲墓」がある。第二次世界大戦の折、アメリカ軍の攻撃にさらされた人たちが、それぞれの家の亀甲墓に逃げ込み、防空壕のように使うはなしである。死者の街が、死に瀕した人々の逃げ込む場所になったのだ。実際、亀甲墓をそのようにつかうこともあったであろう。「亀甲墓」は大城氏のごとく初期の作品であるが、氏の一つ達成を示している。

与那国島の墓地は普段は訪れる人もなく、聞こえるのは風の音と波の音ばかりである。墓と墓の間に、

眩しくて青い海が見えたりする。珊瑚石灰岩にかこまれた小さな入れ江があり、やはり小さいのだが美しい砂浜がある。寄せては返していく波を眺めていくと、私は時を超えて昔の人と結びついているような気がする。ここは他界の入り口で、苦しい現実の世界から逃れていく道が、ここにつづいているようにも感じるのである。

さて、私は飛行機に乗って、天井から墓地を見ているのである。離陸が近くなって不安定に揺れ始める飛行機は、さながらさまよう魂のようである。

援農者がはじめたさとうきび援農隊に参加しようと興味を持ったのは、現れては消滅する悲傷に満ちた現実から、よくわからないにせよ他界、すなわち一つの世界への入り口を見つけて、そこに行ってみたいと無意識のうちに念願していたのかもしれない。

私は三十代半ばまで、泥をかぶり汗にまみれて働く自信がまだあったのである。

しかし、大野大吾さんからその話を聞いたのは、先輩作家たちとの酒席で、出発はすぐそくに迫っていた時だった。私は作家としてようやく一本立ちしたばかりで、それなりに仕事のスケジュールができはじめ、援農隊に参加するほどの時間がとれなかった。そのため、翌年計画的に必要なだけの時間を取り、今年は気持ちがはやるのでとにかく見に行くだけにしょうと決めたのだ。援農隊の苦しい歴史は、なんとなくであったが、大野さんから聞いていた。

祖内の集落が窓の下に見えた。みんな仲良く身を寄せあっているように見える集落であった。飛行機はぐんぐん降下し、海をかすめるようにして飛んでいく。

 

純喫茶の純情、奄美の純情。

 

 

うちなー的沖縄

純喫茶の純情、奄美の純情。

沖縄も例に漏れずカフェブームである。ある有名チェーン店が那覇の街にも進出してきた。このチェーン店は、最近行った韓国の光州でもマレーシアのジョホルバールでも見かけた。

ずっと以前から喫茶店が好きだった。店内の週刊誌や持ち込んだ本を読んでのんびり過ごす。コーヒーくらいは自宅でもよさそうなものだが、気に入った店でのんびりできることにささやかな喜びを感じている。これは私一人ではなくて家族全員の趣味でもある。家族四人の全員が揃うと日曜日の朝は教会にでも出かけるような雰囲気でモーニングサービスを求めて街に出かけることが多い。

今は東京に住む娘のところに出かけたら、なにはともあれカフェ巡礼をする。そもそもこの原稿そのものも近所のカフェで書いている。喫茶店とカフェの違いがわからない男なのだが、落ち着ければどっちだっていい。近くのホテルも応接間代わりに使っているくらいである。ただし、どこでもいいというわけではない。ノートパソコンを用いるからテーブルの高さと椅子にはこだわるようにしないと腰にきて長続きしない。

二十数年前のことだが、あの頃は「喫茶店」というのがあった。いまだと坐った途端にうんざりするようなゲームがテーブルに組み込まれていたり、スナックだかなんだかわからないような店も多いのだが、「純喫茶」というのは純粋に喫茶店ですよのこだわりだったのだろう。マスターがいかにコーヒー大好き、クラシック命という感じで営業がなされていたのだろうか。そういえばコザでは正しいアイスコーヒーの飲み方の指導を受けたことがある。どうでもいいじゃないかと少々の反発も覚えたが、それはそれで面白い体験であった。那覇にもそれに近い店があり、「アイスコーヒーは混ぜたらいけません」と教育的指導を受けたことがある。

二十数年前の「純喫茶」の話に戻す。やや薄暗い「純喫茶」で友人三人がヌルン・トゥルンをしていた。つまり、だらけてボーっとしていた。そこへマスターがやってきて「いい若者が昼間からなんだ君たちは」とばかりに説教を食らってしまった。確かに我々は弛緩剤を打たれてしまったように身体中の筋肉が伸びきっていた。おそらく朝方まで遊んでの昼間だったのだろう。金を払ってまで説教をされるのも嫌だしと店を出た。それから二、三日して新聞でとんでもない記事が目に飛び込んできた。説教マスターが、十八歳未満の少女を店で働かせていたという青少年児童福祉法違反かなんかで逮捕とあった。

いまは家庭でも本格的なコーヒーが飲めるようになったが、以前は違った。カウンターに掛けて、目の前で香り立つコーヒーに憧れてさえいた。あの頃のコーヒーといえばインスタントのネスカフェが定番であった。六月のワールドカップで韓国対スペイン戦があり光州に行った。街頭での異様なほどの応援ぶりを見ていた。(正確には録音していた)。それにも疲れたので休む場所を探していたが、そこには素敵なカフェがあって、私に「オイデ、オイデ」していた。料金は意外と高かったが、インテリア、そしてなにより坐り心地のよさそうな椅子が私に坐って欲しいと言う。

メニューをみるのは単なる隋性であって即座にいつでもアイスコーヒーを注文する。一口飲んで小泉総理大臣以上に感動した。出されたアイスコーヒーは紛れもなくネスカフェ、それもあの懐かしいインスタントであった。高い料金とはアンバランスの中身ではあったが、久しぶりということも手伝って感動したのである。今の仕事に就いたころによく飲んだ味だ。マイカップにインスタントコーヒーと砂糖をあらかじめ入れ、それに少々のお湯を入れてかき混ぜるとアイスコーヒーが完成した。

