純喫茶の純情、奄美の純情。

 

うちなー的沖縄

純喫茶の純情、奄美の純情。

二十数年前の「純喫茶」の話に戻す。やや薄暗い「純喫茶」で友人三人がヌルン・トゥルンをしていた。つまり、だらけてボーっとしていた。そこへマスターがやってきて「いい若者が昼間からなんだ君たちは」とばかりに説教を食らってしまった。確かに我々は弛緩剤を打たれてしまったように身体中の筋肉が伸びきっていた。おそらく朝方まで遊んでの昼間だったのだろう。金を払ってまで説教をされるのも嫌だしと店を出た。それから二、三日して新聞でとんでもない記事が目に飛び込んできた。説教マスターが、十八歳未満の少女を店で働かせていたという青少年児童福祉法違反かなんかで逮捕とあった。

いまは家庭でも本格的なコーヒーが飲めるようになったが、以前は違った。カウンターに掛けて、目の前で香り立つコーヒーに憧れてさえいた。あの頃のコーヒーといえばインスタントのネスカフェが定番であった。六月のワールドカップで韓国対スペイン戦があり光州に行った。街頭での異様なほどの応援ぶりを見ていた。(正確には録音していた)。それにも疲れたので休む場所を探していたが、そこには素敵なカフェがあって、私に「オイデ、オイデ」していた。料金は意外と高かったが、インテリア、そしてなにより坐り心地のよさそうな椅子が私に坐って欲しいと言う。

メニューをみるのは単なる隋性であって即座にいつでもアイスコーヒーを注文する。一口飲んで小泉総理大臣以上に感動した。出されたアイスコーヒーは紛れもなくネスカフェ、それもあの懐かしいインスタントであった。高い料金とはアンバランスの中身ではあったが、久しぶりということも手伝って感動したのである。今の仕事に就いたころによく飲んだ味だ。マイカップにインスタントコーヒーと砂糖をあらかじめ入れ、それに少々のお湯を入れてかき混ぜるとアイスコーヒーが完成した。

そういう飲み方をしていた。

奄美大島に尊敬する知人がいる。

いまは元ちとせのこともあって奄美ブームなのだが、その奄美を代表とする唄者で、名瀬では何回かご自宅に泊めていただいたこともある。一度は、急いで那覇空港で土産のチンスコーを買って、「すいません、急いでいて、これしかなくて」と差し出した。帰る段になって、「これしかありませんが」と私への土産ということで差し出してきたのが大島紬の一反であった。チンスコーと大島紬、これはあまりにもバランスが悪い。いまも宝物としてタンスの奥深くしまい込んである。

その奄美の知人が那覇へ来て、我が家に泊まることになった。大島紬の一件があるから、総戦力で迎える必要があった。とはいってもそれほどのもてなしが出来るわけではない。そこで、当時は国際通り近くに住んでいたので夕食後に喫茶店に行くことにした。喫茶店に入るのは初めてだとおっしゃる。真面目一筋、島唄一筋に方であり、お茶なら家で十分だといい、喫茶店など眼中にはないのだ。それでも連れてって店へ入った。私はいつも通りのアイスコーヒーを注文した。「それじゃ私も」ということで二人分注文した。これは基本的なことなのだが、アイスコーヒー二人分と、それにミルクシロップが入った器が運ばれてくる。甘さ控えめの私はミルクだけ入れた。客人は同じようにミルクを入れ、次にシロップをたっぷり目に入れる。そしてお互いはストローでチューチュー飲んだ。そこまではよかった。「おやっ、甘さが足りないのかな。」と思った。客人はシロップを継ぎ足し、少し飲む。飲んでは再びシロップ、また飲んではシロップを継ぎ足す。唖然とするこちらを無視するかのように、とうとう全てのシロップをアイスコーヒーに入れてしまったのである。シロップコーヒーであった。「甘すぎませんか」と訊いたときには時すでに遅しであった。客人は、残しては失礼であると考えたのである。

