雨の砂糖キビ畑

 

島へ島へと

雨の砂糖キビ畑

太陽の下で力いっぱい筋肉を使うので、なんだか消火器官が働くのを辞めてしまったようで、まったく食欲がない。食べてくなければ水を飲んで腹をいっぱいにしていくようにと、大嵩のオジーにはいわれた。身体がまいるのを、なんとか防がなければならない。

一日中炎熱の畑にいた翌朝は、硬い飯はなかなか喉を通っていかなかった。飯に水をかけて無理矢理のどに押しこみ、畑にでていったこともあった。大量の限界に挑戦するような毎日であった。

ちょうど田植えの時期と重なっていた。オジーは田んぼにかかりっきになり、目刺のオバーも大嵩のオバーも年が年なので無理はできず、野球グラウンドよりもはるかに広い一町余りの砂糖キビ畑で、私が一人で仕事をしていることもあった私は一列を手斧で倒し終えると、また戻っていって一本ずつ葉を落とし皮を剥きある本数がたまると結束した。見かねたのか、近所の畑から応援にくることもあった。

手伝いの人は、思いもかけないほどに増えたり、誰もこなかったりもした。トラックを運転して畑にくることからはじまり、渡しは何もかも一人でしなければならなかった。水辺につないである水牛を引いてきて、鞍をかけて荷車にしばりつけ、荷車をあやつった。最初はそばに寄れもしなかった水牛であるが、ホィッ(歩け)、ダアッ(止まれ)の二つの言葉を怒鳴るだけで、私に率直にしたがうようになった。真黒で大きな水牛だが、受血した小さな目で感情を知ることができるようになっていた。

島が小さいということではないだろうが、空模様はめまぐるしく変わった。雲の動きが速いのである。晴れわたっていたかと思うと、上空を黒っぽい雲が吹き流れていき、雨粒が落ちてきた。雨合羽はいつもそばに置いておかなければならなかった。

雨に濡れると砂糖キビは柔らかくなり、手斧を振るたび棘のような粉が飛ぶということはなくなった。倒すにも葉を落とすにも、皮を削るにも、やりやすくなったのだ。

どんなに土砂降りになろうと、はじめは雨合羽を着てやる作業のほうが、炎天下にいるよりずっとましだった。だが汗をかくと、着ている服は濡れ、合羽の内側の身体は暑くなる。晴れれば、ただちに合羽を脱ぐ。するとたちまち服は乾いた土砂降りになっても、その時間がくれば弁当を食べなければならない。このことが精神的につらかった。樹影もない野面の真中で、弁当をひろげて食べる。弁当箱の中に雨が降りこみ、おかずは水漬けになり、飯粒は浮かんだ。身体が芯からこごえてきた。

仕事は過酷に違いないのだが、身体というものは強いもので、つらさに少しずつ慣れてくる。自分にしかわからない強靭さが身についてくるという感覚は、嬉しいものであった。仕事はまだはじまったばかりで、先は気が遠くなるほど長い。当初は一日二日と過ぎ去る日を指折り数えたのだが、何日過ぎ去ったのかわからなくなっていた。

砂糖キビ畑に人が増えたり減ったりするのは、ユイマールという制度があるからだった。人の手を借りた農家は、自分が相手の仕事をして返す。求められると返さなくてはならないので、自分の畑を置いてでも手助けにいかなければならない田植えや稲刈りや砂糖キビの収穫など、短期間にたくさんの人手が必要のなる時期には、隣近所や親せきの間でなんとなく順番が決まり、ほとんど同じ顔ぶれがあちらの家の田んぼ、こちらの家の砂糖キビ畑という具合に、仕事を巡回させる

ダマトゥ・ハガト

 

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ダマトゥ・ハガト

二十年よりももう少し前のことである。私が初めて与那国島を訪れた時、援農隊うがいこ員の世話をする係の男といっしょに島の観光巡りをしたことがある。私はバイクの荷台に乗せていってもらったのだ。その時に一番印象的だったのは、ダマトゥハガトである。

