ダマトゥ・ハガト

 

島へ島へと

ダマトゥ・ハガト

二十年よりももう少し前のことである。私が初めて与那国島を訪れた時、援農隊うがいこ員の世話をする係の男といっしょに島の観光巡りをしたことがある。私はバイクの荷台に乗せていってもらったのだ。その時に一番印象的だったのは、ダマトゥハガトである。

バイクを降りて砂糖キビ畑を突っ切ると、それほど高いわけではないのだが、なんとなく黴臭くて陰気なところだった。

「大和墓といわれているけど、よくわからないんだ。不思議なところだろう」

その男はいう。その場所には骨が散乱し、形がそのまま残った頭蓋骨などもあった。鳥葬か風葬にでもしたところかとも思えた。私は不用意にその洞窟に入ってしまったが、うっかりすると白く乾いた骨を踏み折りそうで、一歩も歩けなかった。妖気が漂うというような雰囲気である。「大和墓というくらいだから、和冦とか海賊の墓場だったんじゃないか」

もちろん学問的な裏付けがあるわけでもなく、その人は想像でいった。私は大和墓といういい方を真に受けていて、その時にはそんなものかと思ったしだいである。実際に員骨芽散乱していたのだから、いろいろなことを類推するのも不謹慎なことかとも思えたのである。池間栄造氏「与那国の歴史」によれば、明治の初め頃まで人骨にまじって刀剣や馬鞍や汁器や匂玉が保存されていたという。その後、内地からやってきた役人や旅行者のため、好きなように蹂躙され、金目になりそうなものや、歴史的な遺品は島外に持ち出されてしまったということである与那国島のいい伝えによると、平家の落武者の墓ではないかということだ。「南島探検」をあらわした笹森儀助が明治二十六年ダマトゥ・ハガトにやってきて、これは平家の落武者の墓であると断定した。そしてここで鎮魂の儀式をしたという。笹森儀助による直感による断定は次のようである。

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ダマトゥ・ハガト-2

 

島へ島へと

ダマトゥ・ハガト-2

 

屋島で破れた平家一門のうち、節操もないものは降参して捕虜となり、二君に仕えて源氏の臣妾奴僕となることを拒んだ忠節の人々は、遠く南洋諸島に流れていった。そして、ついに与那国島で没したのである。

こうして笹森は、忠義の神魂を慰すというのだ。この独善は、明治の人間の一面である。そして、南島の与那国島を皇国史観の地と位置付けようという意図がかいまみられる。

笹森は頭蓋骨を京都大学の解部教育に持ち込み、鑑定を依頼した。鑑定によると、数百年以上前の人骨とは思えず、しかも、日本人一般の人骨とは異なるということであった。平家落人説になって、八重山群島調査隊が与那国島にやってきて、ダマトゥ・ハガトの調査が行われた。それによると、近代の人骨であって、まわりからは十六世紀以降の南中国やベトナムの陶片が多数見つかった。つまり、墓であるのことはは間違いないのであるが、それ以前に住居として使用していた形跡がある。火を燃やした跡があり、食用にしたと思われるヤエヤマ・オオコウモリの骨がでてきた。食用のヒザラ貝もたくさん発見された。池間栄造氏はつぎのようにいう。

「ダマトゥ・ハガの語意は、ダマは山、トゥは山奥、ハガは境界であるから、いわば山奥の境界であって、墓の意味はないようである。」

こうして、ダマトゥ・ハガトの平家落人説は一蹴されてしまったのである。

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沖縄ロック

 

島へ島へと

沖縄ロック

那覇に戻り、波之上のビアホール清水港にいこうか、ごく当たり前に安里ユースホテルに行こうかと、港で一瞬迷う。泊港からは、南に向かうか東の向かうかということである。結局私はザックを担いで南へと一歩をしるすのであった。

波之上の景色は何も変わらない。昼間はネオンも乾いた骨のように見え、精彩にあふれる夜の賑わいを知っていると、まったく別世界である。歩いている人も化粧をしていないホステスなどで、どことなく緊張感が漂っていない。アメリカ兵たちも朝の点呼があるのかどうか、朝までうろうろしている姿はない。街は脂気がぬけている。

