シマチャビ

 

島へ島へと

シマチャビ

かつて東京から与那国島に渡るには、まず那覇にいき、そこから石垣にいき、そこまでは予定通りにいくことができた。その先は不安定要素が多くて、予定がどのように変わるかわからなかった。石垣島からは、福山海運の「よなくに丸」で八時間かけ黒潮を渡る。この船は揺れるので有名だった。

もしくは石垣空港から十九席しかない小型飛行機DHC-6に乗るかだった。これはあまりにも小さい飛行機なので、天候の具合でしょっ中欠航になった。石垣飛行場までいくと、「欠航」の看板がでている。有無をいわせない力が、その看板にはあるのだった。「欠航」がでると、どんな事情があろうともそこから引き返さなければならない。予約はその時点で完全に取り消されるので、また改めて予約を取り直さなければならない。次の便、もしくは翌日の便でいければいいのだが、なかなか予約をとることができない。それが大問題なのだった。船ならば予約をとれないということもない。しかし、週に二便ほどしかなく、どうしても飛行機でいけない時のための補助という感じがあった。牛などを送る時も、牛だけ船に乗せ、人は飛行機でいく。船は揺れるし、船酔いもする可能性もあるので、難儀でもある。そのことをよく知っている島の人はほとんど飛行機を利用し、船に乗るのは九割までが内地の人間である。船のほうが運賃は安いのだが生活のためには船は不便だということである。

今は与那国空港の滑走路は拡張され、石垣からも那覇からもジェット機が飛んでいる。石垣の便は午前中と午後と二便あり、たくさんの人が乗れるし、大型なので欠航もめったになく、昔のような不便さはない。ただし、昔の不便さがなつかしい反面もある。与那国島にしてみれば、午前中の便で人がどっときて、小さな島の中を駆け足で観光し、午後の便でまたどっと帰ってしまう。旅館に泊まるわけでもないし、ただゴミを落としていくだけだということになる。

私もむかしの不便をなつかしく思う。かつては石垣までいた派手な服装をしたいかにも観光客らしい人たちも、与那国島行きの便では影をひそめた。普段着の島の人か、作業服を着た工事関係者ばかりであった。与那国まで、観光に行くとは一般にはあまり発想にはなかったのである。

実際に、観光旅行というものは会いたい予定が決まっているのであり、石垣で空席待ちを二日間もするというのは考えにくい。かつての与那国空港は、少しでも強い南風が吹けば、飛行機は横風を受けて着陸不能となった。私も与那国空港も上空まできながら、引き返したことがある。

比較的最近の事であるが、沖縄県から与那国島で講演をするよう頼まれたことがあった。私は東京から石垣島まで直行便で行き、同行する石垣島の校長先生と待ち合わせた。ところが天候がどうもよろしくない。石垣はよいのだが、与那国は風が吹いていて、飛行機が着陸できるかわからないということだ。私は校長先生たちとチェックインをすませ、飛行機が出るかどうかとやきもきしながら待合室にいた。

その時、突然アナウンスがあった。

「与那国空港横風のため、欠航します」

そのとたん、待っていた人たちが一斉に立ち上がり、帰っていった。みんな無言で、運命に従順という感じであった。私も人の流れとともにいきながら、昔を思い出し、一つの言葉を思い出した。シマチャビ、離島苦という言葉である。どんなに便利になったようであっても、本質は変わっていない。

ウラブ岳の月見

 

島へ島へと

ウラブ岳の月見

民宿さきはらは夕方になると出かけていく人があり、しばらくすると帰ってくる人もいた。製糖工場は十二時間交代で、昼夜は一週間に一度は交代する。帰ってきた人は、まず、お風呂に入ってさっぱりし、それから夕食をとる。民宿のおばーは、これら出勤する人のためにと、仕事から帰ってきた人のためにと、二度夕食を出さなければならないということになった。

