泡盛以前の会社

 

島へ島へと

泡盛以前の会社

朝鮮漂流民の見聞には、十五世紀の終わり頃、尚真王が統治した琉球王朝の離島の雰囲気をよく伝えている。池間栄三「与那国島の歴史」の記述を参考に、描写を試みてみよう。

酒は口で噛んでつくり、麹は使わない。したがって発行は弱く、アルコール分は薄い。飲んでも微酔をする程度であったろうということだ。

泡盛と行く言葉がはじめて見られるのは、一六七一(尚貞三)年幕府への献上品目録であるとされる。昔は酒精度をはかるのに「泡を盛る」という方法があったとされ、そこから来ていると考えられている。沖縄では「焼酎」と書いて「サキ」と呼んでいた。したがって、泡盛と呼んだのは琉球ではなく、薩摩のほうであったと考えられている。

泡盛はシャム、現在のタイより伝来したとされる。シャムと琉球が通航したのは約五百年前のことだとされ、そうであるなら、朝鮮漂流民は泡盛がはいってくる以前の沖縄の見聞であるということになる。口で泡盛を噛み、垂液の中のアミラーゼを酵素とする原始的な酒は、自然発生的に生まれたのであろう。飲んでも微酔する程度であったというから、製造に手間のかかることを考えれば、嗜好品というよりも、祭祀に使われたのではないだろうか。濁酒で、たくさん飲んでわずかに酔う程度であったとすれば、今日のようには酒による暴力沙汰はなかったと考えるべきである。

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泡盛以前の会社-2

 

島へ島へと

泡盛以前の会社-2

家は茅の屋根で、瓦はまだなかった。家のまわりには垣根もない。みな同じように貧しい家に住み、貧富の差はなかったということである。板で床がつくってあり、そこに寝た。毛布のようなものはなく、むしろを編んで横になっていた。気候がよいので、寝具も必要なかったということだ。それで貧しいというものでもない。家の前には穀物倉が建ててあり、米をつくって貯蔵していた。文脈上からは、穀物倉があるのは首長のような格別の家ではなく、すべての家にあったと読めるゆるやかな原始共産制の上に島の社会が成立していて、階級の分化があるわけではない。首里では尚真王の治世がはじまっているのに、その統治の形態は与那国島まではおよんでいなかったということである。

鍛冶はあっても、鉄は外部からはくばれなければならない貴重品であったから、釜や斧や小刀や槍にしか使えなかった。すきのように大量の鉄を必要とする道具は、木製だ間に合わせていた。

十二月に水田を牛に踏ませて種を蒔き、一月に田植えをする。牛に踏ませて種を蒔くということは、灌漑の設備があったわけではないから水の出し入れはできず、天水頼みの湿田であったようだ。牛が歩くことによって、水底の田を柔らかくしていたのかもしれない。四月には熟して刈り取りをするのだから、たいそう暮らしやすいところということになる。

一般に水稲は陸稲にくらべて収量はかなり劣り、味も落ちるとされる。陸稲は五月に刈り取るのだが、切り株から再び目が出て、秋には再度収穫することができるのである。水を得ることのできない台地も、こうして陸稲をつくっていたことがわかる。島の人たちは緻密な農業をしていたということである。

稲はもみにして倉に保管しておいたのではなく、藁ごとたばなてしまっておいた食べるときには竹でつくった道具でもみをこき、臼でついた、もみだけをまとめて袋に入れておけば、ねずみにやられたかもしれない。ねずみについての記述はまったくないので、もしかすると存在しなかったかもしれないのである。

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天上の旅

 

島へ島へと

天上の旅

みんなしなければならないことがあり、先を急いでいるので、飛行機の席がこちらになかなかまわってこなかった。待ってよ、ようやく石垣空港から与那国に飛ぶことができた。

当時は十九人乗りの飛行機で、頭を引っ込めるようにしなければ通路も歩くことができない。シートベルトに身体を縛り付けこの頼りない飛行機に命かな何からなにまですべて預けることになると、何とも不安な感じがした。座席のポケットに、このあたりの島の地図を描いた下敷きが入っていた。席に上がると、その地図と実際に眼下に望まれる島の形とを照合しながらいくことがある。

