大嵩さんは留守だった

 

島へ島へと

大嵩さんは留守だった

幸いなことに、島に二台しかないタクシーが、空港のターミなくビルの前にとまっていた。私はそのタクシーに乗り、こういった。

「大嵩長岩さんのお宅にお願いします。わかりますか」

「わかりますよー。祖内ですねー」

運転手はいって車を走り出させた。飛行機の乗ってきたのはほとんど与那国島の人だったらしく、みんな迎えにきていた。その迎えの車と肩をならべて走ったのである。「観光ですかー」運転手は私に尋ねてきた。私は少し得意そうにいう。

「砂糖キビ刈りにきたんですよ」「今年は援農隊は呼ばないと聞いておりますよー」「農協じゃやなくて、大嵩さんが個人的に呼んでくれたんです」「そうですかー。与那国のためにがんばってくださいねー。ほら、ここが製糖工場ですよー」運転手が無造作にいった。窓の左側に広い空地があり、その先に少しくすんだ建物があった。もちろん私は昨年島にきて、ここが製糖工場だとは知っていた砂糖の甘く粘りつくほどの香りが漂っていたものだが、まだ操業前だったので、特に香りはない。空地のも刈られた砂糖キビが積まれているということはない。途中いたるところにある畑の砂糖キビは、旱魃ということであるが、よく育っていた。それは私が砂糖キビをよく知らないからであって、平年作のキビとならべてみると、育ちが悪いことがきっとわかるだろう。

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大嵩さんは留守だった-2

 

島へ島へと

大嵩さんは留守だった-2

坂を下っていくと、左側には隆起珊瑚礁のティンダハナがあり、右側には波多浜の青い海が輝いていた。ここまできてようやく私は与那国島にきたという実感を持った。前方には祖内の集落があった。その当時、今から二十年前には、赤甍の屋根に、萱の屋根がはじまっていた。やや黒ずんだ萱屋根は、むしろ目立ったほどであった。

祖納には南北にメインストリートというべき道が通っていて、島でたった一つの信号がある。本当はその信号もいらないほどなのに、島民がよそにいった時に面くらわないようにと、教育のために設備されているということである。信号の向こうが、農協と与那国町役場であった。つまりそのあたりが島の中枢部だ。

大嵩さんの家は、その信号の手前を右に曲がって少しいったところにあった。赤甍の清潔そうな家であった。タクシーを降りた私は、ここだといわれた家の前に立った。「ごめんくださーい」開けっぱなしの風通りのよい家に向かって、私は声を上げた。中には誰もいないようであった。「どなたですかーっ」隣の家から男がでてきていう。。私は名を名のり、砂糖キビ畑の手伝いにきたのだという。「オジーは今畑にでていていないさー。オバーはどこいったんだろうね。はいって待っていたらいいさー」こういって、男は隣の家にはいってしまった。仕方がないので、私は玄関から上がり、所在ないまま居間にいた。少々不安がよぎった珍しい人間が跳び込んできたなとばかり、子どもが二、三人やってきて、用心深そうに私を見る。その子供たちはいなくなった思うと、別の角度からやってきて私を見る。私と目が合うと、キャッと声を上げて逃げる。結果としては隣の子たちだったのだが、私が大嵩家の人とそうでない人との区別をはっきりと理解するまで、一週間はかかった。

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島の悲願

 

島へ島へと

島の悲願

与那国から製糖工場がなくなるということは、砂糖キビに頼り切った農業をしてる以上、島全体の産業が崩壊的打撃をこうむるということである。つまり、島で自立して生きていくことが不可能となるということである。原料だけを生産し、製糖工場のある他の島まで船で運ぶといっても、コストがいよいよ高くなり、実際問題として不可能である。

なんとしても島で生きていかねばならぬというのは通理で、とにかく製糖事業をやめるわけにはいかない。製糖という一つの事業に特化してきたことが、裏目に出てしまったのである。

島の農業を守り、島の農業を守るのに、農協か与那国町が製糖工場を買い取り、自ら操業するしかない。買収金額は1億2千6百万円ということだ。これを与那国町と与那国農協が支払うことにした。資産をやり繰りしているうちに沖縄県が監査にはいり、与那国農協が不正や経理をしていることがわかってしまった。しかも貸付した企業が倒産していたので、貸付した3億円は不良債権となってしまったのだ。

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島の悲願ー2

 

