援農隊募集

 

島へ島へと

援農隊募集

与那国農協での人手募集の提案を受けた藤野博之さんや黒田勝弘さんら

新聞記者のグループは、援農舎をつくり、さっそく準備をはじめました。

新聞記者らしく新聞や週刊誌に記事を書いたのだが、なかなか反響がない

そこで若者受けのラジオの深夜放送で流してもらうと、電話での問い合わせが殺到した。食事のもトイレにも行けない状態になり、電話がつながらないので直接訪ねてくる人のいた。その日の問い合わせの電話は三千件を超えた。

援農舎で説明のためのチラシをつくって配った。「沖縄で砂糖キビ刈りをしませんか!」「南海の楽園ー伝説と哀愁の南島・与那国での生活体験よん四十日」

「島はこうして不足する労力として畑作四十人、製糖工場四十人、計八十人を求めている。年齢、性別、経験は問わない。島の生活はすべて与那国農協が責任を持つ。一月中旬から二月末にかけて四十日間、与那国のひとびとと生活を共にし、昼間は働き、夜は泡盛(花酒)を飲みながら、語りあるいは唄い、踊る〝体験旅行〝だ。」

どうも楽しみな文面である。このことに藤野さんは違和感を覚えたと、

「与那国島のサトウキビ刈り援農隊」で書いている。

「これを見た人が思い浮かべるイメージが甘くなるのではないかと思われたからだ。だが、わたしはこのチラシができた後にこれを読んだのだった。また希望者には農家住み込みでもできると書いたが、実際には受け入れ農家はあらわれず、結果的には住み込みはできなかった。」

北の地方に住んでいる人からは、南島は楽園と見える。いつも花が咲いていて、バナナが実り、Tシャツと短パンとゴムゾウリで過ごすことができる。冬もないのだし、そんなに働かず、適当に楽しくやっていればいい。

それが楽園のイメージなのだが、現実はもちろんそんなものではない。

南島で生きるのは、孤独に耐える強い気持ちがなければならない。砂糖キビの仕事は私も経験したので身に染みているのだが、過酷きわまりない。

だが砂糖キビというだけで、甘やかな汗をいっぱいにためた南国の豊かなイメージで満ちている。そのことによって南島への誘いとするには、リゾート気分で遊びにくる人に向かってではない分だけ、結果として危険だと藤野さんはいっているのである。

しかし、最初から過酷さを前面に出したのでは、人はやってこない。苦しさの中に南国の楽しさもあるというのが、本当のことであろう。

募集人員が八十人のところ、説明会には五百人以上が集まった。援農隊の目的は与那国島の農業振興を助けることで、仕事はらくではなく、日当

男は三千五百円、女三千円で高いとはいえない。出稼ぎによる日当目当てをしようという心づもりの人には、条件は悪すぎる。それでもきたいという人を求める。主催者とすれば、そんな説明をしなければならない。

与那国島への援農隊に参加する動機、決意、体力、畑作業か工場勤務かの

希望等を記した書類を提出してもらい、八十人の採用は主催者のほうから後日連絡することにした。主催者の手元に残った書類は、三百通を超えていた。それほど多くの人が与那国島の過酷な労働そに何かを求めていたのだ。しかも、そこまでの参加者は、東京ばかりではなく、北海道から東北

地方、大阪からも来ていた。すべて自費でそこまで参加していたのである

 

 

操業がはじまった

 

 

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操業がはじまった

話し合いがこじれ、いたずらに時間が過ぎて、製糖工場の操業はなかなかはじめることができなかった。そんな時、与那国農協がこんなにも追い詰められているのに、ボランティアの名のもとに集まった暖農隊が日当をもらうのはおかしいではないかという議論が、湧き上がってきた。

この点について、暖農舎の藤野博之さんは答えている。砂糖キビ農業は与那国島の基幹産業で、明らかな経済活動である。それをボランティアで行わなければならないほうが異常である。労働期間は一ヶ月以上かかり、生活費もかかるので、まったくの無償でやることはできない。島のひとたちももらっている日当を暖農隊ももらうことによって、仕事の責任もででくる。途中で帰られるのが島にとっては困ることであり、全期間を働いてもらうには、生活もある程度保証されなければならない。本土に家族を残してきたひともあり、後方の心配をなくして、責任をもった労働力を安定して確保するためには、ある程度の賃金を払うのは当然ではないか。

