宿直室

 

島へ島へと

宿直室

学校には、子供が帰り、他の先生たちもあらかた帰った夕方に行く。

「復帰運動について聞かせていただきたいんです。」

こういうと、当直の先生は困った顔をする。当直は男の先生二人だ。私はどこの馬の骨ともわからないものながら、一人である。何かあったらと困るなと考えつつも、二対一なのだし、先生のほうでも本土の事情を聞きたい。本土の学生が何を考えているのかも知りたいのである。先生たちは手短に相談してから、どうどとわたしを宿直室にあげてくれる。いくらおおらかな沖縄であっても、こんなかたちで旅人を迎えるのは危険だ。旅人は富を運んでくるのだが、同時に災厄をもたらすかもしれない。素性もわからない相手なら、門前で追い返したほうが無難である。そうしたなら百パーセント安全かもしれないが、変化も訪れようがないここでは危険負担をしても、旅人を迎えるために門を開く。職員室とつづいた六畳ほどの畳の部屋に、私は案内される。先生はまず当たり障りのない挨拶の言葉をいい、なんのために旅をしているのかとわたしに問う。

なんのために私は旅をしているのであろう。知らない土地に行くのはまず好奇心のためで、知識欲のためでもある。日業生活の中では知り合えない人を知り、それが楽しいことになるのだが、そのことをどのように説明できるのだろう。相手はこの土地で生きて、私のように勝手気儘に放浪しているわけではないのである。「日本本土と沖縄とがつながっていることを、この目で見て、この肌でかんじるためにきたんですよ」

稚拙な言葉では一般論のようなことしかいえなかったのだが、私のものいいに嘘はない。私はなんとか自分の立場を話そうと、心を構えていた。

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宿直室-2

 

島へ島へと

宿直室-2

学校には、子供が帰り、他の先生たちもあらかた帰った夕方に行く。

「復帰運動について聞かせていただきたいんです。」

こういうと、当直の先生は困った顔をする。当直は男の先生二人だ。私はどこの馬の骨ともわからないものながら、一人である。何かあったらと困るなと考えつつも、二対一なのだし、先生のほうでも本土の事情を聞きたい。本土の学生が何を考えているのかも知りたいのである。先生たちは手短に相談してから、どうどとわたしを宿直室にあげてくれる。いくらおおらかな沖縄であっても、こんなかたちで旅人を迎えるのは危険だ。旅人は富を運んでくるのだが、同時に災厄をもたらすかもしれない。素性もわからない相手なら、門前で追い返したほうが無難である。そうしたなら百パーセント安全かもしれないが、変化も訪れようがないここでは危険負担をしても、旅人を迎えるために門を開く。職員室とつづいた六畳ほどの畳の部屋に、私は案内される。先生はまず当たり障りのない挨拶の言葉をいい、なんのために旅をしているのかとわたしに問う。

なんのために私は旅をしているのであろう。知らない土地に行くのはまず好奇心のためで、知識欲のためでもある。日業生活の中では知り合えない人を知り、それが楽しいことになるのだが、そのことをどのように説明できるのだろう。相手はこの土地で生きて、私のように勝手気儘に放浪しているわけではないのである。「日本本土と沖縄とがつながっていることを、この目で見て、この肌でかんじるためにきたんですよ」

稚拙な言葉では一般論のようなことしかいえなかったのだが、私のものいいに嘘はない。私はなんとか自分の立場を話そうと、心を構えていた。

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砂糖キビ畑で働きたい

 

島へ島へと

砂糖キビ畑で働きたい

与那国島の援農隊前史として、藤野雅之氏「与那国島砂糖キビ狩り援農隊」に戻ろう。砂糖キビ畑の援農隊として、生活文化の違いなどから韓国人労働者の受け入れは困難だということがわかった。そこで共同通信社の藤野雅之氏や黒田勝弘氏が与那国島の窮状を救うために、与那国町長や与那国農協組合長に、若者五十人から八十人で組織した援農隊を四十日間送る提案した。募集は本土で行い、町と農協が受け入れ、日当2500円から3000円を支払う。製糖期間の40日全期間働けば、東京と与那国間の往復船便二等運賃を支給する。工場の寮に宿泊する人と農家に宿泊する人がいるが、宿泊料は無料で、一日三食の食事代は五百円とする。援農隊の事務局は渡航費用と滞在費を島に負担してもらい、一切の報酬は受け取らない。

