粟一斗の値段の男

 

島へ島へと

粟一斗の値段の男

与那国島の族長ウニトラは、そもそもが宮古島の狩俣の生まれである。宮古島が飢餓になり、与那国島の商人がウニトラを十歳の時に粟一斗で買ったとされる。ほとんど奴隷同然の悲惨な暮らしをしてきたのである。

ウニトラは文武両道のすぐれた男に成長した。身長は緋一丈五寸あり、頭は三斗俵の大きさもあったと伝えられる。このような豪傑になり、力は強い上に頭もよい。このウニトラが成長するにおよんで、与那国与人は自分の支配力がおよばないことに危機意識を持ったのであった。

与那国与人は那覇の中山王府に対し、与那国島のウニトラという人物が反乱の意思ありと伝え、援軍を求めた。与那国与人とすれば狭い島ではほかに逃げ場所があるわけではなく、生命の危機を感じたのであろう。中山王府へ援軍の要請をすると同時に、西表島やその周辺の島の勇士にも呼びかけ、ウニトラとの戦さを仕掛けようとしたということである。それぞれの島には腕に覚えの勇者がいて、波照間島からウヤミシヤ・アカタナという男が呼びかけに応じて参じてきたということだ。

南海で反乱が起きようとしているという知らせに、中山王府の尚真王は宮古島の頭にウニトラを滅ぼすように命じた。宮古島の頭は仲宗根豊見親空広で、尚真王は特に彼に治金丸という御剣を貸し与えた。仲宗根豊見親空広は尚真王に恩義を感じ、兵を集めると、ただちにうにとらを討つべく海を渡っていった。この仲宗根豊見親空広は兵たちともに、四人の女神宮をしたがえていた。どのような行動をとったらよいかわからず、迷った時には、女神宮がト定(とじょう)によって決定していたのであろう。

この仲宗根豊見親空広のウニトラ征伐は、一五二二年、仲尾金盛がサンアイ・イソバを討つため与那国島に渡り、逆に撃退された年から数えて二十二年後のことである。与那国島ではサンアイ・イソバはもう亡くなってしまっていたかもしれないが、その後を継いだウニトラによって、英雄支配はつづいていつたのである。ウニトラは宮古島の狩俣の出身であるから、サンアイ・イソバとは血縁関係にない。島の族長は世襲ではなく、最もふさわしいものがなるという、原始共同体の美風が残っていたと考えるべきであろう。治金丸とたいそうな名前を持っている剣についても、いわれがある。ある時、宮古島平良の武太ガーと呼ばれる井戸には、夜毎物音がして光が発し、人々を大いに驚かしたという。宮古島の首長の仲宗根豊見親空広がこれを掘ると、刀がでてきた。仲宗根豊見親空広はこの刀を宝物として大切に保存していたのだが、赤蜂の乱と呼ばれる大規模な反乱がおこってそれを鎮圧した後、夫人宇津免嘉とともに那覇に去っていった。戦勝を中山王に報告するためである。よほど嬉しかったのに違いない。仲宗根豊見親空広と夫人宇津免嘉とは治金丸を中山王に献上し、今回中山王から再び下賜されたということである。南島の一族長との戦いという以上の意味が、ウニトラとの戦争にはあったのかもしれない。十六世紀のはじめこの時期、那覇の中山王朝にまつろわぬ人々の反乱がしばしば伝えられている。八重山の大浜村の族長赤蜂は、三年閑朝貢を断った。赤蜂はイリキヤ・アマリ宗というものを信仰していたが、この祭事が淫蕩なのでこれを禁じたとある。どのように淫蕩なのかは残念ながら資料がないのでわからない。赤蜂の反乱は、この信仰を弾圧したことへの反乱であった。

同時期、与那国には伝説の女族長サンアイ・イソバがいたのである。

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