暖農隊の本当の目的は、与那国島に自立をしてもらうことである。暖農隊はあくまで手伝いで、与那国島が基幹農業の製糖を自分たちの力でできるようになるまで、助力するということである。

そのためには、暖農隊の人集めの方法を、与那国農協の知ってもらわなければならない。当面の人手不足のため基幹産業が崩壊されることをおそれるが、五年間は暖農隊を送り込むので、その間に与那国島が自立してほしいというのが、暖農隊の望みである。砂糖キビ畑や製糖工場で働く隊員は日当をもらうにせよ、世話人の藤野さんや黒田さんは完全なボランティアなのである。

波照間島では、製糖工場の処理能力は低いのだが、長い日数をかけてほとんど島民だけで製糖事業をやっている。つまりは与那国島が人手不足になり、製糖事業が困難になっているのは、やり方が間違っているからなのである。それを正すための何かの方法があるはずなである。それをかんがえたい。

製糖をはじめているまわりの島でも、手伝いの暖農隊は様々な困難に直面していた。小浜島では畑で働く人も工場に住み込んでいたのだが、出される食事があまりに粗末であった。このことわは団体交渉をした。また小浜島は「はいむるぶし」というリゾートがあり、農家にしてみればじぶんたちはリゾートに勤めて高い賃金をもらい、安い労働力の暖農隊を雇ったほうが経済としては合理的である。もちろん島の自立を求めて意気に感じて暖農隊に参加した人にとっては、矛盾としかいいようはない。

当初の予定より二ヶ月遅れの三月六日になって、ようやく製糖工場の操業がはじまった。これ以上遅れると収穫をしても良質の黒糖は得られない。つまり、ぎりぎりの日程だったのである。

やっと仕事につくことのできた暖農隊であったが、仕事はきつかった。畑は明るくなってから、手元が見えなくなる暗くなるまでが労働時間である。月夜の晩にも働かねばならない。限界まで働かなければ、一日二百トンの原料搬入はとてもできない。

工場は午前八時からと午後八時からの二交代で、一日で十二時間働く。昼番と夜番は一週間交代で、交代の都合によっては一日十八時間労働になる。一週間で夜と昼が逆転することになり、深夜から明け方にかけて眠たくてたまらなかった。

 

 

東京からきた学生

 

 

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東京からきた学生

泊めてもらうことになった小学校の宿直室で、東京からきた学生と本格的に議論する気になった先生は、私のほうに身を乗りだしながらいう。

「私たちの復帰運動は、東京のほうではどう受けとめられているんですか」

こんな質問を向けられても私は明解に答えることはできない。東京のほうでといっても一枚岩であるはずがなく、沖縄に対するさまざまな考えが分裂している。沖縄をアメリカや日本からの解放区とする、つまり、沖縄を革命の前線基地とし、アメリカと闘うベトナム民族解放戦線と連帯する。このような左翼的な考え方から、アメリカより日本に帰るべきだという、民族主義に基づく考え方まで、様々に四分五裂していたといったほうがよい。また沖縄独立運動を支援したいという心情もあった。共通しているのは、第二次世界大戦後の軍政下からの脱却である。

当時の私といえば、物情騒然としていた東京の学生運動の左翼的な考えの影響を強く受けていた。そのため大学で議論したり、パンフレットに書いてあったりしたことを受け売りで話す。復帰運動をしている現場の先生とは微妙にニュアンスが違い、なんとなく困ったようなことになる。沖縄に対するあふれる思いはあっても、それをうまく表現する自分の言葉を私は持っていなかったのだ。

「この前、東京の学生がここは日本なのだからパスポートは必要ないと主張して、那覇港に上陸する前に船内で身分証明書を燃やしましたね。沖縄の学生も何人か交じっていたようですが。気持ちはわからないでもないが、その行為は自己満足的だとは思いませんか」