バイクを降りて砂糖キビ畑を突っ切ると、それほど高いわけではないのだが、なんとなく黴臭くて陰気なところだった。

「大和墓といわれているけど、よくわからないんだ。不思議なところだろう」

その男はいう。その場所には骨が散乱し、形がそのまま残った頭蓋骨などもあった。鳥葬か風葬にでもしたところかとも思えた。私は不用意にその洞窟に入ってしまったが、うっかりすると白く乾いた骨を踏み折りそうで、一歩も歩けなかった。妖気が漂うというような雰囲気である。「大和墓というくらいだから、和冦とか海賊の墓場だったんじゃないか」

もちろん学問的な裏付けがあるわけでもなく、その人は想像でいった。私は大和墓といういい方を真に受けていて、その時にはそんなものかと思ったしだいである。実際に員骨芽散乱していたのだから、いろいろなことを類推するのも不謹慎なことかとも思えたのである。池間栄造氏「与那国の歴史」によれば、明治の初め頃まで人骨にまじって刀剣や馬鞍や汁器や匂玉が保存されていたという。その後、内地からやってきた役人や旅行者のため、好きなように蹂躙され、金目になりそうなものや、歴史的な遺品は島外に持ち出されてしまったということである与那国島のいい伝えによると、平家の落武者の墓ではないかということだ。「南島探検」をあらわした笹森儀助が明治二十六年ダマトゥ・ハガトにやってきて、これは平家の落武者の墓であると断定した。そしてここで鎮魂の儀式をしたという。笹森儀助による直感による断定は次のようである。

屋島で破れた平家一門のうち、節操もないものは降参して捕虜となり、二君に仕えて源氏の臣妾奴僕となることを拒んだ忠節の人々は、遠く南洋諸島に流れていった。そして、ついに与那国島で没したのである。

こうして笹森は、忠義の神魂を慰すというのだ。この独善は、明治の人間の一面である。そして、南島の与那国島を皇国史観の地と位置付けようという意図がかいまみられる。

笹森は頭蓋骨を京都大学の解部教育に持ち込み、鑑定を依頼した。鑑定によると、数百年以上前の人骨とは思えず、しかも、日本人一般の人骨とは異なるということであった。平家落人説になって、八重山群島調査隊が与那国島にやってきて、ダマトゥ・ハガトの調査が行われた。それによると、近代の人骨であって、まわりからは十六世紀以降の南中国やベトナムの陶片が多数見つかった。つまり、墓であるのことはは間違いないのであるが、それ以前に住居として使用していた形跡がある。火を燃やした跡があり、食用にしたと思われるヤエヤマ・オオコウモリの骨がでてきた。食用のヒザラ貝もたくさん発見された。池間栄造氏はつぎのようにいう。

「ダマトゥ・ハガの語意は、ダマは山、トゥは山奥、ハガは境界であるから、いわば山奥の境界であって、墓の意味はないようである。」

こうして、ダマトゥ・ハガトの平家落人説は一蹴されてしまったのである。

 

沖縄ロック

 

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沖縄ロック

那覇に戻り、波之上のビアホール清水港にいこうか、ごく当たり前に安里ユースホテルに行こうかと、港で一瞬迷う。泊港からは、南に向かうか東の向かうかということである。結局私はザックを担いで南へと一歩をしるすのであった。

波之上の景色は何も変わらない。昼間はネオンも乾いた骨のように見え、精彩にあふれる夜の賑わいを知っていると、まったく別世界である。歩いている人も化粧をしていないホステスなどで、どことなく緊張感が漂っていない。アメリカ兵たちも朝の点呼があるのかどうか、朝までうろうろしている姿はない。街は脂気がぬけている。

ビアホール清水港のたたずまいに、なんの変化があるわけではない。夜な夜なここで酒と女の乱痴気騒ぎがおこなわれているかと思っただけで、なんとなく涙ぐましいような思いにとらわれる。ベトナムの戦場に送られて明日死ぬかもわからないアメリカ兵たちと、刹那のうちに彼らを慰め励ます沖縄の女たちと、彼らの間に介在するのはドルである。それとささやかな人間の情だ。

ずっと後になるが、私はロック歌手喜屋武マリーと話したことがある。私が波之上で働いたというと、みんなたいてい疑わしそうな顔をする。私はたまたま紛れ込んだにすぎないのだが、マリーはコザのゲート通りのクラブで歌っていた。マリーという名から、アメリカ兵たちは聖母マリアを連想し、明日ベトナムで死ぬかもしれないという恐怖をぶつけたのだそうである。

