島抜け伝説

 

島へ島へと

島抜け伝説

島は閉鎖された世界である。共同体の構成も濃密である。いわば息が詰まる世界なのだ。そんな世界が居心地がよいという人もいるのだろうが、それはそとの世界を知らないという要素も強いからであろう。

周囲を海で囲まれた島は、船がなければ外にでることもできない。船をつくるためには、森に木があり、造船のぎじゅっが必要だ。また操船をする技術もいり、未知の世界に入っていくという勇気もなければならない。

思いついたからといって、誰でも簡単に島を出ていくことができるというわけではないのである。泳いでいけば身体一つあればよいのだが、命懸けである。黒潮を泳ぎ切って別の島に行く体力と気力がある人は、そんなにいるとは思えない。しかしながら、たとえ孤島であっても現実が苦しければ、その現実から逃れたいという思いを抱くのは当然である。

与那国島には南与那国(ハイドゥナン)に渡ったという、島脱けの伝説がある。池間栄治氏「与那国の歴史」には、与那国島の口癖が記録されている。島の人たちはそれぞれに屋号を持っている。比川の浜川屋、兼盛屋、兼久屋、後間屋の人たちが、人頭税の苦しさから逃れるために、南方にあると信じられている楽土、南与那国に脱出したという。もちろん海上に楽土などないから、うまくいって台湾に上陸できた可能性もあるが、遭難して海に消えたと考えるのが無難であろう

「与那国の歴史」によると、一九O五年に編纂された「八重山年来記」には、波照間島の南には南波照間島という楽土があると信じられていて、平田村の四十五人の男女が船出したことが記録されているということだ。四十五名とは、離島にとっては大変な数字である。この事件により、波照間首里大屋子が免官になったと記録されているということである。人頭税をとられるほうが最も苦痛であろうが、とりたてるほうもそれなりの苦しみを得ていたということである。

池間栄治氏は「与那国の歴史」に次にように書く。「このように人頭税の苦難は他殺及び自殺を出し、或いは脱島逃亡者を出して、八重山かの人口は年年減っていった。「八重山年来記」によると、一六五一年八重山全体の納税者頭数は五二三五人で、その内与那国島はわずかに一二四人であった」

波照間島はより小さいにせよ、与那国島と似たり寄ったりであろうから、一つの村から四十五人も脱出するということは全体の率からすれば大変なことだ。役人が免官になるのも当然のことである。

今日、私たちは海の彼方に楽土などないと知っている。幸福がほしいのなら、遠くの海の向こうではなく、自分の踏みしめるこの土の上につくらなければならない。そんなことは、いくら十八世紀か十六世紀の人でも、当然のこととしてわかっているだろう。しかし、理想を願っても過酷な現実に押し潰されてしまう。逃げる場所はどこにもないのである。それならどうするか。楽土を求めて海の彼方に旅立ったという島脱けの伝説は、その楽土の存在を信じたくないのではなく、集団的な自殺だったのではないだろうか。絶望的な心理のうちの何割かは、もしかするという期待のあったのかもしれない。しかし、そんな夢のような期待よりも、現実のほうが遥かに過酷であったということだ。その苦しい現実から逃れる唯一の方法が、集団自殺であったのである。もしそうであったら、まことにいたましいといわなければならない。

沖縄へのラブレター

 

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沖縄へのラブレター

与那国農協は事実上倒産状態にあり、製糖工場を葬儀用資金はない。しかし、畑には砂糖キビが刈り取りを待つばかりに育っていって、時機を逃せば立ち枯れになる。倒産は農協ばかりではなく、個々の農家にもおよぶであろう。まさに土壇場まで来ているのに、援農隊は東京を出発できないでいた。苦労して準備してきた援農隊にとっても、我慢の限界にきていた。そこで藤野浩之さんは沖縄タイムスと琉球新報に「与那国島サトウキビ刈り援農隊アピール」を出す。藤野さんの著書「サトウキビ援農隊」より、そのアピールの内容を要約する。沖縄の離島では労働人口の極端な不足に苦しみ、本土では沖縄の風土と文化をもとに労働をして学ぼうという希望がある。沖縄県の失業率が高くなっていることも知らないわけではないが、援農隊を送ることは与那国島にとっても、現地での生活体験を望む人にとっても有意義のはずである。

与那国島農協との二年越しの話し合いの条件を示して本土で募集したところ、定員六倍の募集があり、そのうち八十人を選考した。この中には会社を辞めて参加を望んだ人もいる。出発予定日の三日前に、電報で与那国農協より出発延期の要請があった。援農隊ではとりあえず出発延期を決め、参加者に知らせた。アピール文は次のようにつづく。