鋭い言葉が私に向けられてくる。身分証明書を燃やし、警察に逮捕されることにによって沖縄の現状をあぶり出す捨て身の行為に、私はできないながらも共感するところが多かった。その知らせを聞いた時、私は個人的な旅人にすぎなかったのだが、那覇港にいって学生たちの小さなデモに加わったりした。もとより覚悟の上で逮捕されるのは勇気ある行動だが、子供たちとの現場から発想する先生たちからすれば、もっと粘り強く持続的な行動をすべきだと考えるに違いない。身分証明書を燃やした事件の当事者でもないのに、私はその先生の議論にこてんぱんにやられてしまう。その先生の論理ももとをただせば政党の受け売りだと読み取ることはできるのだが、とにかくその日の宿を確保しなければならない私は、どうしても反撃を控えてしまう。とことんやりあい、議論が白熱し、学校の宿直室から追い出されることだけは避けねばならなかった。

情のないのだが、沖縄の現状を心情でしか理解してない浅はかな旅人の、それが限界であった。いろんな主張があり、その幾つかに私は共鳴してもいたのに、宿直室で主張し通すほどには自分の意見になっていないのxである。私のいいたいことは類型的で、もしかして先生のいわんとしていることも類型的なのであろう。ただ先生には、学校や子供という現場がある。私には茫然とした旅の空があるばかりなのだ。

「勉強させていただきました」

私がこういってたいてい議論は終る。よくいえば強張りのない受難性があるのだが、つまりは自分の言葉がないのである。情ない。

 

砂糖キビ畑で見られる

 

 

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砂糖キビ畑で見られる

働きたいし、使いたいのだが、お互いの心理の糸を結ぶことができず、話もろくにできない。一九六〇年代後半、沖縄がアメリカ軍政下にあった時代、沖縄の砂糖キビ農家の親父と東京からきた大学生はそんなふうだった。沖縄の強い訛に耳が慣れていなかった私は、何を言っているかも聞きとれないほどであった。結局私は砂糖キビ畑を何箇所かまわっても、使ってもらえなかった。技術はともかく、屈強な体格をして若く元気なのにである。路銀はそろそろ尽きようとしている。鹿児島まではいけばななんとかなるだろうが、その金もないのであった。それならどうしたらいいのか。世界共通のことではあるが、土地に生産関係を依存している農民は、土地を守ろうとしてどうしても保守的になる。素性のわからない人間に対しては、どうしても保守的になる。東京の大学生と名乗っても、どこからやってきたのか得体の知れない私は、どんな災いを持ち込まないともかぎらない。災いとは、働かなくてもいいといって、サボタージュしたり、人に怠け癖を植え付けたり、その土地にある上下関係やいろんな関係を否定したり、つまり悪い思想を持ってくるかもしれない。この思想というやつは目に見えないから、どんな外見で近づいてくるかわからないのである。そんな危ないかもしれない人間なら、自分たちの領域にいれないほうがましだ。砂糖キビ畑の手が足らず、働いてもらいたいのはやまやまではあるのだが、とりあえずかえってもらおう。

災いは、まだほかにもある。日当いくらで雇ったはいいが、意識的にであれ能力に問題があるからであれ、全然働かないかもしれない。それで一人前の賃金をとるのだとしたら、払うほうも損だし、一生懸命働いている人も、自分のやっていることが馬鹿らしくなる。これは仕事にはかりしれない影響が生じてこよう。

この人間は、悪い病気を持っているかもしれないではないか。病気でその人間だけが働けないのならともかく、周りの人間にうつし、砂糖キビ畑刈りどころではなくなってしまうかもしれない。また大飯喰らいで、もしくは大酒のみで、いくら食べて飲み、どんなに働いてもらっても割に合わないのかもしれないのだ。

暴れもので、まわりの人に暴力をふるったら、秩序が乱れて大変だ。女性達に襲いかかるような人間かもしれない。犯罪を犯して、ここまで逃亡してきたのかもしれない。そのほか悪いことを考えると、次から次と連想されてくる。名前の知らないこの男など、雇いいれないほうが無難というものだ。