コザや金武や那覇にある外人向けのクラブは、ただ酒を飲ませて金をとるという場所ではなかったと思う。少なくとも兵士たちは、刹那にでも生きている実感を確かめるところであったのだろう。

何か月か後にまた休暇がもらえ、沖縄に帰ってきた兵士たちは、マリーのところにやってくる。そして、きっとこういう。「まだ生きているよ」彼らの悲しみと恐怖とを受け止めて、マリーは歌うのである。「紫」、「コンデション・グリーン」など当時は沖縄ロックがコザのゲート通りを中心にしてさかんであったが、それらのバンドは兵たちと彼らを受けいれる沖縄の悲しみと結びついていたような気がするのである。あれほどに隆盛をきわめた沖縄ロックが、日本に復帰後に東京あたりで受け入れなかったのは当然だ。アメリカ兵の心の中にはいっていたのだから、当然のことアメリカのにおいが強すぎる。日本向けに薄められ、醤油の味がする日本のロックとはそもそも存在の仕方が違うのだ。コザであれ、金武であれ、波之上であれ、当時はベトナムの戦場のすぐ後方に位置していたのだ。東京の人間からすれば、とても食べきれないステーキのようなものだ。当時はステーキとはいわず、ビフテキと呼んでいた。ビフテキという言葉に込められた思いは、この世に存在する最高の御馳走だということで、実際に一年に一度も食べることはできなかったろう。しかも、ナイフもフォークも必要ない、箸で千切れるような薄い肉であった。

離れていると、むしろその街のことがわかる。私は波之上に帰った。ビアホール清水港のマスターもチーフもまるで昨日も私がいたようにして迎えてくれた。生きることは闘いであった。みんなはよく闘って生きている。彼らが元気なのを見て、嬉しかった。

 

 

ナナサンマル音頭

 

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ナナサンマル音頭

沖縄にいって正直のところ私などが当惑したのは、流通する紙幣はドルで、車は右側通行であったことだ。すべてがアメリカ式なのである。私は子供の頃から「車は左、人は右」とイギリス式交通方式をたたきこまれてきた。

今でもそうなのだが、外国にいって一生懸命左側を見ていて、渡ろうとしたら右から車がやってきたという危ない経験を何度かした。しかし、三時間くらいすれば慣れてしまう。車を運転していて、交差点などにはいり、一瞬アレッと迷うこともあるが、それもすぐに慣れてしまう。

沖縄は日本に復帰した。一九七二(昭和十七)年五月十五日のことである。その時、流通する貨幣も変わり、いろんなことが混乱した。その一つが交通方式の変更である。人は何もかもを一気に変えることはできないので、できることからやることになる。米軍基地に関して、核つきとか、核の自由使用とか、沖縄基地の利用について日本本土と異なる特別の条件をつけることなく沖縄の返還を求めるという議論があった。交通方式も本土並みになることになった。

それでも復帰後六年間は変更されることはなかった。アメリカ式の右側通行は、米軍占領以来三十三年間である。その習慣になじんだ人には、反対側に車を走らせようといっても簡単にできるはずもない。自分一人だけが反対を走れというのなら、まわりにあわせなければよいのでなんとかなるが、全員が一斉に変えるのだ。

交通方法が同じ国の中で違えば危険があるというので、国際条約では「一国一方式」にしなければならない。政府は最初一九七六年実施の方針であった。だが石油危機など経済事情が発生し、沖縄の日本復帰の目玉事情ともいえる沖縄海洋博が延期になり、交通方式変更も延期になった。

一九七八年七月三十日午前六時を期して、すべてを反対にするという閣議決定がなされた。このことが社会におよぼす影響は大きかった。車は増えていたし、日本政府は沖縄の実情を踏まえていないとのひはんもなされた。要するに現地は不安だったのだ。平滑の根底がひっくり返されるのだから、当然のことであろう。

この頃沖縄を旅した私の耳に響いてきたのが、「ナナサンマル音頭」であった。

「ナナサンマルだよ、ナナサンマル、シタリガユイヤサー・・・」私の耳に残っているのは、こんな文句である。県内のどこにいても鳴り響いていて、さすがに唄の土地だと思った。人の心に一番影響があるのが唄なのだろう。あまりに珍しいので、私はレコード店にいってSPレコードを一枚買った。今も押し入れのどこかに仕舞い込んであるはずだ。

