ヌードダンサー

 

島へ島へと

ヌードダンサー

表の看板には「ビアホール清水港」と書いてあったのだが、あくまでもこれは表面上のことで、みんなはなんと呼んでいたのかわからない。アメリカ軍の兵士の若者たちにはいくべきところができ、沖縄のホステスたちにはしゅうにゅうがとれる働く口が生まれた。みんなに喜ばれていたはずだが、アウトローはアウトローで警察の取り締まりには気をつけなければならなかった。
警察は知っていながら、それはそれで社会の秩序を守るためには必要だとして、お目こぼしにあずかったのかどうか、私にはわからない。波之上のナイトクラブに働くホステスが知っているのだから、その歓楽街でも結構有名で、「ビアホール清水港」のすぐ前に交番を持っている警察がまったく情報をつかんでいないとは考えにくい。
また、同じような営業をしてる店がほかにもあるかどうか、私にはわからない。
私はただの旅人にすぎなくて、自分の仕事場だけで充分な驚きがあったのだ。
Aサインバーは簡単には数えられないほど多くあったし、ホステスも何百人かもしくは千人は越す数はいただろうから、それらの人が就業と同時に暗い街のどこかに吸い込まれるように消えてしまったのは、謎といえば謎だった。
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ヌードダンサー・-2

 

島へ島へと

ヌードダンサー・-2

「ビアホール清水港」を示す暗号みたいな別のいい方もあったのかもしれない。だがそれは、ビアホールの中にいれば必要はないわけだ。私は同じところにて
いろんな人は入ってきたり出て行ったりするのを、ただ見送っていたのである
ある夜、狭くて暗い通路をウィスキーコークのグラスをのせた盆を持って通ろうとすると、全裸の女が立っていたのでぎょっとしたことがあった。何があっても不思議はないところなのだが、正直、それには驚いた。
やがて、ジュークボックスの曲が変わる。すると、いきなり女は裸足のまま踊り出したのだ。女は自分の曲がはまるのを待っていたのである。それまでは無防備でただ立っていたのに、両肩から長いショールの両端をたらし、それで前を隠しながら、腰をひねって客席の間を踊っていたのだ。二曲が終わると、女はコートを羽織り、通路にそろえてあった靴をはいて外に飛び出していった。ヌードダンサーのかけ持ちをしているのだ。ということは、ほかにもこんな秘密クラブがあるということである。しかも、服をいちいち着たりするひまもないくらいの数の秘密クラブを回っているということだ。もちろん簡単には所在が分からないからこそ、秘密クラブというのである。外は琉球警察とアメリカ軍のMPが二人組になってたえず巡回していた。MPは必ず白人と黒人がコンビを組んでいた。人種問題のからみがあっても、どちらかが対処できる。「ビアホール清水港」にとっては、MPよりも琉球警察のほうが問題だった。もともとアメリカ軍指定のAサインの指定はないのだから、店自体は軍からの罰則はないのだ。
私は店内でボーイをし、時にはカウンターの中にはいってバーテンをし、また時には交代で外の見張りをした。ただ立っているのでは余計目立つから、そこにいるのも難しかった。警察かMPがくると、植木鉢のかげに隠してあるスイッチを切る。ジュークボックスの電源が止まるようになっているのだ。その瞬間、店内は水を打ったようにしずまり返る。それがおもしろくて、何度かただスイッチを切ったりした。

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龍とツワブキ

 

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龍とツワブキ

龍が青く澄み切った沖縄の天空にうねるように舞う。糸数城は沖縄本島南部玉城村は沖縄本島南部玉城村糸数集落の東側に位置し、標高180メートル前後の琉球石灰岩の丘上にあります。沖縄のグスクの中でも群を抜く城構え・城壁を持つ城です。築城年代は明らかではありませんが、伝承によると城の東方ににある玉城城の城主・玉城按司の三男・糸数按司によって築かれたとされています。城内及び周辺からは海外交易を物語る中国の古銭、青磁器片、白磁器片、鉄製武具、玉等が出土しており城の構築年代は三山(北山、中山、南山)時代の初期である14世紀頃と推測されています。
城は国指定の史跡で約2万坪もあり、首里城、今帰仁城に次ぐ3番目の規模を誇り、中城、勝連城の2倍近くあります。また指呼の距離にある、とうほうにこんもりと見える玉城城跡とは同じ台地上にあり、連携をとりながら当地を治めていたことも類推できます。
糸数城を特徴づける龍がうねるような城壁には、野面積みと切石積みの両方が用いられ、最も高い所は6メートルほどの切り石積みになっています。城の縄張りはいくつかの郭(曲輪)をもっています。西側から南側は切り立った断崖を利用しその上に低い野面積みの石垣をめぐらし、東側から西側にかけての平地に連絡する部分には高い切り石の石垣を築いています。

