砂糖キビ史

 

島へ島へと

砂糖キビ史

琉球に砂糖キビが伝わったのがいつの時代なのか、よくわからない。中国の現在の福建省の福州から三十六姓が琉球に渡来したのが一三九一年で、この時に甘藷もいっしょにやってきたのだという説がある。甘藷とは砂糖キビのことである。
日本に初めて中国から甘藷を持ってきたのは、奈良時代の鑑真和上であるともいわれる。当時は食料ではなく、医薬品であった。日本が江戸時代と呼ばれるようになった一六二三年、琉球に儀間真常が福州から製糖法を伝えた。それ以降に琉球では急速にひろまっていった。琉球王府は砂糖を専売にし、財源とした。この財源は有給王府を実効支配していた薩摩藩を潤したのである。
琉球では畑の多くが甘藷栽培にあてられ、食料の自給にもさしさわりがでるようになり、一六九七年には甘藷作付制限令が出される。砂糖キビがいかに急激に広くつくられたかがわかる。
この制限令が解かれたのは、明治二十一(一八八一)年のことである。これに先立って明治十四(一八八一)年には沖縄県庁から八重山に甘藷三株が試植されている。八重山の甘藷はこの読谷山種なのである。
やがて八重山地方では製糖は大きな産業に育っていく。
水牛に引かせて石車を回し、キビの糖汁をしぼって、鉄鍋で炊く。糖汀に石灰をいれて固める。この水牛や多収穫の品種は台湾からもたらされた。第二次世界大戦で焦土となった沖縄で、製糖事業は戦後の回復の大きな力となっていった。

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砂糖キビ史-2

 

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砂糖キビ史-2

やがて八重山では各島ごとに製糖工場がつくられていった。水牛と鉄鍋による生産ではとても間に合わなくなってきたのである。
与那国島に読谷山種がもたらされたのは、明治二十年と考えられている。明治二十五(一八九二)年には一町歩作付けされ、三五四キロの砂糖を生産した。大正時代には石車の製糖所は二十六箇所あったとされる。八重山全体の三分の一で、狭い与那国島のいたるところに製糖場が作られたことを意味する。他の目立った産業がないので、単一作物が一気に広がっていったのだ。これが離島の産業基盤の弱りところである。島のこの産業基盤が、後に援農隊がさまようことになった与那国町農協破産事件の遠因なのである。
与那国島の砂糖キビ生産量は、昭和三十九(一九六四)年までは年間五千トンを超えるくらいだったが、その後はどんどん増えていった。昭和四十三(一九六八)年には史上で最高の二万三三六0トンとなり、まさに絶頂をむかえたのだが、その後どんどん落ち込んでいった。昭和四十七(一九七二)年には五五00トンに戻ってしまった。逆風が吹いてきたのである。
生産量が加速度的に増えようとしていた昭和三十五(一九六0)年、離島の夢を乗せて製糖企業の誘致が計画され、与那国製糖株式会社が設立された。実際に製糖がはじまったのはその二年後であり、処理能力の一日二百万トンという高性能であった。つまり砂糖キビをたくさん植えつけて収穫しなければ、製糖工場は採算割れを引き起こす。どうにかして生産量を確保しなければならないことになったのである。
その頃からすでに与那国島では過疎化が進行し、労働力不足が深刻になっていた。沖縄では与那国島ではじめて外国人労働者の受け入れが検討され、昭和四十二(一九六七)年に台湾から四十八人がやってきた。しかし、この五年後の昭和(一九七二)年に日中国交回復が行われ、台湾とは国交断絶となって季節労働者はやってくることができなくなったのだ。

サンアイ・イソバ

 

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サンアイ・イソバ

サンアイ・イソバの話をする時、与那国の人たちは遥かな憧景を感じるのか遠い目をし、それから嬉しそうな顔をする。祖内を一望のもとに見降ろす隆起珊瑚礁の崖には洞窟があり、サンアイ・イソバはそこに住んでいたということになっている。確かに集落全体を見渡す位置にあり、支配者が住むにふさわしい。
サンアイ村は村の中央部にある。サンアイ村から海岸の祖内にでるためには、絶壁の割れ目は身体を横にしなければ通っていけなかった。サンアイ・イソバが住んでいたとされる絶壁あたりはサン二・ヌ・ダイと呼ばれる。石灰岩であるからあっちこっち穴ができているわけで、これはサンアイ・イソバを慕うあまり、いたるところに痕跡を見る。サンアイ・イソバは巨人ということになる。
そういえば島に伝えられているところによると、巨人がはくような巨大な草履を海に流し、この島には巨人が住んでいると示したということである。交通の道筋である海からは、どんな邪悪なものがやってくるかわからない。そこで悪いものがこないようにと、ここには巨人がいるぞとの物語を流すのである。サンアイ・イソバの話も、物語によって島を守ろうとした人の精神活動の一種なのかもしれない。サンアイ・イソバは母なる存在であり、ただの乱暴者ではない。