島へ島へと

島の悲願-2

農協の資産は差し押さえられた。員外預金者が一斉に預金をおろしと農協が破産するので、それを予防する意味があったのだが、同時に組合員の預金者は自分の預金をおろせないということになる。緊急に資金が必要なこともあるだろうし、島外に出している子供に仕送りもしなければならない。

農協や島の農民のとってはさんざんな目にあったということだ。製糖工場を買収した際、専門技術職員十三人も引き取った。これから製糖事業をしようという矢先に、農協の資産は凍結され、製糖工場が動かせるかどうかわからなくなってしまったのだ。せっかく植え付けた砂糖キビも、刈り取っても持って行き場所がなくなる。援農隊の労働力は必要だが、それも製糖ができればの話で、できなければすべてが水の泡となる。そんなところまで追い込まれていたのだ。

砂糖キビの増産は、与那国町にとっても、与那国農協にとっても、至上の命題だったのである。町は生産奨励金を予算化し、作付面積を増やそうという政策をとった。そして、その政策は着実に実った。

そこに降って湧いたように、与那国農協の不正が発覚した。その背景というのは、農協の基盤を整備し、砂糖キビを増産して、製糖工業の経営を軌道に乗せたいということである。そのためには膨大な投資が必要で、農協の経営規模が超えた資金がなければならないのだ。小さな農協に、そんな金があるはずはない。しかし、砂糖キビの増産は島ぐるみで取り組まなければならない緊急の課題であった。町議会は夏と年末の議員手当を返上する決議をした。町職労も歳費値上げを求める春闘をやらないことにした。

それならば、農協は何をするのか。時は折から沖縄海洋博が準備されていた。国家事業であるからこれに投資すれば間違いないと誘いかけるのがいた。本土から観光客が押し寄せ、不便な本部半島まで運送する船が必要となる。この船会社を立ち上げるから投資をすれば、農業の近代資金など訳のやく集まる。そこで与那国島に住んでいない与那国島出身者に、裏利息をつけて形だけ与那国農協に預金させることを仕組んだものが那覇にいたのである。

沖縄海洋博には本土からは予想したほど客は集まらなかった。船会社は倒産し、投資した金は不良債権化し、借金ばかりが与那国農協に残ることになった。そんな折の援農隊の出発であったのだ。

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自由の天地

 

島へ島へと

自由の天地

与那国島に南からやってきた人々が暮らしはじめ、大雨という災厄からもなんとか逃れた。暮らし向きが落ち着いた頃のことを、池間栄造氏は「与那国の歴史」でこのように描写する。

「大昔、島の人々は山野に生えている木の実、蔓の根をさがして喰べていました。又、海岸に出て魚介類を漁り廻っていました。」

税金もなく、掟もなく、本当に自由の民の暮らしをしていたと、池間氏は書く。この文章で、本当の自由の民の暮らしをしていたと、池間氏は書く。この文章で、私は「アイヌ神謡集」の知里幸恵の序文を思い出す。「その昔この北海道は私たちの祖先の自由の天地でありました。天真爛漫な稚児の様に、美しい大自然の抱擁されてのびのびと楽しく生活していた彼等は、真に自然の寵児、なんという幸福な人たちであったでしょう」この二つの文章に共通するのは、豊かな自然からの採集生活の楽しさであり、自由なおおらかさである。山にはいれば木の実や草の根がいくらでもあった。採集生活は苦労ばかり多かったわけでも、いつもひもじかったわけでもない。現代と比べものにならないほどに自然は豊かで、四季折々の変化に富んでいたのだ。食生活が単調になったのは農耕によって人の暮らしが成立するようになってからであろう。たとえば米というものは、一年中食べられる量をつくるのである。野菜にしても、四季の変化によって、栽培できるものは決まっていたことであろう。

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自由の天地-2

 

島へ島へと

自由の天地-2

 

現代に生きる私たちは、自然の多彩さと豊穣さとを心から知っているわけではないのだ。いつか私は石川県白山山麓で、縄文人が何を食べていたのかという研究論文を読んだことがある。遺跡から発掘調査によって物が発見されたというのではなく、何を食べることが可能かという研究である。サケやマスが川を遡上するし、川に一年中いる魚もいるし、海に出れば魚がいることはもとより、貝などは砂利のように拾うことができたであろう。こうして貝塚ができたのである。山は山菜の宝庫であるし、芋や実や葉があり、クマやシカなどの動物もいる。どのようにとったかわからないにせよ、冬になればカモやガンや白鳥なども飛来してきたのである。一年中食べることにか事欠かず、しかもおいしいものを選んでいれば、豊かな生活ができた。このような生き方を、現代ではグルメというのである。

