与那国の歴史-2

 

島へ島へと

与那国の歴史-2

ことに、私は感心した。与那国島に対して強い愛があるのであることは、すぐにわかる。

著者の池間栄造という人は、医者である。自序にはこうかかれている。

「本誌は、岳父新里一森氏が与那国町の委属をうけて、一九三九に寄稿したものである。岳父は不便な孤島に在って、実に根気よく、島内外の伝説、記録を渉猟し、根気よくその筆を執ったのであるが、一九五0年の秋、病魔におそわれ、未だ本誌の完成を見なかったのを残念に、他界したのである。まことに心中察するにあまりあるものがあった。爾来その原稿は塵埃に埋もれ、折角集録した文献は散逸の虞れがあったので、一九五四年に岳父の後をうけて、不肖筆を執ったのである。」

ここは世代から世代への意思の受け渡しがある。しかし池間栄造氏は医者として多忙な日々を送りながら、ついに「与那国島誌」を出版した。その後、なお充実させるためにさらに史料を集め、改訂としての「与那国の歴史」の出版の準備をすすめていたところ、池間栄造氏は突然病死したのであった。そのあとを継いだのが、苗子夫人である。友人の池宮修一氏が、「与那国の歴史」に一文を寄せている。「栄造君亡きあと苗子夫人は彼が執筆をすすめていた遺稿をとりまとめることで心の支えとした。そして一周忌までには改訂版の「与那国の歴史」を仏前に献げるように、すべてをそれに集中したのであった。写真を揃えたり、原稿の清書など苗子夫人は独りですすめてきた。」

池宮氏の文章が書かれた日付は「一九七二・三・三」となっている。一九三九年に起稿されてから、三人の手になり、三十三年の歳月がたっている。一冊の本がこのように長い歴史をはらんでいるのだ。

私が手にとった一冊の本「与那国の歴史」は、その後、与那国島に関する私のバイブルとなったのである。その後さらに改訂版がでて、私は二冊持っている。

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混沌としたサンアイ・イソバ

 

島へ島へと

混沌としたサンアイ・イソバ

仲尾金盛を将とする宮古軍はサンアイ・イソバ一人においまくられ、ウブンド山中で木を伐り倒して筏をつくり、ほうほうにていで与那国島を脱出した。サンアイ・イソバにすれば、村を焼かれ、兄弟である按司を殺され、仲尾金盛に対する怨みは深かったであろう。しかし、船をつくつて宮古軍を追撃するほどには、造船や操船の技術は発達しなかったであろう。

そうではなかったという伝承もある。サンアイ・イソバの仲尾金盛に対する怒りは深く、簡単にはおさまらなかったという。ウブンド山にはいって木を伐り倒し三年かかって船をこしらえたという。それから与那国島を船出して石垣島に渡り苦労の末に仲尾金盛の片腕を切り落としたとされる。与那国島の側の伝承で、実際のところはどうだったのかわからない。

与那国から石垣までの距離は、一二七キロである。島から島というのならもっと近い。しかしこの距離は、勢いで漕いでいけるという安易な距離ではない。しっかりした船をつくり、それを綿密な計算のもとに操るという、確かな技術がなければならない。

サンアイ・イソバが与那国島から出ることができたのかできなかったというのは、実は重大なことなのである。それはサンアイ・イソバという人物の性格と、与那国島の歴史の中の位置を決める重要な要素だからだ。サンアイ・イソバは豪傑であり、女性であり、シャーマンであり、中央集権的な統治者であり、農業者である。一説によれば、乳房が四つあったともされる。乳房がたくさんあるというのは豊饒のイメージであり、犬を思わせる。久米島女を愛した「いぬがん」からの連想かもしれない。乳房が四つあるというのは、人間ではなく、異類婚からうまれたという推測が成り立つ。人間ならざる異常な力を有するというのは、自然の何かと結びついていたかということで、文化的な秩序による統治ではない。

サンアイ・イソバの伝説を読み解いていくと、自然そのものの荒ぶる力と、その自然の力をコントロールしようとしたシャーマン的な呪力と、中央主権的な文化的農耕的秩序を感じることができる。この混沌とした雰囲気がサンアイ・イソバの持つ空気であり、与那国島の社会が自然の採集による生活から、農耕的な整然とした村落社会への移行過程にあったことを読み解くことができる。

 

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混沌としたサンアイ・イソバ-2

 