ビアホール清水港のたたずまいに、なんの変化があるわけではない。夜な夜なここで酒と女の乱痴気騒ぎがおこなわれているかと思っただけで、なんとなく涙ぐましいような思いにとらわれる。ベトナムの戦場に送られて明日死ぬかもわからないアメリカ兵たちと、刹那のうちに彼らを慰め励ます沖縄の女たちと、彼らの間に介在するのはドルである。それとささやかな人間の情だ。

ずっと後になるが、私はロック歌手喜屋武マリーと話したことがある。私が波之上で働いたというと、みんなたいてい疑わしそうな顔をする。私はたまたま紛れ込んだにすぎないのだが、マリーはコザのゲート通りのクラブで歌っていた。マリーという名から、アメリカ兵たちは聖母マリアを連想し、明日ベトナムで死ぬかもしれないという恐怖をぶつけたのだそうである。

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沖縄ロック-2

 

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沖縄ロック-2

 

コザや金武や那覇にある外人向けのクラブは、ただ酒を飲ませて金をとるという場所ではなかったと思う。少なくとも兵士たちは、刹那にでも生きている実感を確かめるところであったのだろう。

何か月か後にまた休暇がもらえ、沖縄に帰ってきた兵士たちは、マリーのところにやってくる。そして、きっとこういう。「まだ生きているよ」彼らの悲しみと恐怖とを受け止めて、マリーは歌うのである。「紫」、「コンデション・グリーン」など当時は沖縄ロックがコザのゲート通りを中心にしてさかんであったが、それらのバンドは兵たちと彼らを受けいれる沖縄の悲しみと結びついていたような気がするのである。あれほどに隆盛をきわめた沖縄ロックが、日本に復帰後に東京あたりで受け入れなかったのは当然だ。アメリカ兵の心の中にはいっていたのだから、当然のことアメリカのにおいが強すぎる。日本向けに薄められ、醤油の味がする日本のロックとはそもそも存在の仕方が違うのだ。コザであれ、金武であれ、波之上であれ、当時はベトナムの戦場のすぐ後方に位置していたのだ。東京の人間からすれば、とても食べきれないステーキのようなものだ。当時はステーキとはいわず、ビフテキと呼んでいた。ビフテキという言葉に込められた思いは、この世に存在する最高の御馳走だということで、実際に一年に一度も食べることはできなかったろう。しかも、ナイフもフォークも必要ない、箸で千切れるような薄い肉であった。

離れていると、むしろその街のことがわかる。私は波之上に帰った。ビアホール清水港のマスターもチーフもまるで昨日も私がいたようにして迎えてくれた。生きることは闘いであった。みんなはよく闘って生きている。彼らが元気なのを見て、嬉しかった。

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ナナサンマル音頭

 

島へ島へと

ナナサンマル音頭

沖縄にいって正直のところ私などが当惑したのは、流通する紙幣はドルで、車は右側通行であったことだ。すべてがアメリカ式なのである。私は子供の頃から「車は左、人は右」とイギリス式交通方式をたたきこまれてきた。

今でもそうなのだが、外国にいって一生懸命左側を見ていて、渡ろうとしたら右から車がやってきたという危ない経験を何度かした。しかし、三時間くらいすれば慣れてしまう。車を運転していて、交差点などにはいり、一瞬アレッと迷うこともあるが、それもすぐに慣れてしまう。

沖縄は日本に復帰した。一九七二(昭和十七)年五月十五日のことである。その時、流通する貨幣も変わり、いろんなことが混乱した。その一つが交通方式の変更である。人は何もかもを一気に変えることはできないので、できることからやることになる。米軍基地に関して、核つきとか、核の自由使用とか、沖縄基地の利用について日本本土と異なる特別の条件をつけることなく沖縄の返還を求めるという議論があった。交通方式も本土並みになることになった。

それでも復帰後六年間は変更されることはなかった。アメリカ式の右側通行は、米軍占領以来三十三年間である。その習慣になじんだ人には、反対側に車を走らせようといっても簡単にできるはずもない。自分一人だけが反対を走れというのなら、まわりにあわせなければよいのでなんとかなるが、全員が一斉に変えるのだ。

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ナナサンマル音頭-2

 

島へ島へと

ナナサンマル音頭-2

 