与那国島は周囲を海に囲まれ、美しい入れ江もある。大潮の干潮には干潟も広くできるのだ。森も深く、植物の恵みも多かったであろう。人々はまさに自由の民の暮らしをすることが可能であったであろう。

だが豊かな自然も、時には恐ろしい災厄をもたらすのである。「与那国の歴史」によると、ある日突然青空が橙色になり、赤い色になり、紅の炎となって、暑くなってきたという。人々は祈るほかなかったのだが、いっこうに効き目はなく、とうとう火の雨が降ってきたとある。人々はどうすることもできず、ただ逃げまどうばかりで、多くの人が死んだ。山火事がおこり、全島を焼きつくしたのであろうか。植物が枯れるほどの激しい旱魃があったのだろうか。

一家族が神の声を聞き「どなだ・あぶ」と呼ばれる縦洞に隠れ、生き残ったという。池間氏は次のように書く。「その子孫からは耕すことを知るようになり、又働いて余分な物を蓄えることを知るようになりました。その為に、島は栄えるようになりました。」

大災害が起こり、そこから生き延びるために農業をはじめる。これは農業の起源としてもまことにおもしろい。

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雨の砂糖キビ畑

 

島へ島へと

雨の砂糖キビ畑

太陽の下で力いっぱい筋肉を使うので、なんだか消火器官が働くのを辞めてしまったようで、まったく食欲がない。食べてくなければ水を飲んで腹をいっぱいにしていくようにと、大嵩のオジーにはいわれた。身体がまいるのを、なんとか防がなければならない。

一日中炎熱の畑にいた翌朝は、硬い飯はなかなか喉を通っていかなかった。飯に水をかけて無理矢理のどに押しこみ、畑にでていったこともあった。大量の限界に挑戦するような毎日であった。

ちょうど田植えの時期と重なっていた。オジーは田んぼにかかりっきになり、目刺のオバーも大嵩のオバーも年が年なので無理はできず、野球グラウンドよりもはるかに広い一町余りの砂糖キビ畑で、私が一人で仕事をしていることもあった私は一列を手斧で倒し終えると、また戻っていって一本ずつ葉を落とし皮を剥きある本数がたまると結束した。見かねたのか、近所の畑から応援にくることもあった。

手伝いの人は、思いもかけないほどに増えたり、誰もこなかったりもした。トラックを運転して畑にくることからはじまり、渡しは何もかも一人でしなければならなかった。水辺につないである水牛を引いてきて、鞍をかけて荷車にしばりつけ、荷車をあやつった。最初はそばに寄れもしなかった水牛であるが、ホィッ(歩け)、ダアッ(止まれ)の二つの言葉を怒鳴るだけで、私に率直にしたがうようになった。真黒で大きな水牛だが、受血した小さな目で感情を知ることができるようになっていた。

島が小さいということではないだろうが、空模様はめまぐるしく変わった。雲の動きが速いのである。晴れわたっていたかと思うと、上空を黒っぽい雲が吹き流れていき、雨粒が落ちてきた。雨合羽はいつもそばに置いておかなければならなかった。

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雨の砂糖キビ畑-2

 

島へ島へと

雨の砂糖キビ畑-2

 

雨に濡れると砂糖キビは柔らかくなり、手斧を振るたび棘のような粉が飛ぶということはなくなった。倒すにも葉を落とすにも、皮を削るにも、やりやすくなったのだ。

どんなに土砂降りになろうと、はじめは雨合羽を着てやる作業のほうが、炎天下にいるよりずっとましだった。だが汗をかくと、着ている服は濡れ、合羽の内側の身体は暑くなる。晴れれば、ただちに合羽を脱ぐ。するとたちまち服は乾いた土砂降りになっても、その時間がくれば弁当を食べなければならない。このことが精神的につらかった。樹影もない野面の真中で、弁当をひろげて食べる。弁当箱の中に雨が降りこみ、おかずは水漬けになり、飯粒は浮かんだ。身体が芯からこごえてきた。

仕事は過酷に違いないのだが、身体というものは強いもので、つらさに少しずつ慣れてくる。自分にしかわからない強靭さが身についてくるという感覚は、嬉しいものであった。仕事はまだはじまったばかりで、先は気が遠くなるほど長い。当初は一日二日と過ぎ去る日を指折り数えたのだが、何日過ぎ去ったのかわからなくなっていた。