夕食が終わると、おばーは、一安心するようであった。おばーも昼食は砂糖キビ畑に出てキビ刈りをしているのである。夕食の支度のために畑から少し早く切り上げ、近所のおばーに手伝いにきてもらっていたかもしれないが、満室の客に朝晩の食事を供するのは大変なことである。だが砂糖キビの季節はみんなが頑張る島で遊んでいる人は一人もいない。役場や農協に勤める人は土曜日の午後と日曜日は鎌をもって畑にやってくる。内地からきた学生が海岸でテントを張ってキャンプをしていると、畑に引っ張り込まれる。その翌年のことだが、そんな学生たちを私はたくさん見たのであった。島外からたくさんの若者がやってくる砂糖キビ刈りの季節は、島の人たちにとって楽しみの一面もあるようだった。はじめは他所者(よそもの)に慣れなかった島人も、よそからくる人は結局島を救っているとの認識が広がってきて、そんな変化を受け入れてきたようであった。「ウラブ岳にお月見にいきましょうかねー。今夜満月だから、きれいですよー」

民宿さきはらのおばーがまわりの人にいきなりいう。いこういこうということになり、民宿さきはらのおじーがトラックを運転することになる。みんなは我先にと荷台に跳び乗っていく。私も乗った。

島の外では人がトラックの荷台に乗るのは道路交通法違反になるが、島ではトラックは最大の交通手段だ。駐在所に警官が一人いる。そんなことでそんなことで取り締まろうものなら、実際に取り締まった例がないのでわからないにせよ、大変なことになるに違いなかった。

今でこそ島内にはアスファルト道路が縦横に通っているのだが、当時はウラブ岳にいくにはずいぶん迂回していかねばならず、しかも砂利道であった。暗い夜道をトラックが大きくバウンドするたび、荷台の鉄板に尻をしたたかに打たれ、荷台に乗っている男も女も一斉に悲鳴を上げる。それがまた楽しかったのであった竹が道の方にかぶさっていて、荷台を掃くようにしていく。そんなことでもまた悲鳴が上がる。気持ちのよい風が吹いてくる。私は三十歳の半ばであったが、まるで青春が戻ってきたような気分になったものだ。ウラブ岳の山頂には大きなアンテナが並んで立っていた。そのために工事用の道路が通っているのだ。おかげで私たちは月見ができる。トラックが止まったので荷台から跳び降りると、四方に海が見えた。暗い海と月あかりが染みた空との間に、微かに水平線が見えた。満月の下の海は、黄金の光の粉がこぼれたようにキラキラと輝いていた。本当に粉が降りそそいでいるかのように見えた。自分は今日日本列島の最南西端の与那国島にいるのだと、荷台に乗ってきた連中は皆しみじみと思ったに違いない。

運転台にいたのはおじーとおばーだった。おばーは三線を持ってきていて、みんなの前で民謡を歌いはじめた。三線が出てくると、ナイチャーは聴く側にまわるしかなくなる。文化の違いを思い知るのだ。いつしかウラブ岳山頂の月見の会はおばーの民謡を聞く会になっていた。月も聞いているかのようであった。

日本の札。

 

島へ島へと

日本の札。

東京のナイトクラブ探訪に、私が案内人としてふさわしくないと気づいたマスターは、一人で歩きだすようになった。新宿の三色メニューのナイトクラブにいった時も、次の店へは自分一人で歩いていった。大体の場所がわかったら、経費のこともあるし、私は行かないほうがよかった。

私が先に下宿に帰って寝ていると、明け方頃にマスターはずいぶん酔って、御機嫌で戻ってきた。「東京はチップの習慣がないねータクシーの運転手にチップやったら、喜んどったさー。あんなに喜ぶのんかねー」マスターはいかにも不思議だというふうにいう。チップはそもそもがヨーロッパかアメリカの習慣で、東京あたりではほとんどない。マスターがあまり驚いたふうにいうももだから、私は問う。「いくらあげたんですか」「これだよ」マスターが財布からだして私に見せてくれたのは、五千円札だった。今の五千円よりも遥かに大金である。