交通方法が同じ国の中で違えば危険があるというので、国際条約では「一国一方式」にしなければならない。政府は最初一九七六年実施の方針であった。だが石油危機など経済事情が発生し、沖縄の日本復帰の目玉事情ともいえる沖縄海洋博が延期になり、交通方式変更も延期になった。

一九七八年七月三十日午前六時を期して、すべてを反対にするという閣議決定がなされた。このことが社会におよぼす影響は大きかった。車は増えていたし、日本政府は沖縄の実情を踏まえていないとのひはんもなされた。要するに現地は不安だったのだ。平滑の根底がひっくり返されるのだから、当然のことであろう。

この頃沖縄を旅した私の耳に響いてきたのが、「ナナサンマル音頭」であった。

「ナナサンマルだよ、ナナサンマル、シタリガユイヤサー・・・」私の耳に残っているのは、こんな文句である。県内のどこにいても鳴り響いていて、さすがに唄の土地だと思った。人の心に一番影響があるのが唄なのだろう。あまりに珍しいので、私はレコード店にいってSPレコードを一枚買った。今も押し入れのどこかに仕舞い込んであるはずだ。

「ナナサンマル音頭」は、私には沖縄の人の悲鳴にも聞こえた。当事者の都合によって、生活のすみずみまで影響をうけなければならない。歴史の転換といえばまあそうなのだろうが、しなければしないほうがよい。

「交通方法変更は混乱、事故続発といった大きな騒ぎを巻き起こし、とくに那覇を中心とした都市地区は十日以上にわたってマヒ状態に陥った。実施後八月六日まで八日間の事故発生は、人身事故四一件、物損事故五二八件、そのうち一二七件がバス関係の事故である」

ナナサンマルの日のことは、「沖縄大百科事典」にはこう書かれている。

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与那国の歴史

 

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与那国の歴史

その時私は援農隊の正規メンバーではなく、ただついていっただけだったから、時間はいくらでも自由になった。援農隊の組織者は東京や札幌で説明会をやり、面接をして、島にいくメンバーを決める。与那国島に援農隊を送り込むが、中心の大きな仕事である。砂糖キビがはじまり、製糖工場が動きだすと、あとの仕事は自動的に進んでいくということになる。

私は翌年援農隊に参加しようと決めていた。そのためにこそ、与那国島について知りたいと思った。実体験の集積が一番よいのであるが、それには時間がかかる。ガイドブックというのではなく、その島に地誌や歴史などが書いてあるししっかりした本がほしい。しかい、たいていはないものねだれのことが多い。

そんな気持ちであいている時間に島を散歩し、島に唯一ある土産店にふらりとはいった。クバ笠や籠がたくさんある中に、ハードカバーの一冊の本が目にとまった。カバーもない、青い単色の上に金の箔押しがしてある地味な本で、「与那国の歴史」池間栄造著と書いてある。私は手にとり、ぱらぱらとページをめくって完全に私が求めている本だということがわかった。さっそく私は買い求めた。

ここには与那国島のすべてが書かれていた。地誌、伝説、上代の遺風、祭事、民謡、年表と、この一冊を読めば、今日的なことはともかく、与那国島のおおよそすべてのことはわかるのである。これだけのことを独力でやりとげた人がいる。

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与那国の歴史-2

 

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与那国の歴史-2

ことに、私は感心した。与那国島に対して強い愛があるのであることは、すぐにわかる。

著者の池間栄造という人は、医者である。自序にはこうかかれている。

「本誌は、岳父新里一森氏が与那国町の委属をうけて、一九三九に寄稿したものである。岳父は不便な孤島に在って、実に根気よく、島内外の伝説、記録を渉猟し、根気よくその筆を執ったのであるが、一九五0年の秋、病魔におそわれ、未だ本誌の完成を見なかったのを残念に、他界したのである。まことに心中察するにあまりあるものがあった。爾来その原稿は塵埃に埋もれ、折角集録した文献は散逸の虞れがあったので、一九五四年に岳父の後をうけて、不肖筆を執ったのである。」