このような条件であった。後に私はいやというほど経験することになるが、工場はともかく、炎熱の下での砂糖キビ畑の仕事は、これ以上にないというほど厳しい。与那国島の人が「オキナワ」と呼ぶ沖縄本島からの季節労働者は、つらさをみんな知っているだけに望みが薄である。ましてこの時期はたいていどこでも製糖の季節なので、働き手を期待することはできない。台湾や韓国から労働者を入れることができない以上のことはないはずである。台湾や韓国からの労働者をいれるより、経費もずっと安くてすむはずなのである。

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砂糖キビ畑で働きたい-2

 

島へ島へと

砂糖キビ畑で働きたい-2

もちろん町長や農協組合は乗り気になった。そこで黒田氏が与那国島にいき、説明会を行った。人手不足に苦しむ農家から援農隊員を求める声が殺到すると期待していたのだが、自分の家に住み込みの人を入れるという農家は一人もいなかった。李氏朝鮮の済州島漂着民がやってきた時、与那国では漂着民を助けはしたが村の外に小屋をたてて交代で食事を運ぶばかりで、共同体の内部にいれようとはしなかった。それとおなじことが起こったのだと、藤野は書く。

この共同体を守ろうとする用心深さについては、私個人にも似たような体験がある。本土復帰前の沖縄を旅して、旅費がなくなりそうになったことがある。当時の私は、最初から旅費をたくさん持っていたわけではなく、金がなくなったところで働けばいいやと思い、身軽にそれを実行していた。

沖縄は若者が旅行するのに実に楽なところだったのである。ヒッチハイクが簡単で、道路を走る車はどれもヒッチハイクされるのわ待っているような感じさえした。実際、通り過ぎていった車に向かって親指を立てると、バックミラーで見ていたのかバックで戻ってきたりした。全体に人懐かしいような気分があり、仕事を見つけるのは簡単なように思われた。

ヒッチハイクで車に乗せてもらった人に、仕事がないかと尋ねると、ちょうど砂糖キビ刈りの季節で、どこでも人手を欲しがっているといわれた。

「仕事を見つけるって簡単さー。連れていってあげるさー」

こういってその人は砂糖キビ畑に連れていってくれた。道路に車を止め、ばさばさとキビ倒しをする人のほうに歩いていく。私は話がつくのを車での中で待っていた。この今からでも働くつもりであった。

私は遠くから見られているのがわかった。やがて戻ってきた人は、首を横に振りながらいった。「どこのものかわからん人は使えないといっとるよー」

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大東結び

 

島へ島へと

大東結び

その土地にはその土地なりの独特なやり方があり、それが旅人にはおもしろいのである。今の砂糖キビ刈りは、砂糖キビは長いままトラクターで集めてダンプの

荷台に載せ、製糖工場に運んでいく。かつては人が担げる十キロからに十キロの束にし、それを水牛の引く荷車に乗せて畑の外に出し、トラックで搬入していたのである。

その束を作るために藁縄で結ぶ方法が、大東結びである。おそらく大東島ではじめられた結び方なのだろう。砂糖キビ束に縄をまわし、腰を落として膝で束をおさえつけ、一度縛ればほどけない結び方であった。砂糖キビは一本一本曲がっているから、縄をただ回しただけでは結束できない。熟練した人の大東結びは、砂糖キビの束もびくともせず、それは見事なものである。

私は援農隊の仕事が終わって家の帰り、新聞紙を束ねるのもこの大東結びでした

新聞束を膝でおさえつけ、紙ひもをまわす。紙ひもでも新聞はしっかりと結束されるので。しかし、時間がたってこのやり方を忘れてしまった。今度改めて教えてもらおうと思っているのである。

このようなわけで、藁縄も砂糖キビ畑では必需品だった。

援農隊で働いていると、いろいろなことを学ぶのである。しかし、援農隊員と島人では、援農にたいする意識に開きがあった。遠くから時間をつって参加した援農隊員は、人で不足で困っている島を助けるのだという自負があった。日当ももらっていたが、金額のことだけを考えると、本土で働いたほうが多くもらえた。