「こんなに・・・・」

「喜んだからいいじゃないか」

「五千円ですよ」

「何ドルか」

「五千円を三六Oで割ってください」

マスターは頭の中で計算し、拳を自分の掌に打ちつける。しまったということだ。私の下宿の一月分の家賃はどである。「暗いからわからんよー」マスターはいかにも残念そうにいうのであった。「運ちゃんはよろこんだでしょう」「それは、本当にいただけるのかって、何度も聞いたよー」「そりゃそうですよ」「日本の札はわからんよー」残念そうにマスターはいうのである。当時沖縄はアメリカ・ドルを使っていて、マスターには日本の札は馴染みがない。千円も五千円も一万円も、札のデザインをよくよく見て頭で考えなければ、判断がつかないのである。その逆のことが、沖縄にいった時の私などにもいえた。百ドル紙幣などはめったに見ることもないのだが、それも一ドル札と同じような色とデザインと大きさである。印刷されている人物の顔と、金額の数字だけが違う。支払う時には数字をよく確認してからにする。それは今でもアメリカにいくと経験することである。形もデザインもまったく違うのであるから、日本の札のほうがまだわかりやすいということになる。マスターは東京で大いに札びらを切ったようであるホテル代を浮かそうと発想したくらいだから、そもそもの所持金もたいしたことはなかったのかもしれない。マスターは東京のナイトライフを存分に楽しみ、また船で帰っていった。飛行機も飛んでいたはずだが、飛行機に乗ろうという発想は、貧乏な学生の私はもとより、多少金を持っているマスターにもなかった。

しばらく後で私は波之上の「ビアホール清水港」にいったのだが、その時チーフが、私の耳元でこんなふうに囁いた。「マスターは新宿で大暴れしたそうだねー何か気にいらないことがあって、ナイトクラブの店長呼び出して、テーブルひっくり返したそうだねー。店長は土下座して謝ったってねー」

「それはすごかったですよ。どうなることかと思って」

マスターの名誉のために、私はこう答えたのだった。

 

犬と花嫁

 

島へ島へと

胃のと花嫁

与那国に伝わる「いぬがん」の話は、池間栄三氏の「与那国の歴史」にあっても、古代の雰囲気を漂わせている。久米島から琉球中山王への貢物を積んだ船が出航したというから、中世のはなしであろう。離島に流れる時間は、沖縄本島に流れるものとも、またヤマトに流れるものとも、まったく違っている。それがまたおもしろいところである。

琉球王朝への進貢船は、嵐のあって行き先を失い、漂流をする。何日の何日の大海原を漂い、ようやく島影をみつけた。さっそくこぎ寄せていき、上陸すると、よさそうな無人島で、ある。そこが与那国島である。

伝説の中で、与那国島が無人島として何度も登場するのだが、不思議である。長雨が降り、火が降り、大津波があり、大災害にみまわれ、ごく少数の人が生き残る。生き残った人が与那国島の祖だというのだが、何人も始祖がいることになってしまう。災害にみまわれたのは何度もで、そのたび少数の人が生き残り、そこから派生した幾系統かの子孫たちが、それぞれの島建ての物語を語り伝えてきたのかもしれない。「いぬがん」の始祖は久米島の女である。久米島の一行は全員で何人かはわからないのだが、一人の女と一匹の犬がまじっていた。小屋を建て、海や山で獲物をとって生活をはじめた。ところが男が一人ずつ姿を消してゆく。どこにいってしまったのか、まったくわからないのである。

最後に残ったのは、女と犬であった。男は一人ずつ犬に噛み殺され、死体を始末されていたのだ。必然の結果として女と犬は暮らし始めた。暮らしたその場所を「いぬがん」といい、異類婚の話として伝わっている。これは与那国がまだ人間による文化の世界にはいりきっておらず、自然と文化とがどちらがどちらに屈服するというのではなく、並列的に存在したことを示している。だが、子どもが生まれなかったから、自然と文化と両義的な存在として人間が存在していたのではない。「てだん・どぐる」「どなだ・あぶ」「ながま・すに」の島建ての伝説に共通するのは、圧倒的な力を持った自然に人間が傷めつけられ、かろうじて命をつなぐという話である。「いぬがん」に至っては、自然と人間が並列ではあるが共存しはじめたということが、文脈から読みとることができる。

女と犬とは性的な交渉があったとみるべきである。犬がライバルである男を一人ずつ殺していったのだから、犬のほうから女にアプローチがあったとみるべきだおそらく犬は幸福だったが、女も同時に幸せであったとは書かれていない。ここには暴力による恐怖支配があったのかもしれない。

