粟一斗の値段の男-2

 

島へ島へと

粟一斗の値段の男-2

 

この仲宗根豊見親空広のウニトラ征伐は、一五二二年、仲尾金盛がサンアイ・イソバを討つため与那国島に渡り、逆に撃退された年から数えて二十二年後のことである。与那国島ではサンアイ・イソバはもう亡くなってしまっていたかもしれないが、その後を継いだウニトラによって、英雄支配はつづいていつたのである。ウニトラは宮古島の狩俣の出身であるから、サンアイ・イソバとは血縁関係にない。島の族長は世襲ではなく、最もふさわしいものがなるという、原始共同体の美風が残っていたと考えるべきであろう。治金丸とたいそうな名前を持っている剣についても、いわれがある。ある時、宮古島平良の武太ガーと呼ばれる井戸には、夜毎物音がして光が発し、人々を大いに驚かしたという。宮古島の首長の仲宗根豊見親空広がこれを掘ると、刀がでてきた。仲宗根豊見親空広はこの刀を宝物として大切に保存していたのだが、赤蜂の乱と呼ばれる大規模な反乱がおこってそれを鎮圧した後、夫人宇津免嘉とともに那覇に去っていった。戦勝を中山王に報告するためである。よほど嬉しかったのに違いない。仲宗根豊見親空広と夫人宇津免嘉とは治金丸を中山王に献上し、今回中山王から再び下賜されたということである。南島の一族長との戦いという以上の意味が、ウニトラとの戦争にはあったのかもしれない。十六世紀のはじめこの時期、那覇の中山王朝にまつろわぬ人々の反乱がしばしば伝えられている。八重山の大浜村の族長赤蜂は、三年閑朝貢を断った。赤蜂はイリキヤ・アマリ宗というものを信仰していたが、この祭事が淫蕩なのでこれを禁じたとある。どのように淫蕩なのかは残念ながら資料がないのでわからない。赤蜂の反乱は、この信仰を弾圧したことへの反乱であった。

同時期、与那国には伝説の女族長サンアイ・イソバがいたのである。

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