そんなこともあって、島を助けるというやや驕ったき持ちもないわけではなかった。

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大東結び-2

 

島へ島へと

大東結び-2

だが島人のほうはまったく違う見方をした。援農隊の参加者を、「労務」「労務者」と呼び、これが、公然としたいい方だったのである。「労務」という言葉の中に、援農隊員は見下げられた気分を受けとってしまう。このいい方に、当然反発する人もでてくる。

気にしないというのが、大方の態度ではあるにせよ、気のする人もいた。そんなことで援農隊の中で議論が湧き上がったりした。

結局のところ、いつしか援農隊といういい方に落ち着いていったのは、援農隊の働きが島の人に認められてきたからである。私が援農隊に参加したのは、第一回から数えて五年後のことであるが、その時には援農隊といういい方が完全に定着していた。それどころこか、旅で与那国島にきたついでに製糖工場や砂糖キビ畑で働く人も、援農隊といっていた。自由な旅に来ていた学生などが、島の人にいわれて興味を持ち、よく働いていったのである。数日間の人も、最後まで働いていく人もいた。

波乱の中ではまった援農隊で、みんなはどうにか過酷な作業にも慣れていった。しかしながら、作業開始が遅れたのはどうにもならなかった。当初の予定では平均で一日二人で一トンを収穫するということが、そもそも過重な計画だったのである。

手斧を握って砂糖キビを倒す作業をやりつづけるのだが、朝起きると指に力が入らなくなっている。指が痛くて、歯ブラシが持てない。箸が使えないので、食事はスープでとる。そんな状態に陥る人もいた。

南の島の砂糖キビ畑で働くとい夢は甘く、現実は違っていた。

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安里ユースホテル

 

島へ島へと

安里ユースホテル

那覇でよくユースホテルに泊まった。泊港の近くと安里の二箇所にあり、私は安里ユースホテルに足をはくんだ。ユースホテルの経営者をペアレントと呼ぶ。安里ユースホテルのペアレントは写真で見る武者小路実篤に似た風貌で、縁なし眼鏡をかけ頭ははげていた。「悪いけど、本館が満員なので、別館にいってくれますか」

ペアレントはすまなそうにいう。はじめはこちらも別館に泊まらされるのを気持ちよく思わなかったのだが、二回目からは別館を望むようになった。最初から別館でいいよというと、ペアレントは申しわけなさそな表情をする。

ユースほてるにはいくつかの決まりがある。自分のシーツをもっていかなければならなず、もしなければ、お金を出して借りなければならない。五十円かそのくらいの代金だが、そんな安い金でももったいないのである。アルコール飲料は飲んではならず、午後十時だったか門限がある。ペアレントの目が届く本館ではそれらの決まりは守られたものの、別館は一種の解放区であった。

記憶は朦朧としているのだが、本館は二階建てだったと思う。六畳に三、四人はいるのは普通で、時に六人ということもある。一方、別館は坂の上のほうにある離れで、一般の家を借りたものだ。赤瓦の沖縄風の住宅である。一応蒲団もシーツがあるかどうかなど問われもせず、勝手に寝ればよいのだ。当然、料金は本館よりもずっと安い。

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安里ユースホテル-2

 

島へ島へと

安里ユースホテル-2

長逗留しているものもいたし、離島の旅をしてはまた帰ってくるものもいた。食事は近所のサンドイッチ・シャープでコンビーフいためライスを食べてくればよい。風呂はたぶんシャワーのようなものがあったはずだが、記憶は定かではない

現況を光らせたペアレントが長い石段を切らせながら登ってきて、料金を徴収する。毎日払ってもよいし、何日分かまとめてはらってもよい。まっすぐな石段を登ってこなければならないので、ペアレントの姿は丸見えである。

「親父がきたぞーっ」

ペアレントの姿が見えると、誰かが大声をだす。すると上の窓から逃げだし、一時避難するものもいた。「君には何日分いただいたかな」ペアレントに聞かれると、こう答える。「一週間分です」「そうだったかな」「そうです」