ここに小浜島の男が突然登場する。小浜島の男の漁師が、一人小舟で潮干狩りに出かけ、荒天にあって漂流したという。小浜島は石垣島と西表島の間にある小島で、船を自由自在にあやつる漁夫がいたということは、すでに文化的な生活をしていたということである。沖縄本島には中山王がいて、久米島から貢物が運ばれたというから、琉球王朝に属する島々にも文化の発達の程度にはばらつきがあったのである。それらの島々の中でも、与那国島はまったく自然のもとにあったということである。

与那国島に漂着した男は「いぬがん」にいき、女に会う。女はたいそうな美形であった。ここには猛犬がいて危険だから逃げるようにと、女は懸念にさとす。犬はちょうどどこかに出かけていたのだ。男は島を去ったふりをして木に登り、犬がやってきたところに銛をうつ。犬はなお向かってきたのだが、男は木から跳びおりて、蛮刀で切り殺した。

小浜島の男がこんなにも危険なことをしたのは、女が久米島美人だったからである。

粟一斗の値段の男

 

島へ島へと

粟一斗の値段の男

与那国島の族長ウニトラは、そもそもが宮古島の狩俣の生まれである。宮古島が飢餓になり、与那国島の商人がウニトラを十歳の時に粟一斗で買ったとされる。ほとんど奴隷同然の悲惨な暮らしをしてきたのである。

ウニトラは文武両道のすぐれた男に成長した。身長は緋一丈五寸あり、頭は三斗俵の大きさもあったと伝えられる。このような豪傑になり、力は強い上に頭もよい。このウニトラが成長するにおよんで、与那国与人は自分の支配力がおよばないことに危機意識を持ったのであった。

与那国与人は那覇の中山王府に対し、与那国島のウニトラという人物が反乱の意思ありと伝え、援軍を求めた。与那国与人とすれば狭い島ではほかに逃げ場所があるわけではなく、生命の危機を感じたのであろう。中山王府へ援軍の要請をすると同時に、西表島やその周辺の島の勇士にも呼びかけ、ウニトラとの戦さを仕掛けようとしたということである。それぞれの島には腕に覚えの勇者がいて、波照間島からウヤミシヤ・アカタナという男が呼びかけに応じて参じてきたということだ。

南海で反乱が起きようとしているという知らせに、中山王府の尚真王は宮古島の頭にウニトラを滅ぼすように命じた。宮古島の頭は仲宗根豊見親空広で、尚真王は特に彼に治金丸という御剣を貸し与えた。仲宗根豊見親空広は尚真王に恩義を感じ、兵を集めると、ただちにうにとらを討つべく海を渡っていった。この仲宗根豊見親空広は兵たちともに、四人の女神宮をしたがえていた。どのような行動をとったらよいかわからず、迷った時には、女神宮がト定(とじょう)によって決定していたのであろう。

この仲宗根豊見親空広のウニトラ征伐は、一五二二年、仲尾金盛がサンアイ・イソバを討つため与那国島に渡り、逆に撃退された年から数えて二十二年後のことである。与那国島ではサンアイ・イソバはもう亡くなってしまっていたかもしれないが、その後を継いだウニトラによって、英雄支配はつづいていつたのである。ウニトラは宮古島の狩俣の出身であるから、サンアイ・イソバとは血縁関係にない。島の族長は世襲ではなく、最もふさわしいものがなるという、原始共同体の美風が残っていたと考えるべきであろう。治金丸とたいそうな名前を持っている剣についても、いわれがある。ある時、宮古島平良の武太ガーと呼ばれる井戸には、夜毎物音がして光が発し、人々を大いに驚かしたという。宮古島の首長の仲宗根豊見親空広がこれを掘ると、刀がでてきた。仲宗根豊見親空広はこの刀を宝物として大切に保存していたのだが、赤蜂の乱と呼ばれる大規模な反乱がおこってそれを鎮圧した後、夫人宇津免嘉とともに那覇に去っていった。戦勝を中山王に報告するためである。よほど嬉しかったのに違いない。仲宗根豊見親空広と夫人宇津免嘉とは治金丸を中山王に献上し、今回中山王から再び下賜されたということである。南島の一族長との戦いという以上の意味が、ウニトラとの戦争にはあったのかもしれない。十六世紀のはじめこの時期、那覇の中山王朝にまつろわぬ人々の反乱がしばしば伝えられている。八重山の大浜村の族長赤蜂は、三年閑朝貢を断った。赤蜂はイリキヤ・アマリ宗というものを信仰していたが、この祭事が淫蕩なのでこれを禁じたとある。どのように淫蕩なのかは残念ながら資料がないのでわからない。赤蜂の反乱は、この信仰を弾圧したことへの反乱であった。