島へ島へと

混沌としたサンアイ・イソバ-2

もし稲をつくったり牛を飼ったりする農耕によつて社会が維持されているのだから、サンアイ・イソバのような異常といってもよい強力な統治力は必要とはしない。サンアイ・イソバは原始から文化へと移行しつつある社会の、異貌の統治者であるということができる。

しかも、サンアイ・イソバはカミをコントロールしようとする精神的な祭祀と、現実的な力である軍隊との両義的な存在である。つまり、当時の社会で必要とされていたすべての存在である。つまり、当時の社会で必要とされていたすべての力を有し、万能の存在として、原始から文化的農耕的社会へと移行しつつあった与那国の存在を決定づけていたのである。この過渡期にあり、サンアイ・イソバのイメージは混沌と整合、混乱と秩序、情熱と冷静、このあらゆる矛盾を一身におびているのだが、サンアイ・イソバという存在なのである。このサンアイ・イソバの像を産んだ与那国島の風土の中に、荒神と慈母は同居しているのだある。

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泡盛以前の会社

 

島へ島へと

泡盛以前の会社

朝鮮漂流民の見聞には、十五世紀の終わり頃、尚真王が統治した琉球王朝の離島の雰囲気をよく伝えている。池間栄三「与那国島の歴史」の記述を参考に、描写を試みてみよう。

酒は口で噛んでつくり、麹は使わない。したがって発行は弱く、アルコール分は薄い。飲んでも微酔をする程度であったろうということだ。

泡盛と行く言葉がはじめて見られるのは、一六七一(尚貞三)年幕府への献上品目録であるとされる。昔は酒精度をはかるのに「泡を盛る」という方法があったとされ、そこから来ていると考えられている。沖縄では「焼酎」と書いて「サキ」と呼んでいた。したがって、泡盛と呼んだのは琉球ではなく、薩摩のほうであったと考えられている。

泡盛はシャム、現在のタイより伝来したとされる。シャムと琉球が通航したのは約五百年前のことだとされ、そうであるなら、朝鮮漂流民は泡盛がはいってくる以前の沖縄の見聞であるということになる。口で泡盛を噛み、垂液の中のアミラーゼを酵素とする原始的な酒は、自然発生的に生まれたのであろう。飲んでも微酔する程度であったというから、製造に手間のかかることを考えれば、嗜好品というよりも、祭祀に使われたのではないだろうか。濁酒で、たくさん飲んでわずかに酔う程度であったとすれば、今日のようには酒による暴力沙汰はなかったと考えるべきである。

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泡盛以前の会社-2

 

島へ島へと

泡盛以前の会社-2

家は茅の屋根で、瓦はまだなかった。家のまわりには垣根もない。みな同じように貧しい家に住み、貧富の差はなかったということである。板で床がつくってあり、そこに寝た。毛布のようなものはなく、むしろを編んで横になっていた。気候がよいので、寝具も必要なかったということだ。それで貧しいというものでもない。家の前には穀物倉が建ててあり、米をつくって貯蔵していた。文脈上からは、穀物倉があるのは首長のような格別の家ではなく、すべての家にあったと読めるゆるやかな原始共産制の上に島の社会が成立していて、階級の分化があるわけではない。首里では尚真王の治世がはじまっているのに、その統治の形態は与那国島まではおよんでいなかったということである。

鍛冶はあっても、鉄は外部からはくばれなければならない貴重品であったから、釜や斧や小刀や槍にしか使えなかった。すきのように大量の鉄を必要とする道具は、木製だ間に合わせていた。

十二月に水田を牛に踏ませて種を蒔き、一月に田植えをする。牛に踏ませて種を蒔くということは、灌漑の設備があったわけではないから水の出し入れはできず、天水頼みの湿田であったようだ。牛が歩くことによって、水底の田を柔らかくしていたのかもしれない。四月には熟して刈り取りをするのだから、たいそう暮らしやすいところということになる。

一般に水稲は陸稲にくらべて収量はかなり劣り、味も落ちるとされる。陸稲は五月に刈り取るのだが、切り株から再び目が出て、秋には再度収穫することができるのである。水を得ることのできない台地も、こうして陸稲をつくっていたことがわかる。島の人たちは緻密な農業をしていたということである。

稲はもみにして倉に保管しておいたのではなく、藁ごとたばなてしまっておいた食べるときには竹でつくった道具でもみをこき、臼でついた、もみだけをまとめて袋に入れておけば、ねずみにやられたかもしれない。ねずみについての記述はまったくないので、もしかすると存在しなかったかもしれないのである。