「ナナサンマル音頭」は、私には沖縄の人の悲鳴にも聞こえた。当事者の都合によって、生活のすみずみまで影響をうけなければならない。歴史の転換といえばまあそうなのだろうが、しなければしないほうがよい。

「交通方法変更は混乱、事故続発といった大きな騒ぎを巻き起こし、とくに那覇を中心とした都市地区は十日以上にわたってマヒ状態に陥った。実施後八月六日まで八日間の事故発生は、人身事故四一件、物損事故五二八件、そのうち一二七件がバス関係の事故である」

ナナサンマルの日のことは、「沖縄大百科事典」にはこう書かれている。

砂糖キビ畑へ

 

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砂糖キビ畑へ

一九八一年二月十一日、私は宇都宮郊外にある家を出発した。一年中で最も寒い季節で、内陸的気候の栃木県宇都宮は緯度のわりに寒い。樹木や屋根やアスファルト路面は、銀色の粉をまいたように霜で真白だ。私はリュックを担ぎ、白い息をはきながらバスに乗った。

宇都宮駅から上野駅行きの東北本線の電車に乗った。当時はまだ東北新幹線が開通しているわけではなかったので、急行に乗ったのであろう。関東平野を疾走する車窓で、私は不安を覚えていた。砂糖キビ畑での仕事に耐えきれるかどうか、地震がなかったからだ。

私は三年前まで、故郷の宇都宮市役所に勤めていた。だがそれも辞め、小説執筆に文字通り専念する日々を送り、「遠雷」なども発表していた。それから原稿用紙千枚を超える長篇小説「歓喜の市」の執筆をすませたばかりで、あまりにも作品に集中したので疲れてしまった。そこで身体を動かして、汗をかきたくなった。疲れたのなら温泉に行くのが普通なのだろうが、私は若くて元気だったのだそれと一年ぶりに沖縄にいきたかったのである。

砂糖キビ畑で、肉体労働の単純な喜びを取り戻したい。また日本に復帰して九年たった沖縄の現実を、離島でも一番端の与那国島から見詰めてみたい。そしてなにより、私自身の旅心を満足させたい。改めて数え上げてみれば、そんな理由からであったろう。

羽田から飛行機に乗り、那覇にいった。宇都宮ではよほど早くなければ、石垣ぐらいまではいけるが、与那国島までは無理である。それに時間はたくさんあったのだから、沖縄を楽しみながらゆっくり南に向かいたかった。急ぐ理由は何もなかった。

那覇の空港前の庭には、桜が咲いていた。私はコートを手に持ち、その上でセーターを脱いだ。日本列島は南北に細長いため、風土の襞が深いと、改めて実感するのであった。あらかじめ予約をしておいたビジネスホテルに旅装を解く。そこは島敏夫さんが冬を沖縄で過ごすために宿泊するホテルだと、以前前川信治さんに教えてもらったところで、私も前に一泊していた。泊港の南側に面していた。私は三十三歳であった。十年前ならば、ハーバービュー・ホテルと称して、港に野宿したであろう。ビジネスホテルに泊まったのは、私が若くなくなったということもあるが、そもそも日本に復帰して以来、昔のような野宿が許されなくなっている傾向である。かつての沖縄らしいおおらかさが少しづつなくなっていると、私は感じていた。那覇に着くと、まず私は波之上に行ってみることにしている。かつて私がボーイとして働いたナイトクラブの「ビアホール清水港」がどうなっていくか、確認したいからである。「ビアホール清水港」は跡形もなく消滅し、その後派手なネオンサインに飾られたナイトクラブ「チャイナタウン」になったが、それも取り壊されてビルになっていた。そこは内地からの観光客のための沖縄料理店が、テナントとして入居していた。何もかのが激しい速度で変化していく。

