砂糖キビ史-2

 

島へ島へと

砂糖キビ史-2

やがて八重山では各島ごとに製糖工場がつくられていった。水牛と鉄鍋による生産ではとても間に合わなくなってきたのである。
与那国島に読谷山種がもたらされたのは、明治二十年と考えられている。明治二十五(一八九二)年には一町歩作付けされ、三五四キロの砂糖を生産した。大正時代には石車の製糖所は二十六箇所あったとされる。八重山全体の三分の一で、狭い与那国島のいたるところに製糖場が作られたことを意味する。他の目立った産業がないので、単一作物が一気に広がっていったのだ。これが離島の産業基盤の弱りところである。島のこの産業基盤が、後に援農隊がさまようことになった与那国町農協破産事件の遠因なのである。
与那国島の砂糖キビ生産量は、昭和三十九(一九六四)年までは年間五千トンを超えるくらいだったが、その後はどんどん増えていった。昭和四十三(一九六八)年には史上で最高の二万三三六0トンとなり、まさに絶頂をむかえたのだが、その後どんどん落ち込んでいった。昭和四十七(一九七二)年には五五00トンに戻ってしまった。逆風が吹いてきたのである。
生産量が加速度的に増えようとしていた昭和三十五(一九六0)年、離島の夢を乗せて製糖企業の誘致が計画され、与那国製糖株式会社が設立された。実際に製糖がはじまったのはその二年後であり、処理能力の一日二百万トンという高性能であった。つまり砂糖キビをたくさん植えつけて収穫しなければ、製糖工場は採算割れを引き起こす。どうにかして生産量を確保しなければならないことになったのである。
その頃からすでに与那国島では過疎化が進行し、労働力不足が深刻になっていた。沖縄では与那国島ではじめて外国人労働者の受け入れが検討され、昭和四十二(一九六七)年に台湾から四十八人がやってきた。しかし、この五年後の昭和(一九七二)年に日中国交回復が行われ、台湾とは国交断絶となって季節労働者はやってくることができなくなったのだ。

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