泡盛以前の会社-2

 

島へ島へと

泡盛以前の会社-2

家は茅の屋根で、瓦はまだなかった。家のまわりには垣根もない。みな同じように貧しい家に住み、貧富の差はなかったということである。板で床がつくってあり、そこに寝た。毛布のようなものはなく、むしろを編んで横になっていた。気候がよいので、寝具も必要なかったということだ。それで貧しいというものでもない。家の前には穀物倉が建ててあり、米をつくって貯蔵していた。文脈上からは、穀物倉があるのは首長のような格別の家ではなく、すべての家にあったと読めるゆるやかな原始共産制の上に島の社会が成立していて、階級の分化があるわけではない。首里では尚真王の治世がはじまっているのに、その統治の形態は与那国島まではおよんでいなかったということである。

鍛冶はあっても、鉄は外部からはくばれなければならない貴重品であったから、釜や斧や小刀や槍にしか使えなかった。すきのように大量の鉄を必要とする道具は、木製だ間に合わせていた。

十二月に水田を牛に踏ませて種を蒔き、一月に田植えをする。牛に踏ませて種を蒔くということは、灌漑の設備があったわけではないから水の出し入れはできず、天水頼みの湿田であったようだ。牛が歩くことによって、水底の田を柔らかくしていたのかもしれない。四月には熟して刈り取りをするのだから、たいそう暮らしやすいところということになる。

一般に水稲は陸稲にくらべて収量はかなり劣り、味も落ちるとされる。陸稲は五月に刈り取るのだが、切り株から再び目が出て、秋には再度収穫することができるのである。水を得ることのできない台地も、こうして陸稲をつくっていたことがわかる。島の人たちは緻密な農業をしていたということである。

稲はもみにして倉に保管しておいたのではなく、藁ごとたばなてしまっておいた食べるときには竹でつくった道具でもみをこき、臼でついた、もみだけをまとめて袋に入れておけば、ねずみにやられたかもしれない。ねずみについての記述はまったくないので、もしかすると存在しなかったかもしれないのである。

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