砂糖キビ畑に人が増えたり減ったりするのは、ユイマールという制度があるからだった。人の手を借りた農家は、自分が相手の仕事をして返す。求められると返さなくてはならないので、自分の畑を置いてでも手助けにいかなければならない田植えや稲刈りや砂糖キビの収穫など、短期間にたくさんの人手が必要のなる時期には、隣近所や親せきの間でなんとなく順番が決まり、ほとんど同じ顔ぶれがあちらの家の田んぼ、こちらの家の砂糖キビ畑という具合に、仕事を巡回させる

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砂糖キビ畑へ

 

島へ島へと

砂糖キビ畑へ

一九八一年二月十一日、私は宇都宮郊外にある家を出発した。一年中で最も寒い季節で、内陸的気候の栃木県宇都宮は緯度のわりに寒い。樹木や屋根やアスファルト路面は、銀色の粉をまいたように霜で真白だ。私はリュックを担ぎ、白い息をはきながらバスに乗った。

宇都宮駅から上野駅行きの東北本線の電車に乗った。当時はまだ東北新幹線が開通しているわけではなかったので、急行に乗ったのであろう。関東平野を疾走する車窓で、私は不安を覚えていた。砂糖キビ畑での仕事に耐えきれるかどうか、地震がなかったからだ。

私は三年前まで、故郷の宇都宮市役所に勤めていた。だがそれも辞め、小説執筆に文字通り専念する日々を送り、「遠雷」なども発表していた。それから原稿用紙千枚を超える長篇小説「歓喜の市」の執筆をすませたばかりで、あまりにも作品に集中したので疲れてしまった。そこで身体を動かして、汗をかきたくなった。疲れたのなら温泉に行くのが普通なのだろうが、私は若くて元気だったのだそれと一年ぶりに沖縄にいきたかったのである。

砂糖キビ畑で、肉体労働の単純な喜びを取り戻したい。また日本に復帰して九年たった沖縄の現実を、離島でも一番端の与那国島から見詰めてみたい。そしてなにより、私自身の旅心を満足させたい。改めて数え上げてみれば、そんな理由からであったろう。

羽田から飛行機に乗り、那覇にいった。宇都宮ではよほど早くなければ、石垣ぐらいまではいけるが、与那国島までは無理である。それに時間はたくさんあったのだから、沖縄を楽しみながらゆっくり南に向かいたかった。急ぐ理由は何もなかった。

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砂糖キビ畑へ-2

 

島へ島へと

砂糖キビ畑へ-2

 

那覇の空港前の庭には、桜が咲いていた。私はコートを手に持ち、その上でセーターを脱いだ。日本列島は南北に細長いため、風土の襞が深いと、改めて実感するのであった。あらかじめ予約をしておいたビジネスホテルに旅装を解く。そこは島敏夫さんが冬を沖縄で過ごすために宿泊するホテルだと、以前前川信治さんに教えてもらったところで、私も前に一泊していた。泊港の南側に面していた。私は三十三歳であった。十年前ならば、ハーバービュー・ホテルと称して、港に野宿したであろう。ビジネスホテルに泊まったのは、私が若くなくなったということもあるが、そもそも日本に復帰して以来、昔のような野宿が許されなくなっている傾向である。かつての沖縄らしいおおらかさが少しづつなくなっていると、私は感じていた。那覇に着くと、まず私は波之上に行ってみることにしている。かつて私がボーイとして働いたナイトクラブの「ビアホール清水港」がどうなっていくか、確認したいからである。「ビアホール清水港」は跡形もなく消滅し、その後派手なネオンサインに飾られたナイトクラブ「チャイナタウン」になったが、それも取り壊されてビルになっていた。そこは内地からの観光客のための沖縄料理店が、テナントとして入居していた。何もかのが激しい速度で変化していく。

昔からまったく変わらないのは、マチグワーだった。旅人にまで「魚を買いなさいねー」と声をかけてくるオバーたちは、相変わらず元気だ。この変わらないところが、旅人にはまことに心強い。私はマチグワーで、砂糖キビ畑で使う合羽と長靴を買った。砂糖キビ刈りをする時に調子よく身体を動かせるよう、喜納昌吉のミュージックテープ「ブラッドライン」を買った。ここには「アキサミヨー」「ジンジン」など調子のいい曲がはいっていたからだ。

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