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天上の旅

 

島へ島へと

天上の旅

みんなしなければならないことがあり、先を急いでいるので、飛行機の席がこちらになかなかまわってこなかった。待ってよ、ようやく石垣空港から与那国に飛ぶことができた。

当時は十九人乗りの飛行機で、頭を引っ込めるようにしなければ通路も歩くことができない。シートベルトに身体を縛り付けこの頼りない飛行機に命かな何からなにまですべて預けることになると、何とも不安な感じがした。座席のポケットに、このあたりの島の地図を描いた下敷きが入っていた。席に上がると、その地図と実際に眼下に望まれる島の形とを照合しながらいくことがある。

滑走路をすべっていった機体が、ふわりと浮き上がる。エンジンの音さえなかったから、自分の力で空を飛んでいるような気にさえなる。まず窓の外に見えるのは石垣島の山並みで、砂糖キビ畑も広がっている。畑で刈り取りの作業をする人も認められる。

海岸から海に行くと、世界一とも称される珊瑚礁の海の上にいる。美しいものの上空に浮かんで、私は幸福な気持ちになるのである。かつての舟人は、風を読み太陽や星の位置を探り、波の形を確かめながら進んでいった。眼下一帯の大海原に視線をこらすと、古人の帆をいっぱいに張って帆走する舟が、波の間い間に見えるような気がする。

小型飛行機は高度が低く、海に近いので、風景の微細なところまでよく見える。海の彼方にある与那国島は、この海を渡っていった遥かな他界にあるのだと感じた。その後私は何度も与那国島に行くことになるが、こうして美しい境界線を越え、夢を見るようにして他界へと旅立っていくような気分にそのたびなるのであった。この世ならぬ美しいところなのである。

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天上の旅-2

 

島へ島へと

天上の旅-2

 

私は風景の中に魂が吸い込まれるようにして、窓の外を眺めていた。眼下にやってくるのは竹富島である。空から眺めると、トルコ石青い色の波に包まれた小島は、まさに宝石のように見える。砂糖畑は緑色で、そこに白い道が伸びている。赤瓦の家々が固まりあっている。私は天上から鳥の視点で眺めているのだが、あの島には何度かいったことがある。

最初に訪れたのは、復帰のだいぶ前で、ドル紙幣が流通していた。ユースホテルに泊まっ他のだと思う。海岸に行くと白砂で、一粒一粒が星の形をしているのであった。星の砂を見たのははじめてで、世の中にはこんなに不思議なものがあるのかと驚いた。見るもの聞くののが現実離れしていくように感じた。小さな博物館があり、人魚の骨や馬の角などと表示されたものが展示してあった。怪しいと言えば怪しいのだが、この島ならばそんなものがあっても当然だとも思えた。他にやってくる旅人も数えるほどで、船着場からデイゴの赤い花の咲く道を自転車で走れながら、こんな島ならいつまでもいてもいいなと思ったものである。私のごく初期の沖縄体験だ。

天上の旅は時間さえも超える。竹富島を過ぎると西表に至る。峰が切り立ち」、深い緑に覆われている。平坦でオパールのような竹富島とは対照的な、奥行きがあって、たくさんの秘密がありそうな島だ。私は飛行機の窓に顔を近づけ、皺が寄ったような峰や谷や、蛇行して流れる一つの精気あふれる生き物のような川を眺めるのだ。そこはとても島とは思えないほど、山は高く谷は深い。

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仕事が終わった

 

島へ島へと

仕事が終わった

製糖事業は三月中を聞くと与那国島では草蝉と地元で呼んでいるゴキブリほどの大きさの小さな蝉が発生し、砂糖キビにとまって鳴く。畑で蝉が鳴けば騒然とした気配になってくる。

与那国の夏は、畑で働くようななまやさしい状態ではなくなってくる。夏は畑はほとんど休みになる。それが、島で生きる生活の知恵というものだ。

製糖工場の操業は三月六日にはじまった。本来は一月十一日に操業開始予定だったから、頭初の予定より二ケ月遅れということになる。三月中に全作業を完了させるのは不可能となったのである。