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龍とツワブキー2

 

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龍とツワブキー2

東に精緻な切石積みがすばらしい大手門である櫓門、北には那覇・首里をはじめ慶良間諸島、勝連城のある勝連半島を見通せる「二シ(北)ノアザナ」、南は玉城の平野部と具志頭を越えて拡がる太平洋を一望可能な「フェー(南)ノアザナ」と称する見張り台を兼ねた櫓台を備えています。城内にはいると琉球石灰岩の奇岩と木々が鬱蒼とした新緑の高まりを作っており、その中に糸数按司の墓と祠がピーンと張り詰められた静寂な神的世界を醸し出しています。
16世紀から17世紀にかけて首里王府が編纂した沖縄最古の古謡「おもろそうし」の中に糸数城が詠まれています。「せしきよ、かなくすく、世かる、かなくすく、玉よせ、くすく、たまくす、まくに(第18巻1280)」巧みで頑丈な城、立派で堅固な城、玉や宝の寄せ満つる城、按司の世こそは 永久に幸あれ 又 糸数の根国、玉城真国と城下が繁栄と栄華を極め、アジア各地からの帆船・人が往きかう風景が脳裏に浮かんできます。
ツワブキの黄色い花としっかりとした緑の葉。足下には切り取られた琉球石灰岩の飛び石のような道が城中央に続いています。
漢の時代、近郊の錫鉱山が掘り尽くされ、それ以来「無錫」と呼ばれるようになった中国有数の工業都市の一角に天下第二の泉がある錫恵公園があります。
公演の中の壁は龍を模し山を背にうごめいています。よく見ると北京故宮の龍の指(5本)と違い沖縄の首里城の龍と同じ4本の指を持っています。そんな悠久
中国の影響を受けた糸数城の城壁が玉を追う龍舞いの動きを見せ、私の心の中に快い風を贈ってくれます。永久の世に居るような、まるで愛する子供を守ってくれているかのようなたおやかな曲線を描く龍壁とツワブキの花の香り。糸数城の龍が追い求める玉はきっと虹色に輝く沖縄の美ら海ではないのか・・・・・・。
美ら海がきらきらと輝いています。

 

石垣の一夜。

 

島へ島へと

石垣の一夜

石垣市は那覇とは違って規模が小さい。歩いていて親しみの持てるところであった。私がいった頃は、登野城には漁港があって漁船がならび、今の離島へのフェリー乗り場の背後は埋め立てて工事中だった。大きなパイプで海底から砂を吸い上げるので、平らな地面には貝殻がいくらでも散らばっていた。
建物のないがらんとした空地が、海岸の一帯にひろがっていた。広い割に誰もいないので、私はそこで野宿をすることにした。寝袋を持っていたから、雨さえ降らなければどこでも寝れることができる。そう思っていた。ところがあまりに広いので横になってもなぜか落ちつかない。下は砂地で清潔で、申し分のない寝所だったはずだ。
私は街のほうにいって段ボールを拾ってきて、小さな家をつくった。最近よく見かけるホームレスの家と同じだ。そうやって狭いところにはいると、落ち着くのであった。寝るために気持ちを集中させるには、漠然と広いところにいては駄目である。
ところが、もうひとつ問題があった。野犬がそのへんを走れまわっているのだ。
三匹四匹と群れになっている野犬は、起きているとそばにやってこないが、こちらが横になっていて安全だと判断すると、意外なほど近くにやってくる。駆け足音が、近づいては遠ざかっていったりする。今にも襲いかかられそうで、段ボールの壁があるから野犬の姿は見えないのではあるが、目が冴えて寝るどころではなくなった。
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石垣の一夜-2

 

