島抜け伝説-2

 

島へ島へと

島抜け伝説-2

 

「与那国の歴史」によると、一九O五年に編纂された「八重山年来記」には、波照間島の南には南波照間島という楽土があると信じられていて、平田村の四十五人の男女が船出したことが記録されているということだ。四十五名とは、離島にとっては大変な数字である。この事件により、波照間首里大屋子が免官になったと記録されているということである。人頭税をとられるほうが最も苦痛であろうが、とりたてるほうもそれなりの苦しみを得ていたということである。

池間栄治氏は「与那国の歴史」に次にように書く。「このように人頭税の苦難は他殺及び自殺を出し、或いは脱島逃亡者を出して、八重山かの人口は年年減っていった。「八重山年来記」によると、一六五一年八重山全体の納税者頭数は五二三五人で、その内与那国島はわずかに一二四人であった」

波照間島はより小さいにせよ、与那国島と似たり寄ったりであろうから、一つの村から四十五人も脱出するということは全体の率からすれば大変なことだ。役人が免官になるのも当然のことである。

今日、私たちは海の彼方に楽土などないと知っている。幸福がほしいのなら、遠くの海の向こうではなく、自分の踏みしめるこの土の上につくらなければならない。そんなことは、いくら十八世紀か十六世紀の人でも、当然のこととしてわかっているだろう。しかし、理想を願っても過酷な現実に押し潰されてしまう。逃げる場所はどこにもないのである。それならどうするか。楽土を求めて海の彼方に旅立ったという島脱けの伝説は、その楽土の存在を信じたくないのではなく、集団的な自殺だったのではないだろうか。絶望的な心理のうちの何割かは、もしかするという期待のあったのかもしれない。しかし、そんな夢のような期待よりも、現実のほうが遥かに過酷であったということだ。その苦しい現実から逃れる唯一の方法が、集団自殺であったのである。もしそうであったら、まことにいたましいといわなければならない。

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