藤野浩之さんとの旅

 

島へ島へと

藤野浩之さんとの旅

紆余曲折の中で与那国島へのサトウキビ刈り援農隊がはじまったのが一九六七年で、私がそれに興味を持ち参加をしたいと願ったのは、援農舎の藤野雅之さんから話を聞いたのが直接のきっかけであった。

一九七九年二月に藤野さんは援農隊が現地でうまく溶け込んでいるか観察し、また援農隊員を励ますために、与那国島に行く計画を立てているということであった。藤野さんは共同通信社の記者で、私は昔からの友人であった。その頃私は長編小説「遠雷」で野間文芸新人賞を受賞したばかりで、何かと忙しかった。援農隊に参加して二ヶ月も三ヶ月も家をあけるのは無理だったが、藤野さんが休暇をとっていく一週間ほどの旅なら、私も同行することができる。今回は援農隊の様子を見て、来年改めて時間をとって畑で働けばよいのである。

そのようなことにたちまち話が決まり、私は藤野さんとともにまず那覇にいった。宿泊したのは、援農隊がよく泊まる民宿であった。共同通信社の支部は沖縄タイムスビルの一室にあるので、そこを訪問すると、沖縄タイムスの新川明さんや川満信一さんを紹介された。雑談の折、私が復帰前に那覇の波之上のアメリカ兵向けのナイトクラブで働いたという話をした。その店はAサインではなく、Aサインが閉まったあとに開くモグリ営業だったのだ。折からベトナム戦争が激しく、私は客のアメリカ兵を通して裏側から戦争を見ていた。

そんな話をすると、それを書きなさいと新川さんにいわれた。新川さんも川満さんも復帰運動をリードした知識人だったが、当時は沖縄タイムスの編集幹部だったのだと思う。さっそく私は原稿用紙とボールペンを借り、片隅の机で書いた。その文章は数日後の新聞に掲載された。

藤野さんと沖縄にいると、どこにでも知人がいる。沖縄との親密な付き合いをしてきた人だということがよくわかるのだ。

東京から与那国島にいく場合、当時はまず那覇に飛び、それから石垣、与那国と飛行機を乗り継がなければならない。今は東京から石垣、那覇から与那国の直行便がそれぞれにあるのだが、当時の那覇と石垣によっていくというのが友人をつくるためには幸いである。しかも、悪天になれば飛行機は欠航になるのだから何日も滞在せねばならず、顔を合わせる機会も多くなる。藤野さんそのような旅を、これまで幾度もくり返してきたのだろう。

那覇にいけば、新川さんや川満さんと酒場にくり出し、談論風発する。時には朝まで飲む。おかげで私も新川さんや川満さんと友人になった。今でも顔を見合わせれば、暗黙のうちに酒場にくり出すということになる。

石垣島では、私立文化館にいった。与儀館長は当然のことだが、ルポライターの友寄英正さんや八重山毎日新聞の上地義男さんがいる。みんな藤野さんとは旧知の間柄で、藤野さんといっしょにいるというだけで私も友人になる。途端に世界が一段と広くなるのだ。もちろんその晩は酒盛りである。泡盛は悪酔いしないので、いくら飲んでも平気だ。

与那国に飛ぶ日、風が強かった。私は民宿で朝に自転車を借り、飛行機の様子を見にいくと、すべての便に欠航の表示が出ていた。風がおさまるまで、あと何日か石垣にいなければならない。日程に余裕がないので困るのだが、無理な自己主張をしても仕方がない。

さっそく私はシマチャビ(離島苦)の洗礼を受けたのだった。

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藤野浩之さんとの旅-2

 

島へ島へと

藤野浩之さんとの旅-2

東京から与那国島にいく場合、当時はまず那覇に飛び、それから石垣、与那国と飛行機を乗り継がなければならない。今は東京から石垣、那覇から与那国の直行便がそれぞれにあるのだが、当時の那覇と石垣によっていくというのが友人をつくるためには幸いである。しかも、悪天になれば飛行機は欠航になるのだから何日も滞在せねばならず、顔を合わせる機会も多くなる。藤野さんそのような旅を、これまで幾度もくり返してきたのだろう。

那覇にいけば、新川さんや川満さんと酒場にくり出し、談論風発する。時には朝まで飲む。おかげで私も新川さんや川満さんと友人になった。今でも顔を見合わせれば、暗黙のうちに酒場にくり出すということになる。

石垣島では、私立文化館にいった。与儀館長は当然のことだが、ルポライターの友寄英正さんや八重山毎日新聞の上地義男さんがいる。みんな藤野さんとは旧知の間柄で、藤野さんといっしょにいるというだけで私も友人になる。途端に世界が一段と広くなるのだ。もちろんその晩は酒盛りである。泡盛は悪酔いしないので、いくら飲んでも平気だ。

