シマチャビ

 

島へ島へと

シマチャビ

かつて東京から与那国島に渡るには、まず那覇にいき、そこから石垣にいき、そこまでは予定通りにいくことができた。その先は不安定要素が多くて、予定がどのように変わるかわからなかった。石垣島からは、福山海運の「よなくに丸」で八時間かけ黒潮を渡る。この船は揺れるので有名だった。

もしくは石垣空港から十九席しかない小型飛行機DHC-6に乗るかだった。これはあまりにも小さい飛行機なので、天候の具合でしょっ中欠航になった。石垣飛行場までいくと、「欠航」の看板がでている。有無をいわせない力が、その看板にはあるのだった。「欠航」がでると、どんな事情があろうともそこから引き返さなければならない。予約はその時点で完全に取り消されるので、また改めて予約を取り直さなければならない。次の便、もしくは翌日の便でいければいいのだが、なかなか予約をとることができない。それが大問題なのだった。船ならば予約をとれないということもない。しかし、週に二便ほどしかなく、どうしても飛行機でいけない時のための補助という感じがあった。牛などを送る時も、牛だけ船に乗せ、人は飛行機でいく。船は揺れるし、船酔いもする可能性もあるので、難儀でもある。そのことをよく知っている島の人はほとんど飛行機を利用し、船に乗るのは九割までが内地の人間である。船のほうが運賃は安いのだが生活のためには船は不便だということである。

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シマチャビ-2

 

島へ島へと

シマチャビ-2

今は与那国空港の滑走路は拡張され、石垣からも那覇からもジェット機が飛んでいる。石垣の便は午前中と午後と二便あり、たくさんの人が乗れるし、大型なので欠航もめったになく、昔のような不便さはない。ただし、昔の不便さがなつかしい反面もある。与那国島にしてみれば、午前中の便で人がどっときて、小さな島の中を駆け足で観光し、午後の便でまたどっと帰ってしまう。旅館に泊まるわけでもないし、ただゴミを落としていくだけだということになる。

私もむかしの不便をなつかしく思う。かつては石垣までいた派手な服装をしたいかにも観光客らしい人たちも、与那国島行きの便では影をひそめた。普段着の島の人か、作業服を着た工事関係者ばかりであった。与那国まで、観光に行くとは一般にはあまり発想にはなかったのである。

実際に、観光旅行というものは会いたい予定が決まっているのであり、石垣で空席待ちを二日間もするというのは考えにくい。かつての与那国空港は、少しでも強い南風が吹けば、飛行機は横風を受けて着陸不能となった。私も与那国空港も上空まできながら、引き返したことがある。

比較的最近の事であるが、沖縄県から与那国島で講演をするよう頼まれたことがあった。私は東京から石垣島まで直行便で行き、同行する石垣島の校長先生と待ち合わせた。ところが天候がどうもよろしくない。石垣はよいのだが、与那国は風が吹いていて、飛行機が着陸できるかわからないということだ。私は校長先生たちとチェックインをすませ、飛行機が出るかどうかとやきもきしながら待合室にいた。

その時、突然アナウンスがあった。

「与那国空港横風のため、欠航します」

そのとたん、待っていた人たちが一斉に立ち上がり、帰っていった。みんな無言で、運命に従順という感じであった。私も人の流れとともにいきながら、昔を思い出し、一つの言葉を思い出した。シマチャビ、離島苦という言葉である。どんなに便利になったようであっても、本質は変わっていない。

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ウラブ岳の月見

 

島へ島へと

ウラブ岳の月見

民宿さきはらは夕方になると出かけていく人があり、しばらくすると帰ってくる人もいた。製糖工場は十二時間交代で、昼夜は一週間に一度は交代する。帰ってきた人は、まず、お風呂に入ってさっぱりし、それから夕食をとる。民宿のおばーは、これら出勤する人のためにと、仕事から帰ってきた人のためにと、二度夕食を出さなければならないということになった。