島へ島へと

石垣の一夜-2

仕方なくて、街のほうに移動する。すでに夜遅いから、どこでも眠れるというわけではない。そこで寺に行った。石垣市には古刹があった。
南海山桃林寺は慶長十九(一六一四)年創建の、八重山で最初の仏教寺院である。慶長十四(一六0九)年に琉球に八重山の測量をおこない、社寺の建立を国王に進言した。そこで建てられたのが桃林寺と、その隣の権現堂だ。天明七(一七八七)年に再建された権現堂は、八重山に現存する最古の建物で、重要文化財に指定されている。
桃林寺の仁王像のある山門をくぐり、本堂にいく。本堂は尾根の庇が広くて縁側があり、そこに寝袋を置けば充分に一夜の宿りとなる。ところが先にすでに客がいた。私と同じような旅行者が三人先に寝ていたので、私は一番外側に寝袋をひろげていた。
少し寝たところで、雨が降ってきた。そのために本堂の奥の方に上がった。
あまりに奥までいかなければ失礼なので、半分は雨に濡れそうなところに控えめにいた。そうこうしてるうちに、庫裏のほうから人がやってくる影が見えた。近づくと、寺の奥さんである。私は怒られ、どこかにまた移動しなければならないのではないかと覚悟した。
「そこで何をしてるんですか」
奥さんは強い声でいう。
「すいません。ちょっと寝かせてもらっています」
私やその場にいたほかの三人は恐る恐る返事をする。
「そんなところで寝たら風邪をひくでしょ。もっと奥の方にはいりなさい」
奥さんはこういってくれたのである。本堂の奥の縁側に、私たちはごそごそと移動した。おかげで濡れることなく一晩過ごすことができた。
沖縄が本土に復帰する前まで、旅行者がまだ珍しい頃の話である。

妻には気を許すな

 

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妻には気を許すな

久米島から琉球中山王への朝貢船が難破し、与那国島に漂着した。船に乗っていた犬が男たちを一人残らず喰い殺し、最後に女と犬とが残った。その犬も子は名島からやってきた男に殺された。与那国島に伝わる「いぬがん」の話は、池間栄造氏の「与那国島の歴史」に採録されている。久米島や小浜島が船をつくり操って海を越えるほどに、文化的であったことを示している。一方、与那国島はそれまで人に飼われていた犬が生き生きと甦り、それまでの主人を喰い殺すほどに、野生の世界だったのである。琉球の離島文化の発展度は、多様であったことを示している。
故花島の男にこんなにも勇敢な行動をとらせたのは、久米島の女が類まれな美人であったからだ。男は犬退治の武勇伝を得意になって話したことでしょう。女は犬と情をかわしていた。暴力的な支配があったのだとしても、なにがしかの思いはあったはずである。女は犬をどこに埋めたかと聞いた。何かを感じたのか、男はその場所を語らなかった。女とすれば、この圧倒的な自然の中で男にすがらなければ生きていけなかったのである。女は男と夫婦となり、五男二女を産んだ。
海にいけばいくらでも魚はいたし、浜にはまるで石ころのように貝が転がっていたであろう。山にはいれば、木の実や草が好きなように採れたはずである。圧倒的な強さの自然の中では、男と女が一体となって生きるのが自然であった。二人は幸福な暮らしを送っていた。

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妻には気を許すな-2

 

島へ島へと

妻には気を許すな-2

女には男に隠していた世界があったように、男にも男にも語れないもう一つの世界があった。男には小浜島に残してきた妻がいたのだ。男は故郷の島と妻に向かってのノスタルジーが湧き上がってきたのであった。女がとめるのも聞かず、男はとうとう小浜島に帰った。
海で遭難したのか行方不明になっていたと思われていた男が突然帰ってきたために、小浜島の人たちは驚き喜んだ。長い歳月を悲しみとともに生きてきた妻は、すっかり年をとっていたのだが、ことに喜んで涙を流した。
二つの世界でまったく別の妻を持ち、二つの世界を交通する話の原型は、浦島伝説である。現実の生活が苦しいために、人は海の彼方や山の向こうにもう一つの世界を幻視したのである。沖縄ではニライカナイといい、奄美ではネリヤカナヤという理想郷も、その一つであろう。海の彼方の理想郷はたいてい幻燈機のように裏返しに映り、苦の生活は消える。貧しい独身男の浦島太郎のいった龍宮城は、恋があり生活の先輩はなく、時の流れさえも忘れる理想郷であったのだ。
だがこの小浜島の男の場合は、現実から理想郷へと交通をしたのではない。ただ現実から現実へと移動したのである。これはこの伝説が後年の人によって観念操作されたのではなく、原初の型のままのこされているからであろう。ニライカナイ伝説が生まれる以前の話ではないかと思われる。
人間というのはどうしようもない生き物である小浜島の男は今度は与那国島へのノスタルジーを覚えてしまった。小浜島の妻は男が与那国島にいくのを許さなかったが、男は操船という文化を持った存在であったので、逃げ出していった。与那国島にはもう一人の妻が待っていた。七人も子供をつくったので安心した男は、ある夜妻に犬が埋めてある場所を話した。その夜のうちに女の姿が見えなくなった。怪しんだ男がその場にいってみると、女は犬の骨を抱いて死んでいた。このことから与那国島では、子どもを七人産んでも妻には気を許すなというのだそうである。この子供たちから与那国島は栄えてきたという。