「私たちは、今沖縄の人びとが抱えているさまざまな問題を少しでも共有したいと思います。私たちは単なるキビ刈り労働力としてだけ与那国島に出掛けて行くのではありません。援農隊の趣旨は、単なる観光旅行ではうかがい知ることのできない沖縄の現実を、生活と労働を共にすることで共有するということです。今回の与那国援農隊がそのきわめて有効な試みであると信じています。そして、さまざまな困難な問題を乗り越えて、今回の援農を成功させることが、沖縄と本土の新しいつながりの一歩となることを私たちは期待しています。」

一九七六年一月二十一日の日付があるから今から三十一年前に書かれた文章を読み、ウチナーとヤマトの距離を感じるとともに、その差が表面的に薄まり、ウチナーとヤマトもグローバルスタンダードの荒波にもまれたことを私は感じるのである。苦しい条件の含めて与那国島はどこまでも与那国島であり、ウチナーはウチナーで、ヤマトはヤマトであった。その文化の差異を感じることが、旅の深い楽しみであった。差異を感じたなら、自分たちが身に帯びている風土や文化への客観的な視座を持つことができる。

このアピール文は藤野さんによるラブレターなのだと私には思える。恋する相手は、正確な情報がないのでよくわからないのだが、自分の気持ちはまったく変わっていないと呼びかけている。恋人を案じる気持ちが、今からではいじらしいような感じがする。私は同じ時間の中でこのアピール文に接したのではないが、同じ気持ちを持っていた。「沖縄の現実を生活と労働を共にすることで共有する」という問題意識である。若い私たちは砂糖キビ畑でともに汗を流すことが可能でこの方法が沖縄の真相に触れるのに最も有効で手っ取り早い方法だと思えた。私も藤野さんとじかに話して共鳴するところが多く、そのアピールから四年後の一九八O年に援農隊に参加している。

この真情あふれるアピールが沖縄の新聞に載ると、さっそく大きな反響があった。

 

闇のドル買い

 

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闇のドル買い

アルバイトをしてコツコツ貯めた所持金はもともと少なく、それをできるだけ有効に使いたい。そう考えるのは、旅人の常識である。安いというここと、心が踊るということが、よい旅をしているかどうかのバロメーターだ。私が当時していた旅は、安いところが最善だったといえる。

私は日本円を持っていて、沖縄ではドルでなければ使えない。両替をしなければならないので、ここに隙間ができる。当時私は隙間で生きていたといえる。最初は必要な分だけ東京の銀行で円をドルに替えていったが、やがて沖縄で両替したほうが有利なのだと気づいた。闇ドル買いである。

市場通りと国際通りが交差する那覇の繁華街の中心あたりにブラックチェンジの場所があった。周りは人間が多くて、白昼堂々と何をしているかみんな分かっていた。通りすがりの人に「お金の両替所はどこですか?」と尋ねると、その場を必ず教えてくれた。教えるほうも教えられるほうもコソコソした気分はなく、交番の場所を話しているような感じだったのである。

那覇最大の大通りの市場通りと交わるほんの小さな広場になったような所に、ワンピースを着たアンマー(叔母さん)たちがたむろしていた。アンマーなら誰でも着ている安物の普段着に必ず手さげ袋を持っていた。その中には商売道具の現金と計算機が入っているのだ。「兄さん、しないねー」何気ないふりをして前を通のだが、必ず私はアンマーに声をかけられる。心の中を読まれているのだ。ゴム草履にTシャツにジーパンで沖縄の人たちと全く同じ服装をし、私のような顔たちをした男もいるはずなのに、いとも簡単に見破られる。一言でも交わそうものなら、もう絶対に逃げられない。偽るつもりはないにせよ、どのようにしても私はヤマトンチューなのだ。アンマーにしてみれば、ポケットの円を米ドルに両替したがっているヤマトンチューなのである。私にしたら、1ドルをいくらで売ってもらえるのかというのがただ問題である。公定レートでは1ドルは360円の固定であった。「355円」尋ねもしないのに、アンマーは1人で呟くようにして言う。「高いよ」こう言って私は隣のアンマーにレートを尋ねる。「355円」みんな同じである。いつも同じ場所で高売りをしているのだから、協定をしているのであろう。私はいわれた通りのレートで20ドル替え、100円儲けるこの100円が貴重なのである。

苦しい船旅

 

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苦しい船旅

お欣和になぜ行こうと思ったのか。私は大学二年生、十九歳だった。十九という年齢を覚えているのは、免税店で酒を買えなかったからである。一九六八年当時沖縄は日本にとっては外国だったのだ。

私は外国旅行をしようとしたのではない。当時はベトナム戦争が激化し、その後方基地としての役割をはたしていた沖縄の位置が理不尽であるとかんじていた。ベトナムで戦われていたベトナム戦争は、世界戦争の危機をはらんでいて、拡大した戦火がいつ沖縄にやってこないとは限らなかったからだ。