援農隊には当然一人一人の事情がある。過疎で苦しむ離島を救うためというボランティア精神から行動を発した人が多いのだが、ボランティアとは生業または本業が別にあるということだ。学生ならば四月になったら大学に戻らなければならないし、職業が決まっている人は会社にいかなければならない。そうしないと人生設計が大幅に狂うことになる。

援農隊のうち、事情を抱えた多くに人が返っていき、残された人だけでは製糖工場も砂糖キビ畑も作業をつづけることが困難になった。そこでまた助っ人を頼まなければならない。島は再び苦悩することになったのである。

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仕事が終わった-2

 

島へ島へと

仕事が終わった-2

 

与那国町長が出した案は、自衛隊員のキビ刈り応援で、実際に那覇の駐屯地を訪問し要請した。すると左の陣営がにわかに騒然とし、労働の代表が与那国町役場に押しかける騒ぎになった。戦争を体験した沖縄は、自衛隊の動きに関しては敏感である。

与那国町長は労組にも援農を要請したため、話はいよいよ混乱した。自衛隊は援農のため与那国島に人を派遣することは、結局なかった。そんな細かな状況はわからないまま、援農隊は黙々と作業をつづけた。結局のところ一本ずつ倒していくよりしかたない。

そのうち石垣島や西表島にはいった援農隊が、仕事が終わるや与那国島に手伝いにきてくれた。これが大きな働き手となったのであった。

砂糖キビ刈りは四月十五日に製糖工場も製糖事情を終了した。そこには慣れない援農隊員の、獅子奮迅の活躍があったのはいうまでもない。善意のボランティアが、離島の問題の中に吸い込まれた格好であった。通常でないことが多かった分、一人一人が考え、悩み、その苦しみが血や肉になっていったのである。援農隊は意地で頑張り通したということだ。最後まで働き通したということだ。最後まで働き通した人の数は、五十人ということである。

援農隊に身を投じた若者たちは、それぞれに善意からそうしたのであり、政治の波にここまで翻弄されるとは考えてもみなかった。だがそのことも、過ぎてしまえばよい思い出である。

与那国島では大きな行事があると、牛をつぶして肉塊をゆで、みんなに配る。その場では食べきれないほどの大きさなので、お土産に持って帰ることになる。旅の人である援農隊は、それぞれに世話になった家に肉塊を持っていく。

公民館では牛肉を食べ、泡盛を飲んで、歌い踊って喜びを表現する。この宴会に参加して、援農隊員はようやく大きな仕事が終わったことを実感するのだ。

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朝鮮漂民の見聞

 

島へ島へと

朝鮮漂民の見聞

朝鮮済州島からの漂流民の話を続けよう。

まず七日間は浜に置き、交代で食事を与えた。もし彼らが悪霊を持っていれば、それが集落に入ってしまうからである。だが七日がたち、漂民たちに悪霊がついていないことがわかると、与那国島の人々は彼らを民家に迎えいれたのである。与那国には三つの集落があった。集落の人たちが順番に食事を与え、一軒ずつすべての家が役割を果たすと、次の集落に移動させた。一カ月後には三人いた漂民を一人ずつ三つの集落に分けた。この話からは、それぞれの集落にも、島全体にも、強力な指導者がいなかったことがわかる。海の向こうからやってきた突然の負担を、島の人たちはみんなに平等に割り振ったということである。ゆるやかな原始共産制が成立していたに違いない。平等な負担であり、一人にすれば軽いものであったから、不満がでるわけでもない。六カ月後に南風が吹いた。島人五、六人が舟で次の島の西表島に送ったとされる。海上に見える隣の島にいくのも、季節を待たなければならなかったということだ。もしくは島人は先に使者を立て役所に支持をあおいだということであろうか。十五世紀には島から島の間でもなされていたことを示している。島人五、六人と漂民三人とを一艘の船に乗せたのだから小舟といってもそれなりの大きさがあることがわかる。こうして島を一つ一つたどっていった。西表島から新城島、黒島、多良間島、宮古島と順々に送られていき、那覇についた。争いごともない。漂人たちは那覇に三カ月滞在した。ちょど琉球にきていた博多の商船に乗り、一度博多に寄ったのかどうか朝鮮の記録なのでつまびらかでないが、三年目に故国朝鮮に帰ることができた。その年一四七九年五月だとされている。尚真王治世のはじめ頃で、まれびとたちを精一杯遇した島人たちの気風が感じられる。池間栄三氏の「与那国の歴史」にはその時の朝鮮漂民の見聞記がのせられている。

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