与那国に飛ぶ日、風が強かった。私は民宿で朝に自転車を借り、飛行機の様子を見にいくと、すべての便に欠航の表示が出ていた。風がおさまるまで、あと何日か石垣にいなければならない。日程に余裕がないので困るのだが、無理な自己主張をしても仕方がない。

さっそく私はシマチャビ(離島苦)の洗礼を受けたのだった。

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与那国島援農隊史

 

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与那国島援農隊史

与那国の大嵩長岩さんの訃報に接した私は、与那国のことを考えた。そのすこしまえに藤野浩之さんから「与那国島サトウキビ刈り援農隊ーー私的回想の三十年」(ニライ社)が送られてきて、私はちょうどその本を読んでいろところであった。

私ははじめて藤野さんは当時共同通信社の記者で、その職業のかたわらボランティアで援農隊を組織し、与那国島に人を送り込んでいた。その慰問にいくということで、古くからの友人である私は藤野さんについていったのだ。藤野さんがいなければ、与那国島サトウキビ刈り援農隊は存在していなかったし、もちろん私と与那国島との出会いもなかったので。藤野さんの著書を参考にして、援農隊小史というものを描いてみよう。

百十一キロの海を挟んだ与那国島と台湾とは、隣人であった。ことに小さな与那国島にとって、台湾の影響は大きかった。台湾が日本の植民地の時代には、与那国の娘さんたちは台湾の日本人家庭に奉仕して、花嫁修業をしてきた。与那国島から石垣までは百二十七キロあるから、台湾との交流はごく自然なものであった八重山に水牛を持ち込んだのは台湾人であるし、砂糖キビ刈りの季節にはたくさんの季節労働者がやってきた。その与那国島と台湾にとって、一九七二年は大きな変動があった年だ。五月十五日に沖縄は日本に復帰して沖縄県となり、九月には日本と中国の国交が回復した。日中国交回復は田中角栄首相が北京を訪問しての、劇的な展開であった。台湾は中国と対立していたから、日中国交回復は即、台湾との断絶を意味した。

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与那国島援農隊史-2

 

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与那国島援農隊史-2

与那国島と台湾の間の国境は封鎖され、交通ができなくなった。これまで交通の道だった海が、壁になったのである。台湾からの季節労働者がこなくなった与那国島では、まず、砂糖キビ畑での生産が困難になった。これまでは島が過疎になってきても、出稼ぎ労働者によってどうにか困らないできたのだ。砂糖キビ畑の仕事ができなくなったのは、沖縄の他の離島も同じようなものであった。

日本では外国人単純労働者の受け入れを禁止していたのだが、沖縄の離島の現実を見ればそうも言ってはいられない。そこで沖縄復帰特別措置として、韓国から季節労働者を受け入れることにした。

同じ外国人にしても、韓国と台湾とではずいぶんと違う。台湾人とは昔から交流があったため、生活習慣はお互いに理解することができた。お互いに影響を与えあってきたので、食べ物も似ていて、言葉で苦労することはなかった。

一方、韓国人とは、食べ物も生活習慣も言葉も、何もかもが違うお互いに理解しあうためには、たいへんな努力が必要であった。言語が通じないのでお互いの意思を通わすためには通訳が必要とされるのだが、現場の畑にいちいち通訳がいるわけではない。製糖工場には、砂糖キビを満載した大型トラックがひんぱんに出入りする。キビは荷台から横にふくらみ出しているので、運転手には後方が見えない。そんな時には言葉で注意しあうのだが、肝心の言葉がわからない。そのため韓国人が車ではねられるという事故があった。死亡事故は二件起きた。

小さな島にとって、韓国から季節労働者を受け入れるということは、あまりにも負担が大きかった。労働者募集の経費、飛行機のチャーター料、口にあう食料の準備、相次いつぐトラブルと与那国島では支えきれない。

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はじめての与那国

 

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はじめての与那国

私ははじめて与那国島に立った時の印象を書こうとしている。

滑走路は海の沿ってある。飛行機のタイヤがアスファルトの滑走路に触れ、激しい揺れがあって、やがて静かになる。窓の外が与那国島なのだ。

スチュワーデスがドアを開くと、機内では乗客がほっとした様子でいっせいに立ち上がる。頭上の棚や足元からの持つを取り、外に向かっていく乗客の一人が私である。頭を縮こめていなければ、機内では歩けない。踏むと揺れやすいアルミの小さなタラップを降り、滑走路とつづいたアスファルトに立った。足元がしっかりしているので安心した気分があった。

太陽の光は強いとも感じたのだが、不思議と明るいというようには感じなかった私は新川広さんの「新南島風土記」や島尾利治さんの南島論などを読んでいて、南凕というイメージに漬かっていたからだろうか。光が強ければ当然影も濃い。そのコントラストの強さが、全体的な風光に暗さを感じさせるのだった。