滑走路をすべっていった機体が、ふわりと浮き上がる。エンジンの音さえなかったから、自分の力で空を飛んでいるような気にさえなる。まず窓の外に見えるのは石垣島の山並みで、砂糖キビ畑も広がっている。畑で刈り取りの作業をする人も認められる。

海岸から海に行くと、世界一とも称される珊瑚礁の海の上にいる。美しいものの上空に浮かんで、私は幸福な気持ちになるのである。かつての舟人は、風を読み太陽や星の位置を探り、波の形を確かめながら進んでいった。眼下一帯の大海原に視線をこらすと、古人の帆をいっぱいに張って帆走する舟が、波の間い間に見えるような気がする。

小型飛行機は高度が低く、海に近いので、風景の微細なところまでよく見える。海の彼方にある与那国島は、この海を渡っていった遥かな他界にあるのだと感じた。その後私は何度も与那国島に行くことになるが、こうして美しい境界線を越え、夢を見るようにして他界へと旅立っていくような気分にそのたびなるのであった。この世ならぬ美しいところなのである。

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天上の旅-2

 

島へ島へと

天上の旅-2

 

私は風景の中に魂が吸い込まれるようにして、窓の外を眺めていた。眼下にやってくるのは竹富島である。空から眺めると、トルコ石青い色の波に包まれた小島は、まさに宝石のように見える。砂糖畑は緑色で、そこに白い道が伸びている。赤瓦の家々が固まりあっている。私は天上から鳥の視点で眺めているのだが、あの島には何度かいったことがある。

最初に訪れたのは、復帰のだいぶ前で、ドル紙幣が流通していた。ユースホテルに泊まっ他のだと思う。海岸に行くと白砂で、一粒一粒が星の形をしているのであった。星の砂を見たのははじめてで、世の中にはこんなに不思議なものがあるのかと驚いた。見るもの聞くののが現実離れしていくように感じた。小さな博物館があり、人魚の骨や馬の角などと表示されたものが展示してあった。怪しいと言えば怪しいのだが、この島ならばそんなものがあっても当然だとも思えた。他にやってくる旅人も数えるほどで、船着場からデイゴの赤い花の咲く道を自転車で走れながら、こんな島ならいつまでもいてもいいなと思ったものである。私のごく初期の沖縄体験だ。

天上の旅は時間さえも超える。竹富島を過ぎると西表に至る。峰が切り立ち」、深い緑に覆われている。平坦でオパールのような竹富島とは対照的な、奥行きがあって、たくさんの秘密がありそうな島だ。私は飛行機の窓に顔を近づけ、皺が寄ったような峰や谷や、蛇行して流れる一つの精気あふれる生き物のような川を眺めるのだ。そこはとても島とは思えないほど、山は高く谷は深い。

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仕事が終わった

 

島へ島へと

仕事が終わった

製糖事業は三月中を聞くと与那国島では草蝉と地元で呼んでいるゴキブリほどの大きさの小さな蝉が発生し、砂糖キビにとまって鳴く。畑で蝉が鳴けば騒然とした気配になってくる。

与那国の夏は、畑で働くようななまやさしい状態ではなくなってくる。夏は畑はほとんど休みになる。それが、島で生きる生活の知恵というものだ。

製糖工場の操業は三月六日にはじまった。本来は一月十一日に操業開始予定だったから、頭初の予定より二ケ月遅れということになる。三月中に全作業を完了させるのは不可能となったのである。

援農隊には当然一人一人の事情がある。過疎で苦しむ離島を救うためというボランティア精神から行動を発した人が多いのだが、ボランティアとは生業または本業が別にあるということだ。学生ならば四月になったら大学に戻らなければならないし、職業が決まっている人は会社にいかなければならない。そうしないと人生設計が大幅に狂うことになる。

援農隊のうち、事情を抱えた多くに人が返っていき、残された人だけでは製糖工場も砂糖キビ畑も作業をつづけることが困難になった。そこでまた助っ人を頼まなければならない。島は再び苦悩することになったのである。

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仕事が終わった-2

 

島へ島へと

仕事が終わった-2

 

与那国町長が出した案は、自衛隊員のキビ刈り応援で、実際に那覇の駐屯地を訪問し要請した。すると左の陣営がにわかに騒然とし、労働の代表が与那国町役場に押しかける騒ぎになった。戦争を体験した沖縄は、自衛隊の動きに関しては敏感である。