一方、砂糖キビ畑の勤勉な働き手となれば、その農家の主人にとっては得がたい富を手にすることになる。よい考えを持つよい人で、まわりによい影響を与えてくれるかもしれない。ほかにも先程もなれべたような悪いことを裏返したらよいことを、次から次やってくれ、はかりしれないよい働きをしてくれるのかもしれないのだ。

まれびとは、災いをもたらすか、富をもたらすかである。どちらの可能性をもある。砂糖キビ畑を手伝って富をもたらしてくれるかもしれないが、もっと大きな災いをもたらしてくれるかもしれず、それがわからない以上、この男には近づかないほうが無難である。

砂糖キビ畑の男は、私を前にして一瞬のうちにこんなふうに考えたのだろう。

 

 

青竹の灯火

 

 

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青竹の灯火

朝鮮済州島から漂民が与那国島にやってきたのは尚真王治世のはじめの頃で、一四七六年と推定される。この頃、大和」のほうでは応仁の乱の余波がいつまでもつづき、京都の寺が兵火にかかって焼失した。足利義政の時代が終わり、足利義尚の時代になっている。戦乱は各地でつづき、殺したり殺されたりをつづけ、戦国時代への予感を覚えさせる。

下剋上のすさんだ風が吹き荒れるヤマトとはまったく別の世界に、与那国島はあった。池間栄三「与那国の歴史」をテキストに、朝鮮漂民が記述した与那国島の描写を試みてみよう。

穀物や草を刈る時には、鎌を使う木を伐る時には鎌を使う。小刀はあるのだが、弓矢や矛はない。人々は小槍を持ち、いつもこれをま持ち歩いている。

農業をするのに、鉄を使っていたということである。小刀は日常生活になくてはならないものであるが、弓矢は狩猟や戦闘のためである。つまり、戦争を想定していず、まことに平和な暮らしをしていたということだ。いつも小槍を持ち歩いていたということは、あくまで自衛のためのものであったろう。

与那国島には鉄山はなく。砂鉄を産するということも聞いたことはない。つまり、鉄は島以外のところから運び込まれたのである。貴重品であったろうが、農業の鎌に使い、木を伐る斧に使い、一人一人が持つ槍に使ったということは、誰もが持つことができるほどに普及していたということだ。またそれぞれの家庭の中にも、小刀がはいっていたというのはことに手の届かないほどの貴重品というわけではない。

外部世界との交易がさかんに行われていたということである。朝鮮漂民を島から島へ送っていった連携は、すでに手慣れた交易がなされていたということではないだろうか。

人が死ぬと桶に納めて崖の下におく。土で埋めることはせず、広い崖には五つも六つも桶が一緒におかれている。最近までは琉球や離島で行われていた崖葬であるが、朝鮮漂民にとっては、まことに珍しい光景であったようだ。こんな報告があることも、この見聞記が憶測や推量で書かれているのではないかという証拠である。

家に煙燈はなく、夜は竹を束ねて燃やして明かりをとる。木の実から蝋をとったり、植物や動物から油をとったりして、灯火にしたのではない。与那国島に自生している竹を燃やしたのである。

与那国の島建て神話には、島に人が住みはじめて間もない頃、島に四ヶ月も雨が降り続いたとされる。

薪が得られなくなり、暖もとれず、煮炊きもできない。大変困っていると、どこからともなく老人が現れた。突然出現した老人こそ、訪来人である。老人は生の竹がよく燃えることを教えた。こうして島人は竹を燃やすことを覚え、凍えと飢えから救われたとの伝説がある。長雨もいつかはやみ、はじめて太陽が射したところを「てだん・どくる」とし、拝所になっている。与那国の祖納の集落の中央部にその拝所はある。「てだん。どくる」とは、漢字で書くなら太陽所である。

竹を束ねて燃やし、明かりをとっていたということは、島のはじめの災害を忘れないとうにしているのかもしれない。なるほど生の竹なら一気に燃えつきるのではなく、少しづつ燃えるので、灯火にはふさわしい。