サンアイ・イソバ-2

 

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サンアイ・イソバ-2

荒れ地を開拓して新田を開き、牛を飼い、四人の兄弟を按司にして四つの村を支配していたという。このように行政の手腕があったばかりではなく、実際に腕力があり、人の上に君臨する才能があった。腕力とは、人に暴力を向ける暴力ではなく、働く力なのだ。イソバはサンアイ村を七頭の牛をひきいて夜明け前に出発し、海辺の村で芋を収穫して七頭の牛の背中に積み、途中で牧場に寄って牛の水飲み場の池さらいをし、明るいうちにサンアイ村に戻ったという生産性の高い働き者であった。暴力によって専制君主的に村に君臨していたのではなく、自ら範をたれることによって、尊敬を集め村を束ねていた。
池間栄造氏は、およそ西暦一五〇〇年頃のことではないかと推察されている。時代区分としては中世なのではあるが、サンアイ・イソバの物語はまるで古代のようなものだ。島に土地はあったのだが、問題は水で、耕作のためばかりではなく人間の飲料のためにも水の確保は第一であった。ことに島の中央部のサンアイ・イソバ村は、天水が頼りである。ということは天候に左右され、神を司ることが重要とされた。そのような時代に人々を支配したサンアイ・イソバは、常人を超えた女性ということから、祝女の一種であったかもしれない。実際のところ沖縄の宿女は、多くが専業ということではない。祭事があったり何か必要があった時に、神と交通することができる祝女としての役割を果たすのである。普段は畑で働く農夫であったり、漁師の女房だったりする。
水の不安のある島の中央部の高台に村をつったのには、理由がある。毎日通う畑にすぐにいけ、海岸付近はつねに外敵に襲われる危険があったからである。海賊はしばしばやってきて、村を襲ったということだ。村の中央部に海賊を引きつければ、帰るための船からも遠くなり、撃退しやすくなる。ましてサンアイ・イソバのような豪傑に守護されれば、安心である。人々はサンアイ・イソバが強うのかを、ことさら強調して話し伝えたのに違いない。

腰の痛さ

 

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腰の痛さ

午後三時に休憩をとり、またキビ倒しをはじめるのだった。畑の端は他の植物の侵入が激しい。アサガオの蔓が砂糖キビの茎に絡まり、根元を切っただけではキビは倒れなかった。根元を斧で切り離し、空中に浮かんでいるキビを力まかせに引っぱろうとするが、思にまかせない。ただ疲れるばかりである。結局のところ、蔓を鎌でていねいに切った後に、根元を斧で倒すより仕方なかった。アサガオの蔓が絡まっただけで、十倍も疲れるのであった。
夕方五時半になって、大嵩長岩さんの声が畑に響き渡る。「ご苦労さあん」
日を重ねるにつれ、手元が暗くて見えなくなるまで働かなければおいつかなくなるのだが、最初からとばすと息切れがする。二か月もの長丁場のので、ペースの配分を考えなければならない。
太陽は宇良部岳へ山際近くまで傾いていた。私は最初の一日をなんとか乗り切れたなとほっとしながら、道具を片付けて荷台に放り投げ、トラックの運転席にあった。残されていくのは水牛が一頭である。ひろびろとした畑で、切り落とされた砂糖キビの葉をうまそうに食べていた。
「盆と正月が一度にやってきたとおもっているはずだよ」
助手席で長岩氏が笑った。砂糖キビの葉は甘くて、牛や山羊には何よりの御馳走である。そのために、普段の畑は水牛や野放しにしている山羊が侵入しないよう、バラ線で囲っておかなければならない。したがって、切り落とされた葉とはいえ自由自在に食べられるということは、水牛にとっては最高の喜びなのである
目刺のおばさんを送って私は大嵩の家に帰る。