同時期、与那国には伝説の女族長サンアイ・イソバがいたのである。

原点に立つ

 

島へ島へと

原点に立つ

立場上の責任があるのだろうが、人間として誰が悪いというのではない。それぞれの立場で、みんな与那国島のことを考えているのだ。しかし、沖縄県の世論では、こんあに失業者が県内に多いのに、どうして県外の労働者をいれるのかと考えている人がある。与那国島では砂糖キビ畑で働いている援農隊が喉から手が出るほどに欲しいのだが、与那国農協がよかれと思った外への投資が、思いもかけず挫折をし、援農隊の受け入れが資金的に不可能な状況に追い込まれてしまった。

援農隊代表藤野浩之さんの著書「与那国島 サトウキビ刈り援農隊—私的回想の三十年」によれば、善意ではじめたことが、大変な困難に巻き込まれてしまったようだ。

混乱が混乱を呼び、石垣島の日刊紙「八重山毎日新聞」に「援農隊が与那国農協に百万円の損害賠償請求へ」という根拠のない記事がでた。もちろん藤野さんたちはそんな気持ちはなかった。またされるのではないかと地元では畏れていて、憶測がそんな記事を書かせたのであろう。実際藤野さんや黒田さん等援農舎をボランティアでははじめた人たちは、すでにたくさんの身銭を切っていた。出発を延期するよう与那国農協から電報が届いたのは、出発三日前であった。すでに家を出て、連絡をとれない人もいた。それで出発日に晴海埠頭にいき、事情を説明した。援農隊の労働期間はほぼ三カ月で、サラリーマンをしながら有給休暇で参加するというわけにはいかず、これに人生を賭ける人もいたはずである。つまり、人生の設計計画が狂ったということであった。援農隊の出発予定は一九七六年一月一日であった。与那国農協から出発延期要請の電報がはいったのは一月八日で、そこからめまぐすしい動きに巻き込まれた。そんな中で援農舎ではあっちこっちに連絡をとり、また手を差しのべてくれる人もあって、石垣島製糖や小浜島で受け入れてくれることになった。

藤野さんたちの決断で、一月三十日にとりあえず出発することになった。不確定要素もたくさんあったのだが、それ以上遅らせるとその年の操業には間に合わなくなる。また伊江島でも受け入れてもらえるようであった。あたふたしているところに、与那国島での製糖工場での操業が決定された。製糖工場が動かなければ、与那国島の主産業の農業は壊滅的な打撃を受けるのである。とにもかくにも援農隊は、予定より三週間遅れて出発することになった。全日空が正規料金の半額で乗せることを了承してくれた。船で行けば一週間はかかり、またまた遅れることになる。この時点で、自宅でじっと待機している人たちがいた。与那国島からの要請は八十人であったが、五十人がすぐに集まった。残りの三十人は、選考から漏れた人に再度連絡をとることにしたのである。

この記録を今読み返してみるて、私は藤野さんたちの与那国島への絶対的な愛情を感じるのである。昔から私は藤野さんの人なりをよく知っているのだが、この困難きわまりない状況の中で、原点を忘れなかったことはまことに立派であると思う。普通なら藤野さんたちは与那国農協に裏切られたのであり、ここで計画が終わっても仕方のないことだ。この点は大いに学ぶべきである。藤野さんは共同通信社に勤める新聞記者だ。彼は有給休暇をとり、援農隊の参加とともに沖縄に飛んだ。

初期の援農隊

 