 

基地のフライドチキン

 

 

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基地のフライドチキン

基地の中は、完全にアメリカだった。まるでカリフォルニアであった。カルフォルニアであった。カルフォルニアにもアメリカでもいったことはないのに、そう思った。沖縄とも、日本のどことも違う。沖縄にいるのに、沖縄とは異なったかぜが吹いているように感じた。

なだらかな起状を重ねた緑の芝の上に、充分な空間をとって白い建物があった。建物はクラブハウスだったり、スーパーマーケットだったりした。私をヒッチハイクで拾ってくれた男がいちいち説明してくれるので、わかったのである。それらの施設を、ゆっくりアスファルト道路が結んでいた。私は、日本国内のどこでも、こんな風景を見たことがなかったのである。

住宅もアメリカ式で、無理のない充分な空間の中に、色とりどりのペンキが塗られてならんでいた。この風景は見たことがあるなと私は考えていたのだが、映画やテレビの中でのことであった。このあたりは少し前は田んぼや砂糖キビ畑だったのだろうか。森もあったろうし、御嶽になっていたかもしれない。しかし、そんな土地の遠い記憶を根底から壊し、風景をまったくつくり変えてしまうことに、私はアメリカ人に対する態度を感じるのだ。運転しながら、男は得意そうだった。もちろんここでは英語が話され、基地の外でも同じなのだがドルが流通している。私はパスポートなしに、彼らの国に連れてこられたのだった。ここの豊かな様子をよく見て、外の貧しい友人たちに話したらいいと、そんなことまでいわれているような気がしたのだった。もちろん私のコンプレックスだったのかもしれない。しかし、どう言おうと、どのようにつくり変えようと、ここは彼らのくにではないのである。

「腹が減ったろう」

男は助手席の私にこう尋ねる。私はどのような返事をしたか記憶にない。あるいは本当に空腹で、頷いてしまったのかもしれない。男は口笛をしながらこういった。

「何か食べにいこう」

飛行場に向かっていた車は、軍事施設の手前で折り返す。もっと先へ行くようたとえ私が望んだとしても、かなえられることではなかったろう。

車はコンクリート建ての白大きなビルの前に止まった。クラブハウスであった。ジーパンにゴムゾウリニをはいた私は、明らかに場違いで、おどおどしてしまった。男は善意だけで案内してくれたのかもしれず、東京からきた大学生とまではわからず沖縄の若者を気まぐれに驚かせてやろうとしたのかもしれないのだが、私自身はどうしていいのかわからなかった。

入り口には特に案内もいず、基地にはいれるものなら誰が足を踏み入れてもよさそうであった。内部には薄くジャズが流れ、どこで聞こうと変わりはないのに、ああアメリカだなと私は思った。

「まあ坐れ」

男にいわれて、私はテーブルについた。男は一人でカウンターのほうにいき、盆にのせたフライドチキンとコーラを持ってきてくれた。こう書いてしまえばそれだけのことなのだが、私は実はフライドチキンを食べたのがはじめてだったのだ。世間に出回っているものではなかったのである。うまいものだなぁ、これがアメリカだと、私は感心してしまった。

 

 

水争いの現場

 

 

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水争いの現場

朝はアシボシ、夜はヨボシ大嵩のおじーは田んぼを歩きながらいった。朝は星がでている暗いうちから起きて、夜も星がでるまで動いた。それでもサツマイモしか食べられなかった。米はたべるものではなくて、売るものだったのである。米を食べれるようになったのは、島で製糖事業がはまってからである。

田んぼや畦に草や藁を敷いて寝転がり、一晩中夜空を見上げている気分はどうなんだろう。毎晩毎晩の動きを眺めていると、運航の法則のようなこともわかってくるのだろう。星の物語が発生するかもしれない。