夕食が終わると、おばーは、一安心するようであった。おばーも昼食は砂糖キビ畑に出てキビ刈りをしているのである。夕食の支度のために畑から少し早く切り上げ、近所のおばーに手伝いにきてもらっていたかもしれないが、満室の客に朝晩の食事を供するのは大変なことである。だが砂糖キビの季節はみんなが頑張る島で遊んでいる人は一人もいない。役場や農協に勤める人は土曜日の午後と日曜日は鎌をもって畑にやってくる。内地からきた学生が海岸でテントを張ってキャンプをしていると、畑に引っ張り込まれる。その翌年のことだが、そんな学生たちを私はたくさん見たのであった。島外からたくさんの若者がやってくる砂糖キビ刈りの季節は、島の人たちにとって楽しみの一面もあるようだった。はじめは他所者(よそもの)に慣れなかった島人も、よそからくる人は結局島を救っているとの認識が広がってきて、そんな変化を受け入れてきたようであった。「ウラブ岳にお月見にいきましょうかねー。今夜満月だから、きれいですよー」

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ウラブ岳の月見-2

 

島へ島へと

ウラブ岳の月見-2

 

民宿さきはらのおばーがまわりの人にいきなりいう。いこういこうということになり、民宿さきはらのおじーがトラックを運転することになる。みんなは我先にと荷台に跳び乗っていく。私も乗った。

島の外では人がトラックの荷台に乗るのは道路交通法違反になるが、島ではトラックは最大の交通手段だ。駐在所に警官が一人いる。そんなことでそんなことで取り締まろうものなら、実際に取り締まった例がないのでわからないにせよ、大変なことになるに違いなかった。

今でこそ島内にはアスファルト道路が縦横に通っているのだが、当時はウラブ岳にいくにはずいぶん迂回していかねばならず、しかも砂利道であった。暗い夜道をトラックが大きくバウンドするたび、荷台の鉄板に尻をしたたかに打たれ、荷台に乗っている男も女も一斉に悲鳴を上げる。それがまた楽しかったのであった竹が道の方にかぶさっていて、荷台を掃くようにしていく。そんなことでもまた悲鳴が上がる。気持ちのよい風が吹いてくる。私は三十歳の半ばであったが、まるで青春が戻ってきたような気分になったものだ。ウラブ岳の山頂には大きなアンテナが並んで立っていた。そのために工事用の道路が通っているのだ。おかげで私たちは月見ができる。トラックが止まったので荷台から跳び降りると、四方に海が見えた。暗い海と月あかりが染みた空との間に、微かに水平線が見えた。満月の下の海は、黄金の光の粉がこぼれたようにキラキラと輝いていた。本当に粉が降りそそいでいるかのように見えた。自分は今日日本列島の最南西端の与那国島にいるのだと、荷台に乗ってきた連中は皆しみじみと思ったに違いない。

運転台にいたのはおじーとおばーだった。おばーは三線を持ってきていて、みんなの前で民謡を歌いはじめた。三線が出てくると、ナイチャーは聴く側にまわるしかなくなる。文化の違いを思い知るのだ。いつしかウラブ岳山頂の月見の会はおばーの民謡を聞く会になっていた。月も聞いているかのようであった。

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日本の札。

 

島へ島へと

日本の札。

東京のナイトクラブ探訪に、私が案内人としてふさわしくないと気づいたマスターは、一人で歩きだすようになった。新宿の三色メニューのナイトクラブにいった時も、次の店へは自分一人で歩いていった。大体の場所がわかったら、経費のこともあるし、私は行かないほうがよかった。

私が先に下宿に帰って寝ていると、明け方頃にマスターはずいぶん酔って、御機嫌で戻ってきた。「東京はチップの習慣がないねータクシーの運転手にチップやったら、喜んどったさー。あんなに喜ぶのんかねー」マスターはいかにも不思議だというふうにいう。チップはそもそもがヨーロッパかアメリカの習慣で、東京あたりではほとんどない。マスターがあまり驚いたふうにいうももだから、私は問う。「いくらあげたんですか」「これだよ」マスターが財布からだして私に見せてくれたのは、五千円札だった。今の五千円よりも遥かに大金である。

「こんなに・・・・」

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日本の札。-2

 

島へ島へと

日本の札。-2

 

