犬と花嫁-2

 

島へ島へと

犬と花嫁-2

最後に残ったのは、女と犬であった。男は一人ずつ犬に噛み殺され、死体を始末されていたのだ。必然の結果として女と犬は暮らし始めた。暮らしたその場所を「いぬがん」といい、異類婚の話として伝わっている。これは与那国がまだ人間による文化の世界にはいりきっておらず、自然と文化とがどちらがどちらに屈服するというのではなく、並列的に存在したことを示している。だが、子どもが生まれなかったから、自然と文化と両義的な存在として人間が存在していたのではない。「てだん・どぐる」「どなだ・あぶ」「ながま・すに」の島建ての伝説に共通するのは、圧倒的な力を持った自然に人間が傷めつけられ、かろうじて命をつなぐという話である。「いぬがん」に至っては、自然と人間が並列ではあるが共存しはじめたということが、文脈から読みとることができる。

女と犬とは性的な交渉があったとみるべきである。犬がライバルである男を一人ずつ殺していったのだから、犬のほうから女にアプローチがあったとみるべきだおそらく犬は幸福だったが、女も同時に幸せであったとは書かれていない。ここには暴力による恐怖支配があったのかもしれない。

ここに小浜島の男が突然登場する。小浜島の男の漁師が、一人小舟で潮干狩りに出かけ、荒天にあって漂流したという。小浜島は石垣島と西表島の間にある小島で、船を自由自在にあやつる漁夫がいたということは、すでに文化的な生活をしていたということである。沖縄本島には中山王がいて、久米島から貢物が運ばれたというから、琉球王朝に属する島々にも文化の発達の程度にはばらつきがあったのである。それらの島々の中でも、与那国島はまったく自然のもとにあったということである。

与那国島に漂着した男は「いぬがん」にいき、女に会う。女はたいそうな美形であった。ここには猛犬がいて危険だから逃げるようにと、女は懸念にさとす。犬はちょうどどこかに出かけていたのだ。男は島を去ったふりをして木に登り、犬がやってきたところに銛をうつ。犬はなお向かってきたのだが、男は木から跳びおりて、蛮刀で切り殺した。

小浜島の男がこんなにも危険なことをしたのは、女が久米島美人だったからである。

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粟一斗の値段の男

 

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粟一斗の値段の男

与那国島の族長ウニトラは、そもそもが宮古島の狩俣の生まれである。宮古島が飢餓になり、与那国島の商人がウニトラを十歳の時に粟一斗で買ったとされる。ほとんど奴隷同然の悲惨な暮らしをしてきたのである。

ウニトラは文武両道のすぐれた男に成長した。身長は緋一丈五寸あり、頭は三斗俵の大きさもあったと伝えられる。このような豪傑になり、力は強い上に頭もよい。このウニトラが成長するにおよんで、与那国与人は自分の支配力がおよばないことに危機意識を持ったのであった。

与那国与人は那覇の中山王府に対し、与那国島のウニトラという人物が反乱の意思ありと伝え、援軍を求めた。与那国与人とすれば狭い島ではほかに逃げ場所があるわけではなく、生命の危機を感じたのであろう。中山王府へ援軍の要請をすると同時に、西表島やその周辺の島の勇士にも呼びかけ、ウニトラとの戦さを仕掛けようとしたということである。それぞれの島には腕に覚えの勇者がいて、波照間島からウヤミシヤ・アカタナという男が呼びかけに応じて参じてきたということだ。

南海で反乱が起きようとしているという知らせに、中山王府の尚真王は宮古島の頭にウニトラを滅ぼすように命じた。宮古島の頭は仲宗根豊見親空広で、尚真王は特に彼に治金丸という御剣を貸し与えた。仲宗根豊見親空広は尚真王に恩義を感じ、兵を集めると、ただちにうにとらを討つべく海を渡っていった。この仲宗根豊見親空広は兵たちともに、四人の女神宮をしたがえていた。どのような行動をとったらよいかわからず、迷った時には、女神宮がト定(とじょう)によって決定していたのであろう。

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粟一斗の値段の男-2

 

島へ島へと

粟一斗の値段の男-2

 

