朝鮮漂民の見聞

 

島へ島へと

朝鮮漂民の見聞

朝鮮済州島からの漂流民の話を続けよう。

まず七日間は浜に置き、交代で食事を与えた。もし彼らが悪霊を持っていれば、それが集落に入ってしまうからである。だが七日がたち、漂民たちに悪霊がついていないことがわかると、与那国島の人々は彼らを民家に迎えいれたのである。与那国には三つの集落があった。集落の人たちが順番に食事を与え、一軒ずつすべての家が役割を果たすと、次の集落に移動させた。一カ月後には三人いた漂民を一人ずつ三つの集落に分けた。この話からは、それぞれの集落にも、島全体にも、強力な指導者がいなかったことがわかる。海の向こうからやってきた突然の負担を、島の人たちはみんなに平等に割り振ったということである。ゆるやかな原始共産制が成立していたに違いない。平等な負担であり、一人にすれば軽いものであったから、不満がでるわけでもない。六カ月後に南風が吹いた。島人五、六人が舟で次の島の西表島に送ったとされる。海上に見える隣の島にいくのも、季節を待たなければならなかったということだ。もしくは島人は先に使者を立て役所に支持をあおいだということであろうか。十五世紀には島から島の間でもなされていたことを示している。島人五、六人と漂民三人とを一艘の船に乗せたのだから小舟といってもそれなりの大きさがあることがわかる。こうして島を一つ一つたどっていった。西表島から新城島、黒島、多良間島、宮古島と順々に送られていき、那覇についた。争いごともない。漂人たちは那覇に三カ月滞在した。ちょど琉球にきていた博多の商船に乗り、一度博多に寄ったのかどうか朝鮮の記録なのでつまびらかでないが、三年目に故国朝鮮に帰ることができた。その年一四七九年五月だとされている。尚真王治世のはじめ頃で、まれびとたちを精一杯遇した島人たちの気風が感じられる。池間栄三氏の「与那国の歴史」にはその時の朝鮮漂民の見聞記がのせられている。

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