ターミナルはコンクリートの箱のような建物であった。そこで迎えの人がごったがえしていた。家族の帰りを待っている人もいるのだろうが、旅の人を迎えにきた人も多いはずだ。なにしろ十九人乗りの小型機で、迎えの人のほうがはるかに多い。人を迎えるのにこんなに熱心なのは、交通ということがこの島にとって重要な要件だからであろう。

人が行き来しなければ、この島は成り立たない。人口が少なければ自給自足も可能なのだが、人口が増えたので多様な食料を運んでこなければならず、現代の生活には多様な工業製品も必要なのだ。

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はじめての与那国-2

 

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はじめての与那国-2

もちろん砂糖の生産形態が交通を必要としている。砂糖キビの茎を短く切って埋めていく蒔きつけは、時間をかければ少数でもできる。一年半かけて育てるのも島の人数だけで充分だ。しかし、刈り取りは一気にやり、刈り取ったキビはできるだけすみやかに製糖工場に運んで黒糖に仕上げる。だから製糖時期だけはどうしても島の外の人間の力が必要なのだ。

こうして外部と交通しなければならないのが、離島の宿命である。交通するのは大変なことなのだ。そのため乗客が十九人しか乗っていない飛行機が着くたび、島の心を率直にみせるような歓迎の仕方をする。小型トラックで荷物がターミナルに運ばれ、台の上にのせられる。自分の荷物をとると、迎えの人がそれぞれの車に運んでいく。あんなにごったがえしていた人も、たちまちいなくなってしまうのである。製糖作業のまっただ中で、迎えにきた人もすぐに砂糖キビ畑や製糖工場に戻らなければならないのだ。

私は援農舎の藤野浩之さんといっしょだったから、この先どうなるかなど心配することもなかった。民宿の予約もしてあったし、藤野さんと同室で泊ればよいのだ。藤野さんには援農舎スタッフの稲垣さんが、民宿の小型トラックを借りて迎えにきていた。

「飛行機は順調に飛びましたね」

迎えの人の最初の挨拶は大体このようなものだ。本当は欠航になって石垣島で一日待ったのだが、そのくらいは仕方がないことで、石垣空港を出発してから引き返しもせず無事に飛んできたというほどの意味である。

「援農隊は順調ですか」

藤野さんが問うと、稲垣さんは応える。

「順調ですよ。事故もなく、トラブルもありません」

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思いがけないヒッチハイク

 

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思いがけないヒッチハイク

「ベース・カデナにいったことがあるか」「ない」「いきたいか」「ベース・カデナ?」嘉手納基地ではないか。当時は連日連夜北ベトナムのハノイとハイフォンを爆撃するため、B52爆撃機が飛び立つところであった。B52が飛ぶ時の騒音でガラスが割れたり、井戸に油が流れ込んだり、通りからはB52を見ることができないよう基地内に高い土塁が築かれたり、とにかく当時の嘉手納基地は反戦運動の敵として、象徴的な存在であった。その嘉手納基地にはいりたいかとこの男は私を誘ったのである。

罠のようなものではないかと、咄嗟に私は思った。とにかく戦略の重要拠点である嘉手納基地は、東洋一の基地機能を持っていた。北ベトナムの爆撃、すなわち北爆の最前線基地であって、そんなところにヒッチハイクで拾った学生を連れていこうとしてる自体が、どう考えても怪しい。しかし、なんのために私を罠にはめる必要があるのかというと、それもわからない。もし私がここでふっつりと消息を断ったとしても、家族が何か月後かにどうしたのだろうと思うくらいで、誰も気にかけないのだ。

「そうだ、ベースカデナだ。行きたくないのか」

サングラスをかけた男は、車を運転しながら畳かけてくる。東京からきた学生にとっては、こんな機会はない。

「はいるのは可能なのか」

「また出てこられますよね」

私が大真面目でいうと、男は大声で笑いだしたのだった。男はハンドルをそうさしながらもう一方の腕を横に伸ばして、私の肩にかけさえもした。

「お願いします」

私はいった。もうどうなっても仕方ないがないといという思いが、私にはあった。

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思いがけないヒッチハイク-2

 

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思いがけないヒッチハイク-2

「ベース・カデナにいったことがあるか」「ない」「いきたいか」「ベース・カデナ?」嘉手納基地ではないか。当時は連日連夜北ベトナムのハノイとハイフォンを爆撃するため、B52爆撃機が飛び立つところであった。B52が飛ぶ時の騒音でガラスが割れたり、井戸に油が流れ込んだり、通りからはB52を見ることができないよう基地内に高い土塁が築かれたり、とにかく当時の嘉手納基地は反戦運動の敵として、象徴的な存在であった。その嘉手納基地にはいりたいかとこの男は私を誘ったのである。

