島抜け伝説

 

島へ島へと

島抜け伝説

島は閉鎖された世界である。共同体の構成も濃密である。いわば息が詰まる世界なのだ。そんな世界が居心地がよいという人もいるのだろうが、それはそとの世界を知らないという要素も強いからであろう。

周囲を海で囲まれた島は、船がなければ外にでることもできない。船をつくるためには、森に木があり、造船のぎじゅっが必要だ。また操船をする技術もいり、未知の世界に入っていくという勇気もなければならない。

思いついたからといって、誰でも簡単に島を出ていくことができるというわけではないのである。泳いでいけば身体一つあればよいのだが、命懸けである。黒潮を泳ぎ切って別の島に行く体力と気力がある人は、そんなにいるとは思えない。しかしながら、たとえ孤島であっても現実が苦しければ、その現実から逃れたいという思いを抱くのは当然である。

与那国島には南与那国(ハイドゥナン)に渡ったという、島脱けの伝説がある。池間栄治氏「与那国の歴史」には、与那国島の口癖が記録されている。島の人たちはそれぞれに屋号を持っている。比川の浜川屋、兼盛屋、兼久屋、後間屋の人たちが、人頭税の苦しさから逃れるために、南方にあると信じられている楽土、南与那国に脱出したという。もちろん海上に楽土などないから、うまくいって台湾に上陸できた可能性もあるが、遭難して海に消えたと考えるのが無難であろう

「与那国の歴史」によると、一九O五年に編纂された「八重山年来記」には、波照間島の南には南波照間島という楽土があると信じられていて、平田村の四十五人の男女が船出したことが記録されているということだ。四十五名とは、離島にとっては大変な数字である。この事件により、波照間首里大屋子が免官になったと記録されているということである。人頭税をとられるほうが最も苦痛であろうが、とりたてるほうもそれなりの苦しみを得ていたということである。

池間栄治氏は「与那国の歴史」に次にように書く。「このように人頭税の苦難は他殺及び自殺を出し、或いは脱島逃亡者を出して、八重山かの人口は年年減っていった。「八重山年来記」によると、一六五一年八重山全体の納税者頭数は五二三五人で、その内与那国島はわずかに一二四人であった」

波照間島はより小さいにせよ、与那国島と似たり寄ったりであろうから、一つの村から四十五人も脱出するということは全体の率からすれば大変なことだ。役人が免官になるのも当然のことである。

今日、私たちは海の彼方に楽土などないと知っている。幸福がほしいのなら、遠くの海の向こうではなく、自分の踏みしめるこの土の上につくらなければならない。そんなことは、いくら十八世紀か十六世紀の人でも、当然のこととしてわかっているだろう。しかし、理想を願っても過酷な現実に押し潰されてしまう。逃げる場所はどこにもないのである。それならどうするか。楽土を求めて海の彼方に旅立ったという島脱けの伝説は、その楽土の存在を信じたくないのではなく、集団的な自殺だったのではないだろうか。絶望的な心理のうちの何割かは、もしかするという期待のあったのかもしれない。しかし、そんな夢のような期待よりも、現実のほうが遥かに過酷であったということだ。その苦しい現実から逃れる唯一の方法が、集団自殺であったのである。もしそうであったら、まことにいたましいといわなければならない。

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