だがもちろん、ひたすら現実の要求で、田んぼに泊まるのである。

現在のように自動車道路が通っているわけではなく、馬に乗っていく。ひたすら仕事に追われ、行き帰りの時間を惜しんだということなのだ。

焚火をたき、サツマイモを焼く。イモをかじりながら、泡盛を飲む

その時、泡盛はしみじみとした人生の友だったに違いない。過酷な現実かもしれないが、私が思い描くのは悪い情景ではない。

私はおじーの後について、田んぼの水の中を歩きまわった。

水泥棒は低い位置にある田んぼの持ち主がやったに決まっている。

誰が水泥棒なのか、よくわかるのである。

水泥棒の現場はすぐにわかった。棒を田んぼに垂直に立てて穴をあけ、横からまた棒を突き立て水路を結ぶ。水の面に皺が寄り、ゆっくりとした大きな渦を描いている。月光の下で、その模様がはっきりと見えるのである。

それからおじーは畦道に生えている木の枝を鎌で刈り、水泥棒の現場に突き立てた。現場をおさえたのだから、二度とやるなということである。もちろん水抜きの穴は、足の裏で泥を寄せて埋めた。

昭和の終わりのことであったが、中世の時代のの出来事のように私は感じた。田んぼに水がなければ稲が育たないのは当然のととであるにせよ、このようなあからさまな水争いが現実に起きているのだ

「こうしておけば、もうやらんだろうさあ」

田んぼの底に枝を突き立て、畦道のほうに進みながらおじーはいった。水泥棒の顔が、おじーにはありありと見えていたはずである。わずかな水を、島の小さな共同体の中で、プライドも捨てて奪いあう。それはなんだか悲しいことであった。貧しいものが貧しいものから奪うということなのだった。みんな早く田植えをしなければ収穫ができなくなってしまうと、追い詰められたのである。

おじーは心の底から怒っている様子であった。私はおじーの怒りの前で、ただおろおろしていたのであった。トラックに乗り込み、おじーの田んぼから離れていく時、田んぼを見捨てるようで心残りであった。

祖内の集落に向かう道は暗かった。ヘットライトの黄色い明りが、

行くべき道を照らしてくれる。ハンドルを握る私の視界に動くものは何もなかった。「君はゆっくり休みなさい。おじさんは田んぼに寝る。今晩は久しぶりに田んぼに泊まるさー」

おじーは私を下すと、こういってまた田んぼのほうにトラックで戻っていった。水泥棒がまた出現するかもしれず、こうしなければ気がすまなかったのだろう。私は連日慣れぬ砂糖キビ畑の仕事で、体力の限界に直面していた。そんな私へのおじーの心遣いであった。

その晩、蒲団にはいっている私の耳に、激しい雨音が響いてきた。

おじーはトラックの荷台にねているのだろうが、それにしてもどうしているかと気になったことであった。

 

 

青い空、青い海

 

 

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青い空、青い海

思いがけなく、私の予想を完全に超えて、私は他界

というろころに向かっているような気がした。

そこは光に満ちた美しいところに違いなかった。

北の国からも援農隊は参加する。北海道からが

最も多いと聞いていた。彼らの気持ちはよくわかる。予期に長い間鎖された長い冬、時には一年の半分もなる厳しい雪の季節から解き放たれて、太陽の光を思いきれ浴びたい。空の青、海の青に、全身ばかりか心の中まで染まっていたい。そう願うのは当然である。どんな現実でも、それが現実であるかぎり過酷だ。冬の気候も現実の一つなのである。厳しい冬の現実から逃れるには、青い空と青い海があり

パイナップルやパパイヤやバナナなどトロピカルフルーツがたわわに実る、亜熱帯の島沖縄にいくのがよい。しかも、いくのは沖縄の中でも最も南の与那国島なのである。援農舎のメンバーから島の現実と労働の厳しさについて説明を受けるのが、頭で理解できても、心の底に落ちていかない。彼自身の現実になるには、身をもって体験しなければならないのだ。

実際に与那国島にいってみると、北海道や東京あたりではとても考えられないような現実が待っていた。その現実の前では、心の中の夢などななにほどのものでもない。しかし、夢があるから予期せぬ現実の前に踏みとどまっていられるのだし、新たな現実をも受け入れることができる。

第一回の援農隊は予期せぬ現実に見舞われ、戸惑い、挫折したものでした。しかし、多くの人がどうにかやり切ることができた。その先には地平線が開かれ、私もこうして与那国島にいくことができる。