与那国町長は労組にも援農を要請したため、話はいよいよ混乱した。自衛隊は援農のため与那国島に人を派遣することは、結局なかった。そんな細かな状況はわからないまま、援農隊は黙々と作業をつづけた。結局のところ一本ずつ倒していくよりしかたない。

そのうち石垣島や西表島にはいった援農隊が、仕事が終わるや与那国島に手伝いにきてくれた。これが大きな働き手となったのであった。

砂糖キビ刈りは四月十五日に製糖工場も製糖事情を終了した。そこには慣れない援農隊員の、獅子奮迅の活躍があったのはいうまでもない。善意のボランティアが、離島の問題の中に吸い込まれた格好であった。通常でないことが多かった分、一人一人が考え、悩み、その苦しみが血や肉になっていったのである。援農隊は意地で頑張り通したということだ。最後まで働き通したということだ。最後まで働き通した人の数は、五十人ということである。

援農隊に身を投じた若者たちは、それぞれに善意からそうしたのであり、政治の波にここまで翻弄されるとは考えてもみなかった。だがそのことも、過ぎてしまえばよい思い出である。

与那国島では大きな行事があると、牛をつぶして肉塊をゆで、みんなに配る。その場では食べきれないほどの大きさなので、お土産に持って帰ることになる。旅の人である援農隊は、それぞれに世話になった家に肉塊を持っていく。

公民館では牛肉を食べ、泡盛を飲んで、歌い踊って喜びを表現する。この宴会に参加して、援農隊員はようやく大きな仕事が終わったことを実感するのだ。

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朝鮮漂民の見聞

 

島へ島へと

朝鮮漂民の見聞

朝鮮済州島からの漂流民の話を続けよう。

まず七日間は浜に置き、交代で食事を与えた。もし彼らが悪霊を持っていれば、それが集落に入ってしまうからである。だが七日がたち、漂民たちに悪霊がついていないことがわかると、与那国島の人々は彼らを民家に迎えいれたのである。与那国には三つの集落があった。集落の人たちが順番に食事を与え、一軒ずつすべての家が役割を果たすと、次の集落に移動させた。一カ月後には三人いた漂民を一人ずつ三つの集落に分けた。この話からは、それぞれの集落にも、島全体にも、強力な指導者がいなかったことがわかる。海の向こうからやってきた突然の負担を、島の人たちはみんなに平等に割り振ったということである。ゆるやかな原始共産制が成立していたに違いない。平等な負担であり、一人にすれば軽いものであったから、不満がでるわけでもない。六カ月後に南風が吹いた。島人五、六人が舟で次の島の西表島に送ったとされる。海上に見える隣の島にいくのも、季節を待たなければならなかったということだ。もしくは島人は先に使者を立て役所に支持をあおいだということであろうか。十五世紀には島から島の間でもなされていたことを示している。島人五、六人と漂民三人とを一艘の船に乗せたのだから小舟といってもそれなりの大きさがあることがわかる。こうして島を一つ一つたどっていった。西表島から新城島、黒島、多良間島、宮古島と順々に送られていき、那覇についた。争いごともない。漂人たちは那覇に三カ月滞在した。ちょど琉球にきていた博多の商船に乗り、一度博多に寄ったのかどうか朝鮮の記録なのでつまびらかでないが、三年目に故国朝鮮に帰ることができた。その年一四七九年五月だとされている。尚真王治世のはじめ頃で、まれびとたちを精一杯遇した島人たちの気風が感じられる。池間栄三氏の「与那国の歴史」にはその時の朝鮮漂民の見聞記がのせられている。

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朝鮮漂民の見聞-2

 

島へ島へと

朝鮮漂民の見聞-2

「この島の住民は長大でひげが美しく坐ると膝に至り、女は髪が長く立って地に届いた。言語衣服は日本人とはちがう。漂流民が木の葉に朝鮮国と書いて見せたが解らぬようであった。衣服は麻や木綿で絹はなく苧を織った布でつくり、袖は短く広く仕立て藍青に染めてある。男は褌はなく裳を着ける。その裳も青に染てある」着るのは麻や木綿で、麻を裂いて苧を織るということは、現在でもなされている。すでに藍を使っていたようである。