腰の痛さ-2

 

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腰の痛さ-2

目刺のおばさんを送って私は大嵩の家に帰る。泥まみれの作業衣を普段着に着替えて畳の上に横になってから、私は腰に痛みがあることに気がついていた。痛いのは身体の中で、このまま眠ってしまいたいほどである。「お風呂に入って」と
大嵩のおばさんの声が響き、何とか私は起き上がった。
浴室にいっきにシャワーで体を洗ってくると、長岩氏は居間で泡盛を飲みはじめていた。昼間に一杯飲むようにと私はいわれて飲んだ。それから私はふたたびプラスチックのコップに泡盛をくんで生き飲み、同じコップに水をついで飲んだ。
酔いにつらさをまぎらわせて仕事をつづけた。酔いのために身体は熱くて重くなるのだが、それでもつらさは少しは消えた。庭を眺めながら、長岩氏と私は廊下にあぐらをかいて泡盛をもんでいた。生垣の向こうによその家の砂糖キビ畑がある。その向こうにティンダ・バナの崖が見えた。私は言葉もなかったのだが、長岩氏がぽつりという。「きついかね」「はい」私は長岩氏の隣であぐらをかいて腰の痛みに耐えているのだが、気分は爽快である。汗はたっぷり流すにかぎる。
「腹が減っていれば、なんでもうまいよ」長岩氏とぽつりぽつりと語り合いながら、私は泡盛を飲みつづけた。腹が減っていなければ、どんな高価なものでもうまくない。腹も減っていないのに無理にでも美味なのだと思おうとして、うまいものの店を探しまわっている生活もどこかにあったなと、私はそんなことを考えていた。高カロリー高タンパク質を摂りつづけ、身体を壊してしまう。そんなことから遠い砂糖キビ畑には、生き方の原点があると思えた。

 

製糖工場

 

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製糖工場

与那国の援農隊で、畑の作業をする人はそれぞれの農家に住み込むのだ、製糖工場で働く人は民家に分宿する。「民宿さきはら」は、そんな援農隊の宿舎になっていた。その宿舎は援農隊で、砂糖キビをつくっていた。
その時は私は援農隊の組織者の共同通信社遠野浩之さんといっしょで、まず、見学をするつもりであった。「民宿さきはら」に旅装を解き、遠野さんといっしょの部屋にはいった。民宿には人があふれ、ほぼ満室だった。与那国島では豊年祭などの祭りも多いのだが、砂糖キビ刈りはもちろん島の基幹産業なのであるが、祭りのようでもあった。民宿でも、砂糖キビ畑での仕事もあるし、宿泊客の世話もあるし、てんてこ舞いであったろう。ご主人が畑にでて砂糖キビ刈りをやり、奥さんが民宿の世話をすると決め、分業にしていたようだ。夕方になると野良着のご主人が帰ってきて、同時にいっしょに畑で働いていた若者たちが戻ってきて、民宿はにぎやかになるのであった。
「民宿さきはら」にとまっている外来者は、多くが製糖工場で働いた。製糖事業はひとつの宿命を持っている。畑で刈り取った砂糖キビは、可能なかぎりすみやかに製糖工場に運ばなければ、糖度が落ちてしまう。出来上がった砂糖は品質が悪くなる。ということはつまり、砂糖キビは保存がきかないということである。

製糖工場-2

 