海野奏斗の理想郷・ニライカナイは実在したのである。

そこは食べるものがいくらでもある安楽自在の国ではなかったが、現実のその先から大いなる力をもらうことができた。砂糖キビ畑の仕事に苦しみ、戸惑うながら、自分の実現に戻ってそこで生きる力をもらって帰ってきたのである。過ぎてしまえばよい体験だ。その季節になると、またいきたくなる雨も降るし曇りの日も多く、船の出られない時化の日もつづくのだが、青い空と青い海はまんざら嘘でもなかったのである。そこが青いか透明か、どんよりして濁っているかを決めるのは、すべて自分の心なのだ。

私も東京の酒場で藤野博之さんから砂糖キビ援農隊の話を聞いたとき、目の前に青い空と青い海がひろがったのだ。その青に

身も心も染まってみたいと思ったのである。そして、私はこうして与那国島にとりあえず向かっているのだった。

ニライカナイは、行きっぱなしではいけない。戻ってくるからこそ、現実の中で力をだすことができるのだ。現実からの投影という要素がニライカナイには当然あるのだが、、これも現実と緊張関係を持っているということである。

伝わるところによると、与那国島のその先海の彼方には、パイ

ドナン(南与那国)というニライカナイがあると信じられ、比内集落の里人が集団で海の彼方に向かって船出したとい記録が

ある。しかし、彼らの姿は鷹杳として知れない。帰ってきてこそ、ニライカナイなのである。ニライカナイはいきっぱなしではいけない。そこが本当にニライカナイかどうか、確認できないからだ。

 

 

仕事を求む

 

 

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仕事を求む

そもそも贅沢に持っているわけでもない旅の資金が

いよいよ貧しくなってきた。どんなに節約しても、

食べ物はたべなくてはならない。船賃も残してはならないので、仕事でもしてお金を稼がなくてはならなくなった。パスポートまがいの身分証明書を持たなければ沖縄に渡ってくることはできないとはいっても、外国ではないので労働許可書はいらない。自分で仕事を見つけ、労働の対価として堂々と賃金をもらえばよいのである。

さて、私にどんな仕事ができるのだろう。幸いに若いし、体も丈夫である。短期間なら、どんな重労働でもこなす自信があった。その気になれば、仕事などいくらでもあるようにさえ思えた。例によって、

ヒッチハイクをした。車に乗せてくれた人に、何か仕事ありませんかと尋ねる。「どの期間働くの」

必ずこう聞かれる。もちろんそんなに多くの時間があるわけではない。働くことも一種の旅として、最長で三週間か四週間であろう。要するにばいとである。

「それなら砂糖キビ畑がいいさあ。誰でもできる仕事だから。苦しいけど、それでもいいかなあ」

楽で稼げる仕事がいいに決まってるのだが、そううまくいくはずもない。もちろん、苦しくてもいい。

できたら今まで知らない世界にはいることができたら、それ自体が旅となる。砂糖キビとみて改めて見れば、あっちこっちの畑でも、人が固まって仕事をしている。砂糖キビ畑は、北のほうの人間には、旅情をかき立てる響きがある。なんだか砂糖キビ畑で働きたくなってきた。「使ってくれますかねぇ」

不安になりながら私はいう。

「それじゃそこに寄ってみようかねぇ。たのんであげるさー」

親切な男は畑のほうに車を回す。砂糖キビ畑には十人ほどいて、手鎌を振ってばさばさと砂糖キビを倒したり、葉を落として縄で結束したりしている。私を拾ってくれた男は車を降りて畑にはいっていき、主人らしい男と話しだす。砂糖の甘やかなにおいがしていた。しばらく話してから、男は一人で戻ってくるのだった。

「うーん、人で不足で、猫の手も借りたいほど忙しくて、三週間四週間働いてくれるのはつごうがよくて、若くて丈夫そうだから最高だというんだけど、あんたのことがよくわからんというんだねぇ。東京の学生さんと説明したんだけど、住み込みさせなくちゃいけないし、結局あんたのことがよくわからないから雇えないというわけさー」農家の主人のいうこともよくわかる。