「喜んだからいいじゃないか」

「五千円ですよ」

「何ドルか」

「五千円を三六Oで割ってください」

マスターは頭の中で計算し、拳を自分の掌に打ちつける。しまったということだ。私の下宿の一月分の家賃はどである。「暗いからわからんよー」マスターはいかにも残念そうにいうのであった。「運ちゃんはよろこんだでしょう」「それは、本当にいただけるのかって、何度も聞いたよー」「そりゃそうですよ」「日本の札はわからんよー」残念そうにマスターはいうのである。当時沖縄はアメリカ・ドルを使っていて、マスターには日本の札は馴染みがない。千円も五千円も一万円も、札のデザインをよくよく見て頭で考えなければ、判断がつかないのである。その逆のことが、沖縄にいった時の私などにもいえた。百ドル紙幣などはめったに見ることもないのだが、それも一ドル札と同じような色とデザインと大きさである。印刷されている人物の顔と、金額の数字だけが違う。支払う時には数字をよく確認してからにする。それは今でもアメリカにいくと経験することである。形もデザインもまったく違うのであるから、日本の札のほうがまだわかりやすいということになる。マスターは東京で大いに札びらを切ったようであるホテル代を浮かそうと発想したくらいだから、そもそもの所持金もたいしたことはなかったのかもしれない。マスターは東京のナイトライフを存分に楽しみ、また船で帰っていった。飛行機も飛んでいたはずだが、飛行機に乗ろうという発想は、貧乏な学生の私はもとより、多少金を持っているマスターにもなかった。

しばらく後で私は波之上の「ビアホール清水港」にいったのだが、その時チーフが、私の耳元でこんなふうに囁いた。「マスターは新宿で大暴れしたそうだねー何か気にいらないことがあって、ナイトクラブの店長呼び出して、テーブルひっくり返したそうだねー。店長は土下座して謝ったってねー」

「それはすごかったですよ。どうなることかと思って」

マスターの名誉のために、私はこう答えたのだった。

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犬と花嫁

 

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犬と花嫁

与那国に伝わる「いぬがん」の話は、池間栄三氏の「与那国の歴史」にあっても、古代の雰囲気を漂わせている。久米島から琉球中山王への貢物を積んだ船が出航したというから、中世のはなしであろう。離島に流れる時間は、沖縄本島に流れるものとも、またヤマトに流れるものとも、まったく違っている。それがまたおもしろいところである。

琉球王朝への進貢船は、嵐のあって行き先を失い、漂流をする。何日の何日の大海原を漂い、ようやく島影をみつけた。さっそくこぎ寄せていき、上陸すると、よさそうな無人島で、ある。そこが与那国島である。

伝説の中で、与那国島が無人島として何度も登場するのだが、不思議である。長雨が降り、火が降り、大津波があり、大災害にみまわれ、ごく少数の人が生き残る。生き残った人が与那国島の祖だというのだが、何人も始祖がいることになってしまう。災害にみまわれたのは何度もで、そのたび少数の人が生き残り、そこから派生した幾系統かの子孫たちが、それぞれの島建ての物語を語り伝えてきたのかもしれない。「いぬがん」の始祖は久米島の女である。久米島の一行は全員で何人かはわからないのだが、一人の女と一匹の犬がまじっていた。小屋を建て、海や山で獲物をとって生活をはじめた。ところが男が一人ずつ姿を消してゆく。どこにいってしまったのか、まったくわからないのである。

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犬と花嫁-2

 

島へ島へと

犬と花嫁-2

最後に残ったのは、女と犬であった。男は一人ずつ犬に噛み殺され、死体を始末されていたのだ。必然の結果として女と犬は暮らし始めた。暮らしたその場所を「いぬがん」といい、異類婚の話として伝わっている。これは与那国がまだ人間による文化の世界にはいりきっておらず、自然と文化とがどちらがどちらに屈服するというのではなく、並列的に存在したことを示している。だが、子どもが生まれなかったから、自然と文化と両義的な存在として人間が存在していたのではない。「てだん・どぐる」「どなだ・あぶ」「ながま・すに」の島建ての伝説に共通するのは、圧倒的な力を持った自然に人間が傷めつけられ、かろうじて命をつなぐという話である。「いぬがん」に至っては、自然と人間が並列ではあるが共存しはじめたということが、文脈から読みとることができる。

女と犬とは性的な交渉があったとみるべきである。犬がライバルである男を一人ずつ殺していったのだから、犬のほうから女にアプローチがあったとみるべきだおそらく犬は幸福だったが、女も同時に幸せであったとは書かれていない。ここには暴力による恐怖支配があったのかもしれない。

ここに小浜島の男が突然登場する。小浜島の男の漁師が、一人小舟で潮干狩りに出かけ、荒天にあって漂流したという。小浜島は石垣島と西表島の間にある小島で、船を自由自在にあやつる漁夫がいたということは、すでに文化的な生活をしていたということである。沖縄本島には中山王がいて、久米島から貢物が運ばれたというから、琉球王朝に属する島々にも文化の発達の程度にはばらつきがあったのである。それらの島々の中でも、与那国島はまったく自然のもとにあったということである。