ここは世代から世代への意思の受け渡しがある。しかし池間栄造氏は医者として多忙な日々を送りながら、ついに「与那国島誌」を出版した。その後、なお充実させるためにさらに史料を集め、改訂としての「与那国の歴史」の出版の準備をすすめていたところ、池間栄造氏は突然病死したのであった。そのあとを継いだのが、苗子夫人である。友人の池宮修一氏が、「与那国の歴史」に一文を寄せている。「栄造君亡きあと苗子夫人は彼が執筆をすすめていた遺稿をとりまとめることで心の支えとした。そして一周忌までには改訂版の「与那国の歴史」を仏前に献げるように、すべてをそれに集中したのであった。写真を揃えたり、原稿の清書など苗子夫人は独りですすめてきた。」

池宮氏の文章が書かれた日付は「一九七二・三・三」となっている。一九三九年に起稿されてから、三人の手になり、三十三年の歳月がたっている。一冊の本がこのように長い歴史をはらんでいるのだ。

私が手にとった一冊の本「与那国の歴史」は、その後、与那国島に関する私のバイブルとなったのである。その後さらに改訂版がでて、私は二冊持っている。

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混沌としたサンアイ・イソバ

 

島へ島へと

混沌としたサンアイ・イソバ

仲尾金盛を将とする宮古軍はサンアイ・イソバ一人においまくられ、ウブンド山中で木を伐り倒して筏をつくり、ほうほうにていで与那国島を脱出した。サンアイ・イソバにすれば、村を焼かれ、兄弟である按司を殺され、仲尾金盛に対する怨みは深かったであろう。しかし、船をつくつて宮古軍を追撃するほどには、造船や操船の技術は発達しなかったであろう。

そうではなかったという伝承もある。サンアイ・イソバの仲尾金盛に対する怒りは深く、簡単にはおさまらなかったという。ウブンド山にはいって木を伐り倒し三年かかって船をこしらえたという。それから与那国島を船出して石垣島に渡り苦労の末に仲尾金盛の片腕を切り落としたとされる。与那国島の側の伝承で、実際のところはどうだったのかわからない。

与那国から石垣までの距離は、一二七キロである。島から島というのならもっと近い。しかしこの距離は、勢いで漕いでいけるという安易な距離ではない。しっかりした船をつくり、それを綿密な計算のもとに操るという、確かな技術がなければならない。

サンアイ・イソバが与那国島から出ることができたのかできなかったというのは、実は重大なことなのである。それはサンアイ・イソバという人物の性格と、与那国島の歴史の中の位置を決める重要な要素だからだ。サンアイ・イソバは豪傑であり、女性であり、シャーマンであり、中央集権的な統治者であり、農業者である。一説によれば、乳房が四つあったともされる。乳房がたくさんあるというのは豊饒のイメージであり、犬を思わせる。久米島女を愛した「いぬがん」からの連想かもしれない。乳房が四つあるというのは、人間ではなく、異類婚からうまれたという推測が成り立つ。人間ならざる異常な力を有するというのは、自然の何かと結びついていたかということで、文化的な秩序による統治ではない。

サンアイ・イソバの伝説を読み解いていくと、自然そのものの荒ぶる力と、その自然の力をコントロールしようとしたシャーマン的な呪力と、中央主権的な文化的農耕的秩序を感じることができる。この混沌とした雰囲気がサンアイ・イソバの持つ空気であり、与那国島の社会が自然の採集による生活から、農耕的な整然とした村落社会への移行過程にあったことを読み解くことができる。

 

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混沌としたサンアイ・イソバ-2

 

島へ島へと

混沌としたサンアイ・イソバ-2

もし稲をつくったり牛を飼ったりする農耕によつて社会が維持されているのだから、サンアイ・イソバのような異常といってもよい強力な統治力は必要とはしない。サンアイ・イソバは原始から文化へと移行しつつある社会の、異貌の統治者であるということができる。

しかも、サンアイ・イソバはカミをコントロールしようとする精神的な祭祀と、現実的な力である軍隊との両義的な存在である。つまり、当時の社会で必要とされていたすべての存在である。つまり、当時の社会で必要とされていたすべての力を有し、万能の存在として、原始から文化的農耕的社会へと移行しつつあった与那国の存在を決定づけていたのである。この過渡期にあり、サンアイ・イソバのイメージは混沌と整合、混乱と秩序、情熱と冷静、このあらゆる矛盾を一身におびているのだが、サンアイ・イソバという存在なのである。このサンアイ・イソバの像を産んだ与那国島の風土の中に、荒神と慈母は同居しているのだある。

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