昔からまったく変わらないのは、マチグワーだった。旅人にまで「魚を買いなさいねー」と声をかけてくるオバーたちは、相変わらず元気だ。この変わらないところが、旅人にはまことに心強い。私はマチグワーで、砂糖キビ畑で使う合羽と長靴を買った。砂糖キビ刈りをする時に調子よく身体を動かせるよう、喜納昌吉のミュージックテープ「ブラッドライン」を買った。ここには「アキサミヨー」「ジンジン」など調子のいい曲がはいっていたからだ。

泡盛以前の会社

 

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泡盛以前の会社

朝鮮漂流民の見聞には、十五世紀の終わり頃、尚真王が統治した琉球王朝の離島の雰囲気をよく伝えている。池間栄三「与那国島の歴史」の記述を参考に、描写を試みてみよう。

酒は口で噛んでつくり、麹は使わない。したがって発行は弱く、アルコール分は薄い。飲んでも微酔をする程度であったろうということだ。

泡盛と行く言葉がはじめて見られるのは、一六七一(尚貞三)年幕府への献上品目録であるとされる。昔は酒精度をはかるのに「泡を盛る」という方法があったとされ、そこから来ていると考えられている。沖縄では「焼酎」と書いて「サキ」と呼んでいた。したがって、泡盛と呼んだのは琉球ではなく、薩摩のほうであったと考えられている。

泡盛はシャム、現在のタイより伝来したとされる。シャムと琉球が通航したのは約五百年前のことだとされ、そうであるなら、朝鮮漂流民は泡盛がはいってくる以前の沖縄の見聞であるということになる。口で泡盛を噛み、垂液の中のアミラーゼを酵素とする原始的な酒は、自然発生的に生まれたのであろう。飲んでも微酔する程度であったというから、製造に手間のかかることを考えれば、嗜好品というよりも、祭祀に使われたのではないだろうか。濁酒で、たくさん飲んでわずかに酔う程度であったとすれば、今日のようには酒による暴力沙汰はなかったと考えるべきである。

家は茅の屋根で、瓦はまだなかった。家のまわりには垣根もない。みな同じように貧しい家に住み、貧富の差はなかったということである。板で床がつくってあり、そこに寝た。毛布のようなものはなく、むしろを編んで横になっていた。気候がよいので、寝具も必要なかったということだ。それで貧しいというものでもない。家の前には穀物倉が建ててあり、米をつくって貯蔵していた。文脈上からは、穀物倉があるのは首長のような格別の家ではなく、すべての家にあったと読めるゆるやかな原始共産制の上に島の社会が成立していて、階級の分化があるわけではない。首里では尚真王の治世がはじまっているのに、その統治の形態は与那国島まではおよんでいなかったということである。

鍛冶はあっても、鉄は外部からはくばれなければならない貴重品であったから、釜や斧や小刀や槍にしか使えなかった。すきのように大量の鉄を必要とする道具は、木製だ間に合わせていた。

十二月に水田を牛に踏ませて種を蒔き、一月に田植えをする。牛に踏ませて種を蒔くということは、灌漑の設備があったわけではないから水の出し入れはできず、天水頼みの湿田であったようだ。牛が歩くことによって、水底の田を柔らかくしていたのかもしれない。四月には熟して刈り取りをするのだから、たいそう暮らしやすいところということになる。

一般に水稲は陸稲にくらべて収量はかなり劣り、味も落ちるとされる。陸稲は五月に刈り取るのだが、切り株から再び目が出て、秋には再度収穫することができるのである。水を得ることのできない台地も、こうして陸稲をつくっていたことがわかる。島の人たちは緻密な農業をしていたということである。

稲はもみにして倉に保管しておいたのではなく、藁ごとたばなてしまっておいた食べるときには竹でつくった道具でもみをこき、臼でついた、もみだけをまとめて袋に入れておけば、ねずみにやられたかもしれない。ねずみについての記述はまったくないので、もしかすると存在しなかったかもしれないのである。

天上の旅

 

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天上の旅

みんなしなければならないことがあり、先を急いでいるので、飛行機の席がこちらになかなかまわってこなかった。待ってよ、ようやく石垣空港から与那国に飛ぶことができた。

当時は十九人乗りの飛行機で、頭を引っ込めるようにしなければ通路も歩くことができない。シートベルトに身体を縛り付けこの頼りない飛行機に命かな何からなにまですべて預けることになると、何とも不安な感じがした。座席のポケットに、このあたりの島の地図を描いた下敷きが入っていた。席に上がると、その地図と実際に眼下に望まれる島の形とを照合しながらいくことがある。