与那国島に漂着した男は「いぬがん」にいき、女に会う。女はたいそうな美形であった。ここには猛犬がいて危険だから逃げるようにと、女は懸念にさとす。犬はちょうどどこかに出かけていたのだ。男は島を去ったふりをして木に登り、犬がやってきたところに銛をうつ。犬はなお向かってきたのだが、男は木から跳びおりて、蛮刀で切り殺した。

小浜島の男がこんなにも危険なことをしたのは、女が久米島美人だったからである。

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粟一斗の値段の男

 

島へ島へと

粟一斗の値段の男

与那国島の族長ウニトラは、そもそもが宮古島の狩俣の生まれである。宮古島が飢餓になり、与那国島の商人がウニトラを十歳の時に粟一斗で買ったとされる。ほとんど奴隷同然の悲惨な暮らしをしてきたのである。

ウニトラは文武両道のすぐれた男に成長した。身長は緋一丈五寸あり、頭は三斗俵の大きさもあったと伝えられる。このような豪傑になり、力は強い上に頭もよい。このウニトラが成長するにおよんで、与那国与人は自分の支配力がおよばないことに危機意識を持ったのであった。

与那国与人は那覇の中山王府に対し、与那国島のウニトラという人物が反乱の意思ありと伝え、援軍を求めた。与那国与人とすれば狭い島ではほかに逃げ場所があるわけではなく、生命の危機を感じたのであろう。中山王府へ援軍の要請をすると同時に、西表島やその周辺の島の勇士にも呼びかけ、ウニトラとの戦さを仕掛けようとしたということである。それぞれの島には腕に覚えの勇者がいて、波照間島からウヤミシヤ・アカタナという男が呼びかけに応じて参じてきたということだ。

南海で反乱が起きようとしているという知らせに、中山王府の尚真王は宮古島の頭にウニトラを滅ぼすように命じた。宮古島の頭は仲宗根豊見親空広で、尚真王は特に彼に治金丸という御剣を貸し与えた。仲宗根豊見親空広は尚真王に恩義を感じ、兵を集めると、ただちにうにとらを討つべく海を渡っていった。この仲宗根豊見親空広は兵たちともに、四人の女神宮をしたがえていた。どのような行動をとったらよいかわからず、迷った時には、女神宮がト定(とじょう)によって決定していたのであろう。

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粟一斗の値段の男-2

 

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粟一斗の値段の男-2

 

この仲宗根豊見親空広のウニトラ征伐は、一五二二年、仲尾金盛がサンアイ・イソバを討つため与那国島に渡り、逆に撃退された年から数えて二十二年後のことである。与那国島ではサンアイ・イソバはもう亡くなってしまっていたかもしれないが、その後を継いだウニトラによって、英雄支配はつづいていつたのである。ウニトラは宮古島の狩俣の出身であるから、サンアイ・イソバとは血縁関係にない。島の族長は世襲ではなく、最もふさわしいものがなるという、原始共同体の美風が残っていたと考えるべきであろう。治金丸とたいそうな名前を持っている剣についても、いわれがある。ある時、宮古島平良の武太ガーと呼ばれる井戸には、夜毎物音がして光が発し、人々を大いに驚かしたという。宮古島の首長の仲宗根豊見親空広がこれを掘ると、刀がでてきた。仲宗根豊見親空広はこの刀を宝物として大切に保存していたのだが、赤蜂の乱と呼ばれる大規模な反乱がおこってそれを鎮圧した後、夫人宇津免嘉とともに那覇に去っていった。戦勝を中山王に報告するためである。よほど嬉しかったのに違いない。仲宗根豊見親空広と夫人宇津免嘉とは治金丸を中山王に献上し、今回中山王から再び下賜されたということである。南島の一族長との戦いという以上の意味が、ウニトラとの戦争にはあったのかもしれない。十六世紀のはじめこの時期、那覇の中山王朝にまつろわぬ人々の反乱がしばしば伝えられている。八重山の大浜村の族長赤蜂は、三年閑朝貢を断った。赤蜂はイリキヤ・アマリ宗というものを信仰していたが、この祭事が淫蕩なのでこれを禁じたとある。どのように淫蕩なのかは残念ながら資料がないのでわからない。赤蜂の反乱は、この信仰を弾圧したことへの反乱であった。

同時期、与那国には伝説の女族長サンアイ・イソバがいたのである。

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