この仲宗根豊見親空広のウニトラ征伐は、一五二二年、仲尾金盛がサンアイ・イソバを討つため与那国島に渡り、逆に撃退された年から数えて二十二年後のことである。与那国島ではサンアイ・イソバはもう亡くなってしまっていたかもしれないが、その後を継いだウニトラによって、英雄支配はつづいていつたのである。ウニトラは宮古島の狩俣の出身であるから、サンアイ・イソバとは血縁関係にない。島の族長は世襲ではなく、最もふさわしいものがなるという、原始共同体の美風が残っていたと考えるべきであろう。治金丸とたいそうな名前を持っている剣についても、いわれがある。ある時、宮古島平良の武太ガーと呼ばれる井戸には、夜毎物音がして光が発し、人々を大いに驚かしたという。宮古島の首長の仲宗根豊見親空広がこれを掘ると、刀がでてきた。仲宗根豊見親空広はこの刀を宝物として大切に保存していたのだが、赤蜂の乱と呼ばれる大規模な反乱がおこってそれを鎮圧した後、夫人宇津免嘉とともに那覇に去っていった。戦勝を中山王に報告するためである。よほど嬉しかったのに違いない。仲宗根豊見親空広と夫人宇津免嘉とは治金丸を中山王に献上し、今回中山王から再び下賜されたということである。南島の一族長との戦いという以上の意味が、ウニトラとの戦争にはあったのかもしれない。十六世紀のはじめこの時期、那覇の中山王朝にまつろわぬ人々の反乱がしばしば伝えられている。八重山の大浜村の族長赤蜂は、三年閑朝貢を断った。赤蜂はイリキヤ・アマリ宗というものを信仰していたが、この祭事が淫蕩なのでこれを禁じたとある。どのように淫蕩なのかは残念ながら資料がないのでわからない。赤蜂の反乱は、この信仰を弾圧したことへの反乱であった。

同時期、与那国には伝説の女族長サンアイ・イソバがいたのである。

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原点に立つ

 

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原点に立つ

立場上の責任があるのだろうが、人間として誰が悪いというのではない。それぞれの立場で、みんな与那国島のことを考えているのだ。しかし、沖縄県の世論では、こんあに失業者が県内に多いのに、どうして県外の労働者をいれるのかと考えている人がある。与那国島では砂糖キビ畑で働いている援農隊が喉から手が出るほどに欲しいのだが、与那国農協がよかれと思った外への投資が、思いもかけず挫折をし、援農隊の受け入れが資金的に不可能な状況に追い込まれてしまった。

援農隊代表藤野浩之さんの著書「与那国島 サトウキビ刈り援農隊—私的回想の三十年」によれば、善意ではじめたことが、大変な困難に巻き込まれてしまったようだ。

混乱が混乱を呼び、石垣島の日刊紙「八重山毎日新聞」に「援農隊が与那国農協に百万円の損害賠償請求へ」という根拠のない記事がでた。もちろん藤野さんたちはそんな気持ちはなかった。またされるのではないかと地元では畏れていて、憶測がそんな記事を書かせたのであろう。実際藤野さんや黒田さん等援農舎をボランティアでははじめた人たちは、すでにたくさんの身銭を切っていた。出発を延期するよう与那国農協から電報が届いたのは、出発三日前であった。すでに家を出て、連絡をとれない人もいた。それで出発日に晴海埠頭にいき、事情を説明した。援農隊の労働期間はほぼ三カ月で、サラリーマンをしながら有給休暇で参加するというわけにはいかず、これに人生を賭ける人もいたはずである。つまり、人生の設計計画が狂ったということであった。援農隊の出発予定は一九七六年一月一日であった。与那国農協から出発延期要請の電報がはいったのは一月八日で、そこからめまぐすしい動きに巻き込まれた。そんな中で援農舎ではあっちこっちに連絡をとり、また手を差しのべてくれる人もあって、石垣島製糖や小浜島で受け入れてくれることになった。

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原点に立つ-2

 

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原点に立つ-2

 

藤野さんたちの決断で、一月三十日にとりあえず出発することになった。不確定要素もたくさんあったのだが、それ以上遅らせるとその年の操業には間に合わなくなる。また伊江島でも受け入れてもらえるようであった。あたふたしているところに、与那国島での製糖工場での操業が決定された。製糖工場が動かなければ、与那国島の主産業の農業は壊滅的な打撃を受けるのである。とにもかくにも援農隊は、予定より三週間遅れて出発することになった。全日空が正規料金の半額で乗せることを了承してくれた。船で行けば一週間はかかり、またまた遅れることになる。この時点で、自宅でじっと待機している人たちがいた。与那国島からの要請は八十人であったが、五十人がすぐに集まった。残りの三十人は、選考から漏れた人に再度連絡をとることにしたのである。

この記録を今読み返してみるて、私は藤野さんたちの与那国島への絶対的な愛情を感じるのである。昔から私は藤野さんの人なりをよく知っているのだが、この困難きわまりない状況の中で、原点を忘れなかったことはまことに立派であると思う。普通なら藤野さんたちは与那国農協に裏切られたのであり、ここで計画が終わっても仕方のないことだ。この点は大いに学ぶべきである。藤野さんは共同通信社に勤める新聞記者だ。彼は有給休暇をとり、援農隊の参加とともに沖縄に飛んだ。

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