沖縄ロック-2

 

島へ島へと

沖縄ロック-2

 

コザや金武や那覇にある外人向けのクラブは、ただ酒を飲ませて金をとるという場所ではなかったと思う。少なくとも兵士たちは、刹那にでも生きている実感を確かめるところであったのだろう。

何か月か後にまた休暇がもらえ、沖縄に帰ってきた兵士たちは、マリーのところにやってくる。そして、きっとこういう。「まだ生きているよ」彼らの悲しみと恐怖とを受け止めて、マリーは歌うのである。「紫」、「コンデション・グリーン」など当時は沖縄ロックがコザのゲート通りを中心にしてさかんであったが、それらのバンドは兵たちと彼らを受けいれる沖縄の悲しみと結びついていたような気がするのである。あれほどに隆盛をきわめた沖縄ロックが、日本に復帰後に東京あたりで受け入れなかったのは当然だ。アメリカ兵の心の中にはいっていたのだから、当然のことアメリカのにおいが強すぎる。日本向けに薄められ、醤油の味がする日本のロックとはそもそも存在の仕方が違うのだ。コザであれ、金武であれ、波之上であれ、当時はベトナムの戦場のすぐ後方に位置していたのだ。東京の人間からすれば、とても食べきれないステーキのようなものだ。当時はステーキとはいわず、ビフテキと呼んでいた。ビフテキという言葉に込められた思いは、この世に存在する最高の御馳走だということで、実際に一年に一度も食べることはできなかったろう。しかも、ナイフもフォークも必要ない、箸で千切れるような薄い肉であった。

離れていると、むしろその街のことがわかる。私は波之上に帰った。ビアホール清水港のマスターもチーフもまるで昨日も私がいたようにして迎えてくれた。生きることは闘いであった。みんなはよく闘って生きている。彼らが元気なのを見て、嬉しかった。

 

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