せっかく出されたものは全て入れるべきだと考えたようである。それほどまでに純情な方だった。これは、我が家では「シロップ事件」として、いまなお語り継がれている。

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純喫茶の純情、奄美の純情。-2

 

うちなー的沖縄

純喫茶の純情、奄美の純情。-2

二十数年前の「純喫茶」の話に戻す。やや薄暗い「純喫茶」で友人三人がヌルン・トゥルンをしていた。つまり、だらけてボーっとしていた。そこへマスターがやってきて「いい若者が昼間からなんだ君たちは」とばかりに説教を食らってしまった。確かに我々は弛緩剤を打たれてしまったように身体中の筋肉が伸びきっていた。おそらく朝方まで遊んでの昼間だったのだろう。金を払ってまで説教をされるのも嫌だしと店を出た。それから二、三日して新聞でとんでもない記事が目に飛び込んできた。説教マスターが、十八歳未満の少女を店で働かせていたという青少年児童福祉法違反かなんかで逮捕とあった。

いまは家庭でも本格的なコーヒーが飲めるようになったが、以前は違った。カウンターに掛けて、目の前で香り立つコーヒーに憧れてさえいた。あの頃のコーヒーといえばインスタントのネスカフェが定番であった。六月のワールドカップで韓国対スペイン戦があり光州に行った。街頭での異様なほどの応援ぶりを見ていた。(正確には録音していた)。それにも疲れたので休む場所を探していたが、そこには素敵なカフェがあって、私に「オイデ、オイデ」していた。料金は意外と高かったが、インテリア、そしてなにより坐り心地のよさそうな椅子が私に坐って欲しいと言う。

メニューをみるのは単なる隋性であって即座にいつでもアイスコーヒーを注文する。一口飲んで小泉総理大臣以上に感動した。出されたアイスコーヒーは紛れもなくネスカフェ、それもあの懐かしいインスタントであった。高い料金とはアンバランスの中身ではあったが、久しぶりということも手伝って感動したのである。今の仕事に就いたころによく飲んだ味だ。マイカップにインスタントコーヒーと砂糖をあらかじめ入れ、それに少々のお湯を入れてかき混ぜるとアイスコーヒーが完成した。

そういう飲み方をしていた。

奄美大島に尊敬する知人がいる。

いまは元ちとせのこともあって奄美ブームなのだが、その奄美を代表とする唄者で、名瀬では何回かご自宅に泊めていただいたこともある。一度は、急いで那覇空港で土産のチンスコーを買って、「すいません、急いでいて、これしかなくて」と差し出した。帰る段になって、「これしかありませんが」と私への土産ということで差し出してきたのが大島紬の一反であった。チンスコーと大島紬、これはあまりにもバランスが悪い。いまも宝物としてタンスの奥深くしまい込んである。

その奄美の知人が那覇へ来て、我が家に泊まることになった。大島紬の一件があるから、総戦力で迎える必要があった。とはいってもそれほどのもてなしが出来るわけではない。そこで、当時は国際通り近くに住んでいたので夕食後に喫茶店に行くことにした。喫茶店に入るのは初めてだとおっしゃる。真面目一筋、島唄一筋に方であり、お茶なら家で十分だといい、喫茶店など眼中にはないのだ。それでも連れてって店へ入った。私はいつも通りのアイスコーヒーを注文した。「それじゃ私も」ということで二人分注文した。これは基本的なことなのだが、アイスコーヒー二人分と、それにミルクシロップが入った器が運ばれてくる。甘さ控えめの私はミルクだけ入れた。客人は同じようにミルクを入れ、次にシロップをたっぷり目に入れる。そしてお互いはストローでチューチュー飲んだ。そこまではよかった。「おやっ、甘さが足りないのかな。」と思った。客人はシロップを継ぎ足し、少し飲む。飲んでは再びシロップ、また飲んではシロップを継ぎ足す。唖然とするこちらを無視するかのように、とうとう全てのシロップをアイスコーヒーに入れてしまったのである。シロップコーヒーであった。「甘すぎませんか」と訊いたときには時すでに遅しであった。客人は、残しては失礼であると考えたのである。

