ナナサンマル音頭-2

 

島へ島へと

ナナサンマル音頭-2

 

交通方法が同じ国の中で違えば危険があるというので、国際条約では「一国一方式」にしなければならない。政府は最初一九七六年実施の方針であった。だが石油危機など経済事情が発生し、沖縄の日本復帰の目玉事情ともいえる沖縄海洋博が延期になり、交通方式変更も延期になった。

一九七八年七月三十日午前六時を期して、すべてを反対にするという閣議決定がなされた。このことが社会におよぼす影響は大きかった。車は増えていたし、日本政府は沖縄の実情を踏まえていないとのひはんもなされた。要するに現地は不安だったのだ。平滑の根底がひっくり返されるのだから、当然のことであろう。

この頃沖縄を旅した私の耳に響いてきたのが、「ナナサンマル音頭」であった。

「ナナサンマルだよ、ナナサンマル、シタリガユイヤサー・・・」私の耳に残っているのは、こんな文句である。県内のどこにいても鳴り響いていて、さすがに唄の土地だと思った。人の心に一番影響があるのが唄なのだろう。あまりに珍しいので、私はレコード店にいってSPレコードを一枚買った。今も押し入れのどこかに仕舞い込んであるはずだ。

「ナナサンマル音頭」は、私には沖縄の人の悲鳴にも聞こえた。当事者の都合によって、生活のすみずみまで影響をうけなければならない。歴史の転換といえばまあそうなのだろうが、しなければしないほうがよい。

「交通方法変更は混乱、事故続発といった大きな騒ぎを巻き起こし、とくに那覇を中心とした都市地区は十日以上にわたってマヒ状態に陥った。実施後八月六日まで八日間の事故発生は、人身事故四一件、物損事故五二八件、そのうち一二七件がバス関係の事故である」

ナナサンマルの日のことは、「沖縄大百科事典」にはこう書かれている。

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