滑走路をすべっていった機体が、ふわりと浮き上がる。エンジンの音さえなかったから、自分の力で空を飛んでいるような気にさえなる。まず窓の外に見えるのは石垣島の山並みで、砂糖キビ畑も広がっている。畑で刈り取りの作業をする人も認められる。

海岸から海に行くと、世界一とも称される珊瑚礁の海の上にいる。美しいものの上空に浮かんで、私は幸福な気持ちになるのである。かつての舟人は、風を読み太陽や星の位置を探り、波の形を確かめながら進んでいった。眼下一帯の大海原に視線をこらすと、古人の帆をいっぱいに張って帆走する舟が、波の間い間に見えるような気がする。

小型飛行機は高度が低く、海に近いので、風景の微細なところまでよく見える。海の彼方にある与那国島は、この海を渡っていった遥かな他界にあるのだと感じた。その後私は何度も与那国島に行くことになるが、こうして美しい境界線を越え、夢を見るようにして他界へと旅立っていくような気分にそのたびなるのであった。この世ならぬ美しいところなのである。

私は風景の中に魂が吸い込まれるようにして、窓の外を眺めていた。眼下にやってくるのは竹富島である。空から眺めると、トルコ石青い色の波に包まれた小島は、まさに宝石のように見える。砂糖畑は緑色で、そこに白い道が伸びている。赤瓦の家々が固まりあっている。私は天上から鳥の視点で眺めているのだが、あの島には何度かいったことがある。

最初に訪れたのは、復帰のだいぶ前で、ドル紙幣が流通していた。ユースホテルに泊まっ他のだと思う。海岸に行くと白砂で、一粒一粒が星の形をしているのであった。星の砂を見たのははじめてで、世の中にはこんなに不思議なものがあるのかと驚いた。見るもの聞くののが現実離れしていくように感じた。小さな博物館があり、人魚の骨や馬の角などと表示されたものが展示してあった。怪しいと言えば怪しいのだが、この島ならばそんなものがあっても当然だとも思えた。他にやってくる旅人も数えるほどで、船着場からデイゴの赤い花の咲く道を自転車で走れながら、こんな島ならいつまでもいてもいいなと思ったものである。私のごく初期の沖縄体験だ。

天上の旅は時間さえも超える。竹富島を過ぎると西表に至る。峰が切り立ち」、深い緑に覆われている。平坦でオパールのような竹富島とは対照的な、奥行きがあって、たくさんの秘密がありそうな島だ。私は飛行機の窓に顔を近づけ、皺が寄ったような峰や谷や、蛇行して流れる一つの精気あふれる生き物のような川を眺めるのだ。そこはとても島とは思えないほど、山は高く谷は深い。

仕事が終わった

 

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仕事が終わった

製糖事業は三月中を聞くと与那国島では草蝉と地元で呼んでいるゴキブリほどの大きさの小さな蝉が発生し、砂糖キビにとまって鳴く。畑で蝉が鳴けば騒然とした気配になってくる。

与那国の夏は、畑で働くようななまやさしい状態ではなくなってくる。夏は畑はほとんど休みになる。それが、島で生きる生活の知恵というものだ。

製糖工場の操業は三月六日にはじまった。本来は一月十一日に操業開始予定だったから、頭初の予定より二ケ月遅れということになる。三月中に全作業を完了させるのは不可能となったのである。

援農隊には当然一人一人の事情がある。過疎で苦しむ離島を救うためというボランティア精神から行動を発した人が多いのだが、ボランティアとは生業または本業が別にあるということだ。学生ならば四月になったら大学に戻らなければならないし、職業が決まっている人は会社にいかなければならない。そうしないと人生設計が大幅に狂うことになる。

援農隊のうち、事情を抱えた多くに人が返っていき、残された人だけでは製糖工場も砂糖キビ畑も作業をつづけることが困難になった。そこでまた助っ人を頼まなければならない。島は再び苦悩することになったのである。