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水泥棒

 

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水泥棒

大嵩のオジーが泡盛を飲んでいつも通り早く床につき、私もそろそろ寝ようかと思っている頃に、電話がはいった。おばーは電話口で少し話してから、おじーを起こしてきた。はじめは半分は眠っていたおじーは、受話器を置くと妙にしゃっきっとして私にいった。
「これから田んぼにいく。水が盗まれているらしい」それからのおじーの働きは早かった。すぐに納屋のほうにいって野良着に着換え、私も負けないように準備をした。鎌や斧など一セットを荷台にほうり込み、一トントラックのハンドルは私が持った。
祖内の街は暗かった。夜の十時頃なのだが、砂糖キビ刈りの季節なのでみんな寝静まっている。ヘットライトが当たると、珊瑚礁石灰岩の垣根が燃え上がるように見える。静かな集落の中で、エンジン音がやかましく感じられた。夜になるとあっちこっちの家こっちの家と泡盛を飲んでまわるにせよ、集落内は歩いていけるので、こんなに遅い時刻に車を運転したことはなかった。
その年は雨が足りず、旱魃気味で、砂糖キビも細かった。重量が思ったように出なかったのである。雨不足の一番の問題は田んぼに水がないために、田植えができないことであった。与那国は小さな島なので灌漑施設が充分ではなく、田んぼは天水頼みであった。朝起きて、晴れ渡った青空をあおいでは、溜息をついてきたのだ。
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水泥棒-2

 

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水泥棒-2

田んぼにたまっている水は、一滴も洩らさない。水の出口は泥でしっかり固め、水の洩れる穴がないようにと、畔にはていねいに泥を塗っていた。昼間見たおじーの田んぼは底の泥が部分的に干上がっていて、すべてがまんえんなく田植えできる状態からほど遠かった。どの田んぼの似たようなもので、みんなひたすら雨を待つより仕方がなかった。私は右だ左だおじーの指示どおりに、ハンドルを回した。ヘットライトが黄色い光の棒になって、暗闇に突き立っている。トラックのディーゼルエンジンはやかましくて、まるでおじーの心の中を現わしているかのようだった。助手席にいるおじーは、まるで一人言のように話しはじめた。
「昔は道路も道もないし、トラックもなかったから、馬に乗ってきたんだ。田んぼは大事だったからよー、田植えだ稲刈りだというと、田んぼに泊まったもんだよー。空を見ながら草の上に寝ていると、星がいっぱいさー」
ヘットライトの光の中に視線をこらしながらおじーの声を聴き、私はしみじみとした気分になっていった。田んぼは大切だ。だから田んぼの水が抜かれていると連絡がはいった時、たとえ酔っぱらって眠っていても、おじーは跳び起きたのだそれからおじーは、もっとしみじみとした声では話しづけたのであった。
「田んぼに泊まれる時はよー、イモと泡盛を持っていってよー。イモを焼いて食べたさー。米を食べるようになったのは、ずっと後さー。明るくなって目が覚めると、すぐに働いてよー」その情景が、私には目に見えるようだった。イモとはサツマイモのことだった。おじーは改めていったわけではないのだが、米はうまいとの思いが私にも伝わってきた。だからどんな時代になっても、田んぼは大切な宝だ。宝なら守らなくてはならない。
「そこの田んぼだ」
おじーにいわれ、私はトラックを止めた。エンジンを切ると、静寂が染みてきた運転席から降りた私は、柔らかな風に包まれている。空には降るほどに星があり今夜も雨は降りそうもない。