私は流れもので、いくら愛想よくにこにこしていたところで、心の中では何を考えているのかわからない。内地の人間ならまして胆の中は見えず、信用できない。農家の主人の態度はとどもるところそういうことだ。

親切な男は近くの砂糖キビ畑を三か所まわってくれたのだが、三か所とも同じ理由で断られた。冷たいというのではなく、内地と沖縄はあまりにも遠かったのである。沖縄の農民と、東京の学生と、こころの回路が結べなかった。

私は仕事が見つからなかった。

 

 

戻らなければにドアをひが島へ島へと

 

島へ島へと

 

戻らなければにドアをひが島へ島へと

はじめての与那国

私ははじめて与那国島に立った時の印象を書こうとしている。

滑走路は海に沿ってある。飛行機のタイヤがアスファルトの滑走路に触れ、激しい揺れがあって、やがて静かにある。窓の外が与那国島なのだ。

スチュワーデスがドアを開くと、機内では乗客がほっとした様子ででいっせいに立ち上がる。頭上の棚や足元から荷物をとり、外に向かっていく乗客の一人が私である。頭を縮こめていなければ、機内では歩けない。踏むと揺れやすいアルミの小さなタラップを降り、滑走路と続いたアスファルトに立った。足元がしっかりしているので、安心した気分があった。

太陽の光は強いとも感じたのだが、不思議と明るいというようには感じなかった。私は新川明さんの「新南島風土記」や島尾敏雄さんの南島論などを読んでいて、南凕というイメージに漬かっていたからだろうか。光が強ければ、当然影も濃い。そのコントラストの強さが、全体的な風光に暗さを感じさせるのであった。

ターミナルはコンクリートのはこのような建物であった。そこで迎えの人がごったがえしていた。家族の帰りを待っている人もいるのだろうが、旅の人を迎えにきた人も多いはずだ。なにしろ十九人乗りの小型機で、迎えの人のほうがはるかに多い。人を迎えるのにこんなに熱心なのは、交通といことがこの島にとって重要な要件だからだろう。

人が行き来しなければ、この島は成り立たない。人口が少なければ自給自足も可能なのだろうが、人口が増えたので多様な食料を運んでこなければならず、現代の生活には多様な工業製品も必要なのだ。

もちろん砂糖の生産形態が交通を必要としている。砂糖キビの茎を短く切って埋めていく蒔きつけは、時間をかければ少人数でもできる。一年半かけて育てるもの、島の人数だけで充分だ。しかし、刈り取りは一気にやり、刈り取ったキビはできるだけすにやかに製糖工場に運んで黒糖に仕上げる。だから製糖時期だけはどうしても島の外の人間の力が必要なのだ。

こうして外部と交通しなければならないのが、離島の宿命である。交通するのは大変なことなのだ。そのため乗客が十九人しか乗っていない飛行機がつくたび、島の心えお率直に見せるような歓迎の仕方をする。

小型トラックで荷物がターミナルに運ばれ、台の上にのせられる。自分の荷物を取ると、迎えの人がそれぞれの車に運んでいく。あんなにごったがえしていた人も、たちまちいなくなってしまうのである。製糖作業のまっただ中で、迎えにきた人もすぐに砂糖キビ畑や製糖工場に戻らなければならないのだ。

私は援農舎の藤野雅之さんといっしょだったから、この先どうなるのかなど心配することもなかった。民宿の予約のしていたし、藤野さんと同室で泊ればよいのだ。藤野さんには援農舎スタッフの稲垣さんが、民宿の小型トラックを借りて迎えにきていた。

「飛行機は順調に飛びましたね」

迎えの人の最初の挨拶は大体このようなものだ。本当は欠航になって石垣島で一日待ったのだが、そのくらいは仕方ないことで、石垣空港を出発してから引き返しもせず無事に飛んできたという意味である。

「援農隊は順調ですか」

藤野さんが問うと、稲垣さんは応える。

「順調ですよ。事故もなく、トラブルもありません」