これで済んでしまうのである。ペアレントはノートにつけておくわけでもないので、細かなことはどのようにでも言えた。もしかするとすべてをわかっていて、

貧乏旅行者のために安い宿を提供してくれたのかもわからない。

掃除もめったにせず、蒲団もひいていたそのままだ、別館は男だけしかいなかった。さすがのペアレントも、いくら本館がいっぱいでも、女性旅行者を別館にまわしてはこなかった。

ということは、とういことはすべてをわかっていて宿泊所を提供してくれたのだろう。夜は、酒盛りになった。オリオンビールの壜一本の泡盛はなかなか飲み切れるものではなく、ビール壜一本あれば一晩はもった。泡盛も輪が情報交換のばになったのだ。

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製糖の仕事の実際

 

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製糖の仕事の実際

製糖の仕事は、畑で刈り取りするのも、製糖工場で働くのも、どちらも重労働だ

その数年後に私も農家に住み込んで畑での刈り取りをして、トラックを運転して

砂糖キビを製糖工場に搬入したので、工場でやっていることも大体見ていた。

トラックで工場にはいる時、大きな台計りの上にのって重量を計り、砂糖キビを広い構内の指示されたところに投げおろす。帰りに空荷のトラックの重量を計測すると、その差で砂糖キビの重量がわかる。あとで農協が集計して農家に清算する仕組みである。

広い構内に置かれている砂糖キビは、頃合いを見ながらシャベルカーでベルトコンベアーのところまで押されていく。それから三十キロほどに結束された砂糖キビの束は、ベルトコンベアーの上を平均して流れるよう人の手によって投げ入れなければならない。これが重労働である。しばらくすると腰がいたくなってくるもだ。この担当になると、深夜に十二時間の重労働が続くことになる。手を休めると原料が流れていかないことになって、工場全体に影響がでる。

流れていった砂糖キビは圧搾機にかけられ、絞られる。このジュースが圧搾液で砂糖キビ全体の重量は七十五パーセントに減る。残りが搾りかすで、バガスと呼ばれる。これはボイラー室に送られて、燃料となる。砂糖キビは工場に送られた分は、どこも捨てるところはない。

圧搾液には少量の石灰分がまぜられ、加熱すると、必要のない成分は沈殿する。

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製糖の仕事の実際-2

 

島へ島へと

製糖の仕事の実際-2

この上澄み液と、沈殿したものをお濾過して得た糖分をまぜる。蒸気で減圧することによって低温で濃縮液がとれる。これを常圧に戻し、さらに煮詰めて水分を蒸発させる。こうして得られた飽和状態の液を冷却して撹拌していくと、糖分が結晶する。これが黒糖である。

暑い黒糖は泥のような状態で、まだ固まっていない。柔らかいうちに三十キロの箱に詰めると、冷えて固くなる。ぎっちりと詰め込むためには、箱に少しづつ詰めては、金属棒でたたいて隙間をなくさなければならない。こうしてできた黒糖は、原料の砂糖キビの五十パーセントほどになっている。

かつての製糖工場での作業は、ほとんどがつらい肉体労働であった。現在では機械にとって変われるところは機械化したので、人の力を直接に使わなければならないところは少なくなった。それでも基本的な工程は何も変わっていない。甘くておいしい黒糖なのだが、人に労苦を強いる。昔と今とは変わらない。

ことにはじめて参加した援農隊員は、長いこと待たされたあげくに、急に重労働の中に放り込まれたのだった。援農隊がはった農協所有の畑はことに手入れが悪く、土地改良もされていないので起伏が激しい。雨が降ると水が溜まってくるのだが、作業をやめることはできない。砂糖キビは育ちが悪い上に、つる草が一本一本に絡んでいる。砂糖キビの根元を手斧で刈り倒しても、株を一本ずつに抜き出すのがことのほか重労働だ。これは私も経験したことなのである。つる草を鎌で切っていたのでは能率が悪く、強引に引っ張り出そうとすればたちまち腰が痛くなってくる。いくらつらくても休むわけにはいかない。

晴れれば暑いし、雨が降ればスコールとなる。雨がぱつっぱつっと降ってくるや

そばに置いておいた合羽を素早く着て、また作業をつづける。その雨の下で弁当を食べると、お半粒が水に浮かんでくる。これも私が経験したことである。

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