原点に立つ

 

島へ島へと

原点に立つ

立場上の責任があるのだろうが、人間として誰が悪いというのではない。それぞれの立場で、みんな与那国島のことを考えているのだ。しかし、沖縄県の世論では、こんあに失業者が県内に多いのに、どうして県外の労働者をいれるのかと考えている人がある。与那国島では砂糖キビ畑で働いている援農隊が喉から手が出るほどに欲しいのだが、与那国農協がよかれと思った外への投資が、思いもかけず挫折をし、援農隊の受け入れが資金的に不可能な状況に追い込まれてしまった。

援農隊代表藤野浩之さんの著書「与那国島 サトウキビ刈り援農隊—私的回想の三十年」によれば、善意ではじめたことが、大変な困難に巻き込まれてしまったようだ。

混乱が混乱を呼び、石垣島の日刊紙「八重山毎日新聞」に「援農隊が与那国農協に百万円の損害賠償請求へ」という根拠のない記事がでた。もちろん藤野さんたちはそんな気持ちはなかった。またされるのではないかと地元では畏れていて、憶測がそんな記事を書かせたのであろう。実際藤野さんや黒田さん等援農舎をボランティアでははじめた人たちは、すでにたくさんの身銭を切っていた。出発を延期するよう与那国農協から電報が届いたのは、出発三日前であった。すでに家を出て、連絡をとれない人もいた。それで出発日に晴海埠頭にいき、事情を説明した。援農隊の労働期間はほぼ三カ月で、サラリーマンをしながら有給休暇で参加するというわけにはいかず、これに人生を賭ける人もいたはずである。つまり、人生の設計計画が狂ったということであった。援農隊の出発予定は一九七六年一月一日であった。与那国農協から出発延期要請の電報がはいったのは一月八日で、そこからめまぐすしい動きに巻き込まれた。そんな中で援農舎ではあっちこっちに連絡をとり、また手を差しのべてくれる人もあって、石垣島製糖や小浜島で受け入れてくれることになった。

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