サンアイ・イソバ-2

 

島へ島へと

サンアイ・イソバ-2

荒れ地を開拓して新田を開き、牛を飼い、四人の兄弟を按司にして四つの村を支配していたという。このように行政の手腕があったばかりではなく、実際に腕力があり、人の上に君臨する才能があった。腕力とは、人に暴力を向ける暴力ではなく、働く力なのだ。イソバはサンアイ村を七頭の牛をひきいて夜明け前に出発し、海辺の村で芋を収穫して七頭の牛の背中に積み、途中で牧場に寄って牛の水飲み場の池さらいをし、明るいうちにサンアイ村に戻ったという生産性の高い働き者であった。暴力によって専制君主的に村に君臨していたのではなく、自ら範をたれることによって、尊敬を集め村を束ねていた。
池間栄造氏は、およそ西暦一五〇〇年頃のことではないかと推察されている。時代区分としては中世なのではあるが、サンアイ・イソバの物語はまるで古代のようなものだ。島に土地はあったのだが、問題は水で、耕作のためばかりではなく人間の飲料のためにも水の確保は第一であった。ことに島の中央部のサンアイ・イソバ村は、天水が頼りである。ということは天候に左右され、神を司ることが重要とされた。そのような時代に人々を支配したサンアイ・イソバは、常人を超えた女性ということから、祝女の一種であったかもしれない。実際のところ沖縄の宿女は、多くが専業ということではない。祭事があったり何か必要があった時に、神と交通することができる祝女としての役割を果たすのである。普段は畑で働く農夫であったり、漁師の女房だったりする。
水の不安のある島の中央部の高台に村をつったのには、理由がある。毎日通う畑にすぐにいけ、海岸付近はつねに外敵に襲われる危険があったからである。海賊はしばしばやってきて、村を襲ったということだ。村の中央部に海賊を引きつければ、帰るための船からも遠くなり、撃退しやすくなる。ましてサンアイ・イソバのような豪傑に守護されれば、安心である。人々はサンアイ・イソバが強うのかを、ことさら強調して話し伝えたのに違いない。

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