罠のようなものではないかと、咄嗟に私は思った。とにかく戦略の重要拠点である嘉手納基地は、東洋一の基地機能を持っていた。北ベトナムの爆撃、すなわち北爆の最前線基地であって、そんなところにヒッチハイクで拾った学生を連れていこうとしてる自体が、どう考えても怪しい。しかし、なんのために私を罠にはめる必要があるのかというと、それもわからない。もし私がここでふっつりと消息を断ったとしても、家族が何か月後かにどうしたのだろうと思うくらいで、誰も気にかけないのだ。

「そうだ、ベースカデナだ。行きたくないのか」

サングラスをかけた男は、車を運転しながら畳かけてくる。東京からきた学生にとっては、こんな機会はない。

「はいるのは可能なのか」

「また出てこられますよね」

私が大真面目でいうと、男は大声で笑いだしたのだった。男はハンドルをそうさしながらもう一方の腕を横に伸ばして、私の肩にかけさえもした。

「お願いします」

私はいった。もうどうなっても仕方ないがないといという思いが、私にはあった。

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与那国町農協の危機

 

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与那国町農協の危機

一九七0年代、与那国島の砂糖キビ畑は畑の土地改良が進んでいず、畑は起状があって石が多く、生産性が低かった。また海からの潮風が強く、塩害を受けやすくて、砂糖キビそのものの生育も悪い。そんな悪条件の中で懸命に生きている与那国島の人々を、当時共同通信社の記者であった藤野雅之や黒田勝弘は、援農隊を組織して援助をしようとしたのだった。援農隊の出発を三日後に控えたある日

与那国町農協から突然電報がはいり、出発を見合わせるようにといってきた。藤野氏は何とか農協に連絡を取ろうとしたが、どうもらちがあかない。一体何があったのか。新聞記者の特技を生かし、共同通信那覇支局の記者にも協力してもらい、与那国農協に何が起こったのかを調査した。

一九七五年沖縄海洋博のとしである。沖縄の日本復帰を祝う経済イベントでもあった沖縄海洋博は、特に沖縄では盛り上がっていた。海洋博に関する海運会社に、与那国町農協が投資をした。その資金は、もちろん組合員の預金である。

その海運会社が倒産し、与那国町農協は三億円の損金をかぶることになってしまった。この他にも闇の部分があり、与那国町農協の名前で導入預金を集め、しかも裏金利までつけていたというのだ。与那国農協は製糖事業は経済の支えなので必ずやらなければならなかったが、援農隊を島に迎えても、約束の資金を払えるかどうかわからなくなってしまったのだ。

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与那国町農協の危機-2

 

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与那国町農協の危機-2

援農舎とすれば選考会まで開いて人を集め、与那国島に送り出すばかりに準備を整えていたのである。出発まで中二日しかなく、出発をみあわせろといわれてもすでに家をでてしまった人もいる。すでに矢はなたれているので、弓にもとのとおりにおさめろといっても無理な話である。

とにかく電話をしまくり、晴海埠頭にいって援農隊の参加者をつかまえた。理解して家に帰った人もいたが、沖縄にいって他に働き口を見つけるといってそのまま出発していった人もいた。

藤野氏たちはあらゆるつてを頼り、キビ刈り援農隊の受け入れ先を探した。八重山毎日新聞が協力をしてくれて呼びかけてくれ、石垣島と小浜島に十人に満たない数が受け入れられた。

一方、当の与那国島では農協の幹部がそのような失態をしたのだが、砂糖キビはどんどん育っていく。刈り取るべき時に刈り取り、製糖をしなければ、島は本当に倒れてしまうのだ。砂糖キビの立ち枯れは、島の立ち枯れを意味すた。そのために与那国町長は沖縄県農協中央会に製糖工場の操業を肩代わりしてくれるようにと要請していた。

沖縄県や沖縄県農協中央会では、与那国島の援農隊受け入れはそもそも反対の立場であった。そもそも失業者の多い沖縄に本土からの労働者をいれたら、ますます

失業者が増えるといえるのである。しかし実態は与那国島のような離島に、沖縄本島から砂糖キビ刈りの季節労働者がはいるのはまったく稀なことだった。

そうであったが、沖縄県も沖縄県農協中央会も、与那国島に援農隊を受け入れないよう指導していたのである。

このような状況で、砂糖キビの収穫はいやおうなくはじまっていた。韓国から季節労働者が四百名近くはいってきたが、沖縄県全県下にであり、与那国島にはこない。与那国島では援農隊をあてにしていたからである。援農隊がこなければ、与那国島ではどうにもならないところまで追いつめられていた。

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