島へ島へと

初期の援農隊

藤野浩之さん「与那国島サトウキビ援農隊ーー私的回想の三十年」(ニライ社)の記述に沿って、砂糖キビ狩り援農隊の初期段階を書こう。

韓国からの季節労働者受け入れは、事実上失敗したといえる。復帰特別措置では、一九七三年から七七年までの五年間受け入れることになっていた。しかし、二年が過ぎた時、藤野浩之さんと黒田勝弘さんの共同通信社会部の記者は、援農隊を組織することを決意し、与那国町と与那国農協に提案を行った。

砂糖キビ収穫期の四十日間与那国島で働く若者を、五十人から八十人ほど募集することを本土で呼びかける。受け入れ団体は与那国町と与那国農協で、日当に千五百円から三千円を支給する。四十日間すべて働いた人には、与那国と東京の往復船便二等席を支給する。滞在中、製糖工場の寮に宿泊する場合には宿泊費は無料にし、食費として一日五百円は本人の負担とする。農家に住み込んだ場合は、同様に一日五百円の食費を支払って、農家が三食を提供する。これは後に農家に住み込んだ私にも、思い当たる金額である。ただし私の個人的な都合で、行き帰りを援農隊として団体行動しなかったため、往復の船賃はもらっていない。もちろん当然のことなのである。

藤野さんと黒田さんの世話人はボランティアとしての位置づけで、渡航費用と滞在費を負担してもらうのだけで、一切報酬はない。この二人は、何と活動的なのだろうと思う。私はこの頃から共同通信社記者としての藤野さんと知り合い、彼のボランティアの話を聞いたはずだが、完全に理解していたとはいい難い。私が援農隊に参加したのは一九八O年のことで、その前年の一九七七年に援農隊の世話をする藤野さんと同行して与那国島に行った。その二年ほど前から心動かされていたはずで、藤野さんにすればはじめての提案から試行錯誤して、少しは落ち着いた時期になる。

提案をすると、島での反応はなかなかよさそうである。韓国から労働者を受け入れるよりも、経費はかなり安くてすむ。黒田さんが与那国島に飛び、さっそく農家に集まってもらい説明会を開いた。島として援農隊を受け入れることは賛成であるが、住み込みの農家という議論になると、手をあげる農家は一軒もなかった畑の動き手は必要であるが、見知らぬ他人を家の中に入れるのは嫌だといっているのだ。ここで藤野さんは朝鮮漂流任民が与那国島にきた時の話を思い出している。それは李氏朝鮮の「成宗実録」に出ているところである。池間栄三氏「与那国の歴史」には、比嘉春潮「沖縄の歴史」からの転載として、つぎの記事がある

「一四七七年(尚真王即位の年)、二月一日に朝鮮済州島の船が同島を出航して都に向かう途中、荒風に会って方向を失い、漂流十四日の後ろに一小島を発見、船を島に寄せようとしたら船がこわれて乗組員多数が轢死、わずかに三人が板にすがって流れているのを島民の漁船に発見されて救助された。この一小島が与那国島で、島民はさっそく浜に茅屋を急造して彼等を置き、まず食事を与え、それから、七日間はこの浜の小屋に置いた。たぶん漂流者に憑いた悪霊をはらうためであったろう」この事故から、藤野さんは島特有の心的現象を見る。怪我人を治癒し、食事を与え、親切に世話をしたといっても、浜に小屋を建てて集落の中にはいれなかったのである。漂流したのはたった三人だったが、この三人は見ず知らず者で、どんな厄災を島という閉鎖された共同体に運び込むかわからないのである。だから海岸というぎりぎりのところに留め置いたのだ。

島抜け伝説

 

島へ島へと

島抜け伝説

島は閉鎖された世界である。共同体の構成も濃密である。いわば息が詰まる世界なのだ。そんな世界が居心地がよいという人もいるのだろうが、それはそとの世界を知らないという要素も強いからであろう。

周囲を海で囲まれた島は、船がなければ外にでることもできない。船をつくるためには、森に木があり、造船のぎじゅっが必要だ。また操船をする技術もいり、未知の世界に入っていくという勇気もなければならない。