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製糖工場-2

小さな島であるから、砂糖キビの供給はかぎりがある。製糖工場を通年開けておくと、創業資金や人件費がかかることになり、そもそもが小規模な製糖事業は成り立たなくなる。そこで極限までコストをおさえるために、その年に供給される原料の砂糖キビを計算し、それによって製糖工場を開く期間を決めるのである。
つまり、一年のうち二か月か三か月の間、ふだんは島にいないほどの人が働き手として必要になるということだ。
島には高校がない。そのために中学校を卒業をすると、子どもたちは石垣島や沖縄本島にでていってしまう。仕送りをするのは大変なので、この際一家で移住してしまおうということになる。こうして毎年確実に、島の人口は減っていくのである。その上に、製糖事業のためには、短期間だけ労働力がいる。
そのために援農隊が生まれるのだ。
製糖工場は昼夜は夜二交替制である。民宿でも昼夜交替にすれば、普段の収容員の二倍の人数を泊めることができるのであるが、もちろんそうもいかない。昼夜勤務の人は工場ですれちがうことはあるだろうが、民宿でいっしょにいることはない。昼と夜とは、決まった期間を過ぎれば入れ替わるのである。
製糖工場のまわりは、いつも濃くて甘いにおいがした。昼間は砂糖キビを積んだトラックがはいってくると、トラックごと計りにのって重量を計測し、砂糖キビを降ろした帰りに空荷で再びトラックを計測する。その差額を、搬入した砂糖キビの重量として計測していくのである。後に私は砂糖キビを満載したトラックを運転して、数えきれない回数、製糖工場にやってくるのである。
搬入された砂糖キビは、トラクターで押されてベルトコンベアーののせられ、工場の中にどんどん吸い込まれていく。現れた後、搾られる。ジュースは製糖のほうに、搾り残った部分は燃料にされる。砂糖キビの燃料は、甘やまな香りを立てて燃えているのであった。

与那国タイム

 

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与那国タイム

私の印象でいえば、本島の沖縄タイムスは決められた時間から一時間遅れ離島の与那国タイムはそれに輪をかけて一時間半遅れという感じである。最近ではずいぶん是正されてきたはずが、ひと昔前までは沖縄タイムスや与那国タイムは当たり前で、そんなことで腹を立てるほうがおかしいというほどであった。

それからしばらくしてから、与那国の人たちが何人か上京してきて、渋谷で会うことになった。私が御馳走することになったのである。待ち合わせ場所は誰のもわかるところがいいということで、忠犬ハチ公の前ということにした。

私は時間通りにいき、十五分もたってから、やられたと思った。東京に戻ってからしばらくしてからだったので、与那国タイムのことを考えていなかったのだ。もし思いついたとしても、私は疑わずに時間通りにいったろう。駅前広場の忠犬ハチ公というのはすさまじいばかりの雑踏であって、あんなところで待たされるのはかなわない。与那国からくれば心細くもなるだろうし、東京にくれば東京のやり方にあわせるはずだと思った。

ところが待てど暮らせど姿を見せず、私は雑踏の中に立ちつづけていたのだ。これが苦痛ではないはずがない。私とすれば、電車に乗り間違えたのだろうか、道に迷っていないだろうか、はたまた約束を忘れているのだろうかと、あれこれ考えてしまった。私のほうで時間を間違えているのかもしれない。雑踏の中をあっちこっち歩いてみて、また忠犬ハチ公のところに戻ってきても、やっぱり姿はないのだった。

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与那国タイム-2

 

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与那国タイム-2

ようやく姿を現したのは、約束の三十分後であった。与那国タイムの標準一時間半よりは少ないものの、この三十分が重いのである。

「遅いじゃないか。こんな人込みの中で待たされたんだぞ」私は思わず怒ってしまった。「あっ、こっちの人は三十分も待っていられないんだ。気が短いね」のんびりという与那国の人の声を聞き、私は怒るのをやめた。そんなことがあった。やっぱり遅れるのは時間の無駄になることだから、よくない。

夜の与那国、農協主催の打ち合わせ会に話をもどす。主人の大嵩長岩氏は酔って寝てしまい、何もわからない私が代理で出席したのである。与那国タイムのとおりにきちんと一時間半遅れではじまった会合では、まず最初に「どなん」の四合壜と料理が配られるのであった。全島一斉に製糖事業にはいるための、農家と製糖工場の懇親会もかねていた。ヤマトンチューの私がそこにいるのも不思議な具合で、私は何度も誰から問われ、大嵩岩長氏の代理できているのだと説明しなければならなかった。

「大嵩オジーは酔っぱらって寝ているねー。ハアーッ」最後のハアーッというのが、尊敬しているのかあきれているのか、独特の感嘆の溜息なのであった。

農協の組合長が立ち上がると、まわりを見まわしてスピーチをはじめる。代理で出席している私は酔って眠っている大嵩オジーに報告をしなければならないのでボールペンを走らせてメモ帳にメモをとる。これはもちろん私には取材ノートになるのだ。

🔶新鮮な材料を搬入しましょう。刈り取りから搬入まで日数が長くなると重量が低下し、原料も製品も質が悪くなります。

実感のこもった現場の話に、いよいよ私も緊張してきたたのだった。

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