せっかく出されたものは全て入れるべきだと考えたようである。それほどまでに純情な方だった。これは、我が家では「シロップ事件」として、いまなお語り継がれている。

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どうなん・ちま

 

島へ島へと

どうなん・ちま

与那国島のことを「どうなん・ちま」という。「与那国の歴史」で池間栄三氏は次のように記述する。

「琉球の旧記である『指南広義』(程順則著)や『中山伝信録』(徐保光著)には、『由那姑尼』と書いてある。現在用いてる『与那国』は慶長の検地から書き始まったもので、伊地知李安著『西藩田祖考』の中に見えている。」

「どうなん」とは、「渡難」からきて絶海の孤島であるため渡海が難儀であったからこの言葉をあてたのだと、長いこと私は思っていた。しかし、そう単純ではなさそうである。南からやってきた男が、海に盛り上がっている「どぅに(土根)」を見つけたという島建ての伝説から生まれたという説がある。船四隻を与那国では「どうなん」と数えたそうで、小浜島からやってきた「いぬがん」の犬退治をした男は、一人ではなくて四隻の船に分乗してきたという説もある。

あおい科に属するオオハマボウは、沖縄の海岸のいたるところに自生している奢木である。オオハマボウの別名は、ゆうなという。この「ゆうな」から転化して、「どうなん」になったという説が最も有力ではないかと、池間氏は説く。

渡るのに難儀であった「どうなん・ちま」も、宮古島に支配され、中山王朝に支配され、やがて薩摩藩による苛酷な人頭税が課せられる。この税制によって、与那国に生まれた伝説はあまりにも有名だ。

「トゥング・ダ」は島の中央部にある一ヘクタールばかりの天水田で、そばにいってみてもごく平凡な田んぼである。伝えられるところによると、ある時突然鳴り物を鳴らし、十五歳から五十歳までの村中の男を集める。一定の時間内に指定された田んぼにはいることのできなかった男は、殺されたという。非常召集に応じられない場合とは、たとえば酒を飲みすぎて酔っていたとか、身体障碍者だとか、重病にふせっていたとか、いろいろなことが考えられる。つまり、村にとっては有能な働き手ではない人が、人口調整をされたのである。人頭税はただ頭割りで重税が課せられたから、税を支払うことのできない人は、他の島人の負担となったのである。

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どうなん・ちま-2

 

島へ島へと

どうなん・ちま-2

「トゥング・ダ」は人舛田と書く。まさに人間は舛ではからかわれるような存在であったのである。

もう一つの伝説は「クラブ・バリ」である。久部良港の東側の海岸は岩出形成されている。その岩に割れ目があり、幅はおよそ三メートル、深さは七メートル近くある。妊婦をここで飛ばせ、飛ぶことができなければ落ちて死んだ。たとえ飛べても、心労のあまり流産したという。もちろんこれは弱い人間を淘汰する人口調整機能である。

「クラブ・バリ」の裂け目は、海底に今もあり、観光名所になっている。三メートル幅は微妙である。立ち幅跳びでは飛べず、助走をつけるのにもまわりはでこぼこだ。私もふざけて飛ぼうとしたのだが、足がすくんでしまう。

「トゥング・ダ」と「クラブ・バリ」も、実際におこなわれたのではなく、伝説にすぎないのかもしれない。そうではあっても、こんな物語が現実味を持っているのである。

この現実の裏返しとして、海の彼方に楽土を見た人々がいた。海の向こうに「ハイ・ドゥナン(南与那国)」という理想郷があり、比川の人が船で旅立ったという伝説も伝わっている。もちろんその人々には、苛酷な現実がいつまでも追ってきたのであろう。

「ハイ・ドゥナン」は沖縄では「ニライ・カナイ」と呼ばれている。

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