思いついたからといって、誰でも簡単に島を出ていくことができるというわけではないのである。泳いでいけば身体一つあればよいのだが、命懸けである。黒潮を泳ぎ切って別の島に行く体力と気力がある人は、そんなにいるとは思えない。しかしながら、たとえ孤島であっても現実が苦しければ、その現実から逃れたいという思いを抱くのは当然である。

与那国島には南与那国(ハイドゥナン)に渡ったという、島脱けの伝説がある。池間栄治氏「与那国の歴史」には、与那国島の口癖が記録されている。島の人たちはそれぞれに屋号を持っている。比川の浜川屋、兼盛屋、兼久屋、後間屋の人たちが、人頭税の苦しさから逃れるために、南方にあると信じられている楽土、南与那国に脱出したという。もちろん海上に楽土などないから、うまくいって台湾に上陸できた可能性もあるが、遭難して海に消えたと考えるのが無難であろう

「与那国の歴史」によると、一九O五年に編纂された「八重山年来記」には、波照間島の南には南波照間島という楽土があると信じられていて、平田村の四十五人の男女が船出したことが記録されているということだ。四十五名とは、離島にとっては大変な数字である。この事件により、波照間首里大屋子が免官になったと記録されているということである。人頭税をとられるほうが最も苦痛であろうが、とりたてるほうもそれなりの苦しみを得ていたということである。

池間栄治氏は「与那国の歴史」に次にように書く。「このように人頭税の苦難は他殺及び自殺を出し、或いは脱島逃亡者を出して、八重山かの人口は年年減っていった。「八重山年来記」によると、一六五一年八重山全体の納税者頭数は五二三五人で、その内与那国島はわずかに一二四人であった」

波照間島はより小さいにせよ、与那国島と似たり寄ったりであろうから、一つの村から四十五人も脱出するということは全体の率からすれば大変なことだ。役人が免官になるのも当然のことである。

今日、私たちは海の彼方に楽土などないと知っている。幸福がほしいのなら、遠くの海の向こうではなく、自分の踏みしめるこの土の上につくらなければならない。そんなことは、いくら十八世紀か十六世紀の人でも、当然のこととしてわかっているだろう。しかし、理想を願っても過酷な現実に押し潰されてしまう。逃げる場所はどこにもないのである。それならどうするか。楽土を求めて海の彼方に旅立ったという島脱けの伝説は、その楽土の存在を信じたくないのではなく、集団的な自殺だったのではないだろうか。絶望的な心理のうちの何割かは、もしかするという期待のあったのかもしれない。しかし、そんな夢のような期待よりも、現実のほうが遥かに過酷であったということだ。その苦しい現実から逃れる唯一の方法が、集団自殺であったのである。もしそうであったら、まことにいたましいといわなければならない。

沖縄へのラブレター

 

島へ島へと

沖縄へのラブレター

与那国農協は事実上倒産状態にあり、製糖工場を葬儀用資金はない。しかし、畑には砂糖キビが刈り取りを待つばかりに育っていって、時機を逃せば立ち枯れになる。倒産は農協ばかりではなく、個々の農家にもおよぶであろう。まさに土壇場まで来ているのに、援農隊は東京を出発できないでいた。苦労して準備してきた援農隊にとっても、我慢の限界にきていた。そこで藤野浩之さんは沖縄タイムスと琉球新報に「与那国島サトウキビ刈り援農隊アピール」を出す。藤野さんの著書「サトウキビ援農隊」より、そのアピールの内容を要約する。沖縄の離島では労働人口の極端な不足に苦しみ、本土では沖縄の風土と文化をもとに労働をして学ぼうという希望がある。沖縄県の失業率が高くなっていることも知らないわけではないが、援農隊を送ることは与那国島にとっても、現地での生活体験を望む人にとっても有意義のはずである。

与那国島農協との二年越しの話し合いの条件を示して本土で募集したところ、定員六倍の募集があり、そのうち八十人を選考した。この中には会社を辞めて参加を望んだ人もいる。出発予定日の三日前に、電報で与那国農協より出発延期の要請があった。援農隊ではとりあえず出発延期を決め、参加者に知らせた。アピール文は次のようにつづく。