稲を食べた。粟はあっても植えなかったということは、雑草として存在していたということであろう。それだけでもそれだけでも島人の豊かな暮らしが想像できる。飯を炊くのに釜や鍋はなく、土で鼎をつくって、稲でいぶすだけなので、五、六日でこわれてしまう。皿や椀などの陶器はなく、飯は竹筒に盛って掘り飯にし、木の葉を食器にした。海水を菜に加えてあつもりをつくり、米を噛んで

木桶にいれ口噛み酒をつくった。舟にはさおがあり、櫓はない。風が出ると帆を張る。「盗賊がいない、道におちたものは拾わない。互に罵ったり喧嘩をしたりしない。小児を愛撫し、泣きわめいても手で打つことはしない」まことに平和な島の様子が感じられる。

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波之上の歳月。

 

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波之上の歳月。

波之上の「ビアホール清水港」で働いたことは、私のとってよい思い出である。私は沖縄を旅するたび、あの思い出の香りをかぎたくて、波之上に足を運ぶ。

ある日、マスターとママの顔が見たくて「ビアホール清水港」にいくと、外装がまったく別のものになり、派手なネオンサインが輝いていた。潜りのナイトクラブではなく、正式にAサインの看板をだした堂々たる店に生まれ変わっていたのである。名前も「チャイナタウン」となっていた。尋ねると、経営者は別の人だった。

夜空に怪しい花を咲かせたような、赤と緑と黄色の三色のネオンサインであった。「ビアホール清水港」のひっそりとしたたたずまいが、懐かしかった。今から思えば、あの頃が波之上の最後の輝きだったのかもしれない。ベトナム戦争は最後の決戦に向かって、いよいよ惨烈になっていた。すべてに余裕がなくなり、Aサインバーが閉まってから開くアウトローの店など、許容できなくなったのかもしれない。

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波之上の歳月。-2

 

島へ島へと

波之上の歳月。-2

マスターやママやチーママはどうしたのだろう。生活力のある彼らだから、何処かでしぶとく生きているのだろうが、私は消息を知らない。歓楽街とは、人が激しく交通する場所なのだから、出会いは一瞬の花火のようなものだ。あれから歳月がたち、アメリカ軍政下にあった沖縄は日本に復帰した。私は総理府発行の身分証明書がなくても、簡単にいけるようになった。昔は沖縄にいくとなったら必ず船だったのだが、今は飛行機が当たり前になった。日帰りさえも可能になり、旅は実に簡単でドラマも失われたのである。

那覇にいったら私にとっての青春の聖地を訪ねるのがならわしとなり、はからずも私は波之上の変遷を眺めることになった。ベトナム戦争がアメリカ軍の敗戦で終焉し、基地はそのまま存続していたが、兵士の数はめっきり減った。明日の命も知れず破れかぶれで遊んでいたアメリカ兵の姿はぐんと少なくなり、ナンミンの灯は消えそうになった。その灯を救ったのは、本土から新しくやってきた自衛隊員だった。アメリカ兵が去っていった隙間を、自衛隊員がそっくり埋めたといってもよい。

そのかわり、アメリカ人好みの派手なネオンサインは、どんどん影をひそめていったようだ。ナンミンはラスベガス風の街ではなくなっていき、なんだか暗く淫靡(いんび)な感じになってきた。暗闇の中から生まれてきたとでもいうように風俗営業の店が、軒を連ねるというのではなくぽつりぽつりできた。辻の遊郭があった時代に戻っていったのかもしれない。建物と建物の間には吸い込まれそうな深い闇があり、善良な市民から遠ざかるという印象がますます強くなった。ネオンがやたら明るくて、少なくとも表面的には陽気に酔っぱらっていたあの頃とはずいぶん雰囲気が変わっていった。

西武門交番(にしんじょうこうばん)の角から波之上宮のほうにブロックをひとつ寄った角にあった「ビアホール清水港」の建物は、ある日そこにいってみるとまったく消えていた。ビルになっていたのだ。そこにテナントなのかどうか、沖縄料理の店がはいっていた。高級そうな店である。あとで人に尋ねると、内地からの観光客が食事にくるコースになっているということであった。

当時のことであるが、波之上には沖縄に通り過ぎていった歴史が、そのまま通っていったのである。

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