与那国町長が出した案は、自衛隊員のキビ刈り応援で、実際に那覇の駐屯地を訪問し要請した。すると左の陣営がにわかに騒然とし、労働の代表が与那国町役場に押しかける騒ぎになった。戦争を体験した沖縄は、自衛隊の動きに関しては敏感である。

与那国町長は労組にも援農を要請したため、話はいよいよ混乱した。自衛隊は援農のため与那国島に人を派遣することは、結局なかった。そんな細かな状況はわからないまま、援農隊は黙々と作業をつづけた。結局のところ一本ずつ倒していくよりしかたない。

そのうち石垣島や西表島にはいった援農隊が、仕事が終わるや与那国島に手伝いにきてくれた。これが大きな働き手となったのであった。

砂糖キビ刈りは四月十五日に製糖工場も製糖事情を終了した。そこには慣れない援農隊員の、獅子奮迅の活躍があったのはいうまでもない。善意のボランティアが、離島の問題の中に吸い込まれた格好であった。通常でないことが多かった分、一人一人が考え、悩み、その苦しみが血や肉になっていったのである。援農隊は意地で頑張り通したということだ。最後まで働き通したということだ。最後まで働き通した人の数は、五十人ということである。

援農隊に身を投じた若者たちは、それぞれに善意からそうしたのであり、政治の波にここまで翻弄されるとは考えてもみなかった。だがそのことも、過ぎてしまえばよい思い出である。

与那国島では大きな行事があると、牛をつぶして肉塊をゆで、みんなに配る。その場では食べきれないほどの大きさなので、お土産に持って帰ることになる。旅の人である援農隊は、それぞれに世話になった家に肉塊を持っていく。

公民館では牛肉を食べ、泡盛を飲んで、歌い踊って喜びを表現する。この宴会に参加して、援農隊員はようやく大きな仕事が終わったことを実感するのだ。

朝鮮漂民の見聞

 

島へ島へと

朝鮮漂民の見聞

朝鮮済州島からの漂流民の話を続けよう。

まず七日間は浜に置き、交代で食事を与えた。もし彼らが悪霊を持っていれば、それが集落に入ってしまうからである。だが七日がたち、漂民たちに悪霊がついていないことがわかると、与那国島の人々は彼らを民家に迎えいれたのである。与那国には三つの集落があった。集落の人たちが順番に食事を与え、一軒ずつすべての家が役割を果たすと、次の集落に移動させた。一カ月後には三人いた漂民を一人ずつ三つの集落に分けた。この話からは、それぞれの集落にも、島全体にも、強力な指導者がいなかったことがわかる。海の向こうからやってきた突然の負担を、島の人たちはみんなに平等に割り振ったということである。ゆるやかな原始共産制が成立していたに違いない。平等な負担であり、一人にすれば軽いものであったから、不満がでるわけでもない。六カ月後に南風が吹いた。島人五、六人が舟で次の島の西表島に送ったとされる。海上に見える隣の島にいくのも、季節を待たなければならなかったということだ。もしくは島人は先に使者を立て役所に支持をあおいだということであろうか。十五世紀には島から島の間でもなされていたことを示している。島人五、六人と漂民三人とを一艘の船に乗せたのだから小舟といってもそれなりの大きさがあることがわかる。こうして島を一つ一つたどっていった。西表島から新城島、黒島、多良間島、宮古島と順々に送られていき、那覇についた。争いごともない。漂人たちは那覇に三カ月滞在した。ちょど琉球にきていた博多の商船に乗り、一度博多に寄ったのかどうか朝鮮の記録なのでつまびらかでないが、三年目に故国朝鮮に帰ることができた。その年一四七九年五月だとされている。尚真王治世のはじめ頃で、まれびとたちを精一杯遇した島人たちの気風が感じられる。池間栄三氏の「与那国の歴史」にはその時の朝鮮漂民の見聞記がのせられている。

「この島の住民は長大でひげが美しく坐ると膝に至り、女は髪が長く立って地に届いた。言語衣服は日本人とはちがう。漂流民が木の葉に朝鮮国と書いて見せたが解らぬようであった。衣服は麻や木綿で絹はなく苧を織った布でつくり、袖は短く広く仕立て藍青に染めてある。男は褌はなく裳を着ける。その裳も青に染てある」着るのは麻や木綿で、麻を裂いて苧を織るということは、現在でもなされている。すでに藍を使っていたようである。