「私たちは、今沖縄の人びとが抱えているさまざまな問題を少しでも共有したいと思います。私たちは単なるキビ刈り労働力としてだけ与那国島に出掛けて行くのではありません。援農隊の趣旨は、単なる観光旅行ではうかがい知ることのできない沖縄の現実を、生活と労働を共にすることで共有するということです。今回の与那国援農隊がそのきわめて有効な試みであると信じています。そして、さまざまな困難な問題を乗り越えて、今回の援農を成功させることが、沖縄と本土の新しいつながりの一歩となることを私たちは期待しています。」

一九七六年一月二十一日の日付があるから今から三十一年前に書かれた文章を読み、ウチナーとヤマトの距離を感じるとともに、その差が表面的に薄まり、ウチナーとヤマトもグローバルスタンダードの荒波にもまれたことを私は感じるのである。苦しい条件の含めて与那国島はどこまでも与那国島であり、ウチナーはウチナーで、ヤマトはヤマトであった。その文化の差異を感じることが、旅の深い楽しみであった。差異を感じたなら、自分たちが身に帯びている風土や文化への客観的な視座を持つことができる。

このアピール文は藤野さんによるラブレターなのだと私には思える。恋する相手は、正確な情報がないのでよくわからないのだが、自分の気持ちはまったく変わっていないと呼びかけている。恋人を案じる気持ちが、今からではいじらしいような感じがする。私は同じ時間の中でこのアピール文に接したのではないが、同じ気持ちを持っていた。「沖縄の現実を生活と労働を共にすることで共有する」という問題意識である。若い私たちは砂糖キビ畑でともに汗を流すことが可能でこの方法が沖縄の真相に触れるのに最も有効で手っ取り早い方法だと思えた。私も藤野さんとじかに話して共鳴するところが多く、そのアピールから四年後の一九八O年に援農隊に参加している。

この真情あふれるアピールが沖縄の新聞に載ると、さっそく大きな反響があった。

 

闇のドル買い

 

島へ島へと

闇のドル買い

アルバイトをしてコツコツ貯めた所持金はもともと少なく、それをできるだけ有効に使いたい。そう考えるのは、旅人の常識である。安いというここと、心が踊るということが、よい旅をしているかどうかのバロメーターだ。私が当時していた旅は、安いところが最善だったといえる。

私は日本円を持っていて、沖縄ではドルでなければ使えない。両替をしなければならないので、ここに隙間ができる。当時私は隙間で生きていたといえる。最初は必要な分だけ東京の銀行で円をドルに替えていったが、やがて沖縄で両替したほうが有利なのだと気づいた。闇ドル買いである。

市場通りと国際通りが交差する那覇の繁華街の中心あたりにブラックチェンジの場所があった。周りは人間が多くて、白昼堂々と何をしているかみんな分かっていた。通りすがりの人に「お金の両替所はどこですか?」と尋ねると、その場を必ず教えてくれた。教えるほうも教えられるほうもコソコソした気分はなく、交番の場所を話しているような感じだったのである。

那覇最大の大通りの市場通りと交わるほんの小さな広場になったような所に、ワンピースを着たアンマー(叔母さん)たちがたむろしていた。アンマーなら誰でも着ている安物の普段着に必ず手さげ袋を持っていた。その中には商売道具の現金と計算機が入っているのだ。「兄さん、しないねー」何気ないふりをして前を通のだが、必ず私はアンマーに声をかけられる。心の中を読まれているのだ。ゴム草履にTシャツにジーパンで沖縄の人たちと全く同じ服装をし、私のような顔たちをした男もいるはずなのに、いとも簡単に見破られる。一言でも交わそうものなら、もう絶対に逃げられない。偽るつもりはないにせよ、どのようにしても私はヤマトンチューなのだ。アンマーにしてみれば、ポケットの円を米ドルに両替したがっているヤマトンチューなのである。私にしたら、1ドルをいくらで売ってもらえるのかというのがただ問題である。公定レートでは1ドルは360円の固定であった。「355円」尋ねもしないのに、アンマーは1人で呟くようにして言う。「高いよ」こう言って私は隣のアンマーにレートを尋ねる。「355円」みんな同じである。いつも同じ場所で高売りをしているのだから、協定をしているのであろう。私はいわれた通りのレートで20ドル替え、100円儲けるこの100円が貴重なのである。