そういう飲み方をしていた。

奄美大島に尊敬する知人がいる。

いまは元ちとせのこともあって奄美ブームなのだが、その奄美を代表とする唄者で、名瀬では何回かご自宅に泊めていただいたこともある。一度は、急いで那覇空港で土産のチンスコーを買って、「すいません、急いでいて、これしかなくて」と差し出した。帰る段になって、「これしかありませんが」と私への土産ということで差し出してきたのが大島紬の一反であった。チンスコーと大島紬、これはあまりにもバランスが悪い。いまも宝物としてタンスの奥深くしまい込んである。

その奄美の知人が那覇へ来て、我が家に泊まることになった。大島紬の一件があるから、総戦力で迎える必要があった。とはいってもそれほどのもてなしが出来るわけではない。そこで、当時は国際通り近くに住んでいたので夕食後に喫茶店に行くことにした。喫茶店に入るのは初めてだとおっしゃる。真面目一筋、島唄一筋に方であり、お茶なら家で十分だといい、喫茶店など眼中にはないのだ。それでも連れてって店へ入った。私はいつも通りのアイスコーヒーを注文した。「それじゃ私も」ということで二人分注文した。これは基本的なことなのだが、アイスコーヒー二人分と、それにミルクシロップが入った器が運ばれてくる。甘さ控えめの私はミルクだけ入れた。客人は同じようにミルクを入れ、次にシロップをたっぷり目に入れる。そしてお互いはストローでチューチュー飲んだ。そこまではよかった。「おやっ、甘さが足りないのかな。」と思った。客人はシロップを継ぎ足し、少し飲む。飲んでは再びシロップ、また飲んではシロップを継ぎ足す。唖然とするこちらを無視するかのように、とうとう全てのシロップをアイスコーヒーに入れてしまったのである。シロップコーヒーであった。「甘すぎませんか」と訊いたときには時すでに遅しであった。客人は、残しては失礼であると考えたのである。

せっかく出されたものは全て入れるべきだと考えたようである。それほどまでに純情な方だった。これは、我が家では「シロップ事件」として、いまなお語り継がれている。

 

どうなん・ちま

 

 

島へ島へと

どうなん・ちま

与那国島のことを「どうなん・ちま」という。「与那国の歴史」で池間栄三氏は次のように記述する。

「琉球の旧記である『指南広義』(程順則著)や『中山伝信録』(徐保光著)には、『由那姑尼』と書いてある。現在用いてる『与那国』は慶長の検地から書き始まったもので、伊地知李安著『西藩田祖考』の中に見えている。」

「どうなん」とは、「渡難」からきて絶海の孤島であるため渡海が難儀であったからこの言葉をあてたのだと、長いこと私は思っていた。しかし、そう単純ではなさそうである。南からやってきた男が、海に盛り上がっている「どぅに(土根)」を見つけたという島建ての伝説から生まれたという説がある。船四隻を与那国では「どうなん」と数えたそうで、小浜島からやってきた「いぬがん」の犬退治をした男は、一人ではなくて四隻の船に分乗してきたという説もある。

あおい科に属するオオハマボウは、沖縄の海岸のいたるところに自生している奢木である。オオハマボウの別名は、ゆうなという。この「ゆうな」から転化して、「どうなん」になったという説が最も有力ではないかと、池間氏は説く。

渡るのに難儀であった「どうなん・ちま」も、宮古島に支配され、中山王朝に支配され、やがて薩摩藩による苛酷な人頭税が課せられる。この税制によって、与那国に生まれた伝説はあまりにも有名だ。

「トゥング・ダ」は島の中央部にある一ヘクタールばかりの天水田で、そばにいってみてもごく平凡な田んぼである。伝えられるところによると、ある時突然鳴り物を鳴らし、十五歳から五十歳までの村中の男を集める。一定の時間内に指定された田んぼにはいることのできなかった男は、殺されたという。非常召集に応じられない場合とは、たとえば酒を飲みすぎて酔っていたとか、身体障碍者だとか、重病にふせっていたとか、いろいろなことが考えられる。つまり、村にとっては有能な働き手ではない人が、人口調整をされたのである。人頭税はただ頭割りで重税が課せられたから、税を支払うことのできない人は、他の島人の負担となったのである。

「トゥング・ダ」は人舛田と書く。まさに人間は舛ではからかわれるような存在であったのである。

もう一つの伝説は「クラブ・バリ」である。久部良港の東側の海岸は岩出形成されている。その岩に割れ目があり、幅はおよそ三メートル、深さは七メートル近くある。妊婦をここで飛ばせ、飛ぶことができなければ落ちて死んだ。たとえ飛べても、心労のあまり流産したという。もちろんこれは弱い人間を淘汰する人口調整機能である。

「クラブ・バリ」の裂け目は、海底に今もあり、観光名所になっている。三メートル幅は微妙である。立ち幅跳びでは飛べず、助走をつけるのにもまわりはでこぼこだ。私もふざけて飛ぼうとしたのだが、足がすくんでしまう。

「トゥング・ダ」と「クラブ・バリ」も、実際におこなわれたのではなく、伝説にすぎないのかもしれない。そうではあっても、こんな物語が現実味を持っているのである。

この現実の裏返しとして、海の彼方に楽土を見た人々がいた。海の向こうに「ハイ・ドゥナン(南与那国)」という理想郷があり、比川の人が船で旅立ったという伝説も伝わっている。もちろんその人々には、苛酷な現実がいつまでも追ってきたのであろう。

「ハイ・ドゥナン」は沖縄では「ニライ・カナイ」と呼ばれている。