稲を食べた。粟はあっても植えなかったということは、雑草として存在していたということであろう。それだけでもそれだけでも島人の豊かな暮らしが想像できる。飯を炊くのに釜や鍋はなく、土で鼎をつくって、稲でいぶすだけなので、五、六日でこわれてしまう。皿や椀などの陶器はなく、飯は竹筒に盛って掘り飯にし、木の葉を食器にした。海水を菜に加えてあつもりをつくり、米を噛んで

木桶にいれ口噛み酒をつくった。舟にはさおがあり、櫓はない。風が出ると帆を張る。「盗賊がいない、道におちたものは拾わない。互に罵ったり喧嘩をしたりしない。小児を愛撫し、泣きわめいても手で打つことはしない」まことに平和な島の様子が感じられる。

波之上の歳月。

 

島へ島へと

波之上の歳月。

波之上の「ビアホール清水港」で働いたことは、私のとってよい思い出である。私は沖縄を旅するたび、あの思い出の香りをかぎたくて、波之上に足を運ぶ。

ある日、マスターとママの顔が見たくて「ビアホール清水港」にいくと、外装がまったく別のものになり、派手なネオンサインが輝いていた。潜りのナイトクラブではなく、正式にAサインの看板をだした堂々たる店に生まれ変わっていたのである。名前も「チャイナタウン」となっていた。尋ねると、経営者は別の人だった。

夜空に怪しい花を咲かせたような、赤と緑と黄色の三色のネオンサインであった。「ビアホール清水港」のひっそりとしたたたずまいが、懐かしかった。今から思えば、あの頃が波之上の最後の輝きだったのかもしれない。ベトナム戦争は最後の決戦に向かって、いよいよ惨烈になっていた。すべてに余裕がなくなり、Aサインバーが閉まってから開くアウトローの店など、許容できなくなったのかもしれない。

マスターやママやチーママはどうしたのだろう。生活力のある彼らだから、何処かでしぶとく生きているのだろうが、私は消息を知らない。歓楽街とは、人が激しく交通する場所なのだから、出会いは一瞬の花火のようなものだ。あれから歳月がたち、アメリカ軍政下にあった沖縄は日本に復帰した。私は総理府発行の身分証明書がなくても、簡単にいけるようになった。昔は沖縄にいくとなったら必ず船だったのだが、今は飛行機が当たり前になった。日帰りさえも可能になり、旅は実に簡単でドラマも失われたのである。

那覇にいったら私にとっての青春の聖地を訪ねるのがならわしとなり、はからずも私は波之上の変遷を眺めることになった。ベトナム戦争がアメリカ軍の敗戦で終焉し、基地はそのまま存続していたが、兵士の数はめっきり減った。明日の命も知れず破れかぶれで遊んでいたアメリカ兵の姿はぐんと少なくなり、ナンミンの灯は消えそうになった。その灯を救ったのは、本土から新しくやってきた自衛隊員だった。アメリカ兵が去っていった隙間を、自衛隊員がそっくり埋めたといってもよい。

そのかわり、アメリカ人好みの派手なネオンサインは、どんどん影をひそめていったようだ。ナンミンはラスベガス風の街ではなくなっていき、なんだか暗く淫靡(いんび)な感じになってきた。暗闇の中から生まれてきたとでもいうように風俗営業の店が、軒を連ねるというのではなくぽつりぽつりできた。辻の遊郭があった時代に戻っていったのかもしれない。建物と建物の間には吸い込まれそうな深い闇があり、善良な市民から遠ざかるという印象がますます強くなった。ネオンがやたら明るくて、少なくとも表面的には陽気に酔っぱらっていたあの頃とはずいぶん雰囲気が変わっていった。

西武門交番(にしんじょうこうばん)の角から波之上宮のほうにブロックをひとつ寄った角にあった「ビアホール清水港」の建物は、ある日そこにいってみるとまったく消えていた。ビルになっていたのだ。そこにテナントなのかどうか、沖縄料理の店がはいっていた。高級そうな店である。あとで人に尋ねると、内地からの観光客が食事にくるコースになっているということであった。

当時のことであるが、波之上には沖縄に通り過ぎていった歴史が、そのまま通っていったのである。