「民族の怒りに燃える島、沖縄を返せ、沖縄を返せ」と歌いながら、私は東京の竹芝桟橋から琉球海運の船に乗ったのだった。実態は組織にも属さない単なる一学生であったのだが、気分は民族主義者だった。インターナショナルなものを求めながら、こと沖縄となると、とたんに民族主義者になったものだ。本土の多くの学生たちが、私と同じ気分だったはずである。そんな表面的な政治状況とは別に、私は北関東のはずれ、冬になると乾いた冷たい空っ風が吹きまくる栃木県宇都宮市の生まれ育ちである。沖縄の風土とはまったく違う。しかし、私の母方の地は関西はずれ、兵庫県朝来郡、つまり但馬の、生野銀山にあった。渡り坑夫として栃木県の芦尾銅山に流れてきて、その子孫が私なのである。つまり、私という一個の血をとってみても、交通してきたことがわかる。

南へ欲求というものは、自分でもよくわかっていないながら、血の奥にはっきりとかんじていたのだ。そのことが政治状況とは別に、よんどころないものとして私を動かす根源的な泉であった。

故郷を離れて東京に遊学し、まだ二年目である。旅に出たという気分はあったが、吹きくる風に誘われても身も世もなく身体を動かしてしまうというような強いものでもなかった。なんとなく南に行きたい。その場に自分を置き、皮膚と血がどのような作用をすゆのか感じてみたい。そして、もしかすると遠い先祖たちの故郷として感じられるかもしれない沖縄が、アメリカ軍の統治化にあり、ベトナム戦争の火を受けるかもしれないのだ。実際、嘉手納基地からはB52戦闘爆撃機が北ベトナムのハノイやハイフォンに爆撃にいっていたから、ベトナムに報復されても仕方ない立場にあったのだ。若い私の内部は混沌とした感情が渦巻いていた。社会の影響を受けてもいた。

東京湾を出航する船旅は、未知への不安と船酔いとで苦しいものであった。二泊三日ほど、三等のすえた臭気のする船室で、他人の体臭の染み着いた湿った毛布にくるまり、じっとしていた。立ち上がると、伊の奥から酸ぽいものが込み上がってくる。それまで気分は悪くなかったのに、トイレに行こうと立ち上がった瞬間、一気に嘔吐感に襲われる。

横たわっていても波の乗って持ち上がっていき、登りつめたところでほうり出されるようにしてふわっと落ちる。これを際限なく繰り返すので、胃の中は空っぽで疲れ切っているはずなのに、頭が冴えて眠れない。

沖縄の旅は、苦しいものであった。

それでも沖縄に行きたかった。

コンビーフなるもの。

 

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コンビーフなるもの。

「サンドイッチシャープ」は、いまでいうフェースとフードの店である。今時のハンバーガーショップと違うと違うのは、ガラスケースにおさまっているサンドイッチはどれも店のおばさんの手づくりだということである。カウンターについて好みのサンドイッチをとってもらい、コーラで食べる。今考えれば、これこそアメリカン的である。

私が一番好きなのは、コンビーフ炒めだった。玉ネギやキャベツを切り、コンビーフとともにフライパンで炒める。御飯と味噌汁がつく。要するにランチなようなものである。

恥ずかしい話なのだが、栃木県に生まれて東京で学生生活を送っていた私はコンビーフは極めて御馳走だったのだ。ほとんど食べたことがないといってもよい。

宇都宮で私の母は小さな飲食店をやっていたから、もちろんコンビーフの缶詰は見たことはある。だがそれは高い棚の上にならんでいて、こどもにはとても手に届かない。母の店で最も高価なのがコンビーフの缶詰で、つぎが鮭缶だった。正月でもなければコンビーフは食べられなかった。それも薄く切って、刺身のように醤油につけて食べるのだった。沖縄にくると、コンビーフなどいくらでもある市場通りにいくと、アメリカ製の缶詰が山と積まれている。国産品よりアメリカ製の缶詰が百倍上等だと思っていたから、正直にいうと私は沖縄の部室的な豊かさに圧倒されたのだ。いくら驚いたところで、金がないのだから何も買うわけではなかったのだが・・・・。「サンドイッチシャープ」で食べるコンビーフ炒めは、私のとっては沖縄から眺める豊かなアメリカだった。なにしろ牛肉などほとんど食べたことがなかったのだから、糸のように切ってある牛肉の味は心からうまいという感じだったものだった。それに安いことが嬉しい。私はコンビーフ炒めライスが食べたくなれば「サンドイッチシャープ」の看板を探す。そうでなければ沖縄風の食堂にはいって、ゴーヤーチャンプルやトーフチャンプルや中味汁や足テビチや魚汁に御飯をつけて食べた。

何を見ても食べても珍しかった。栃木や東京での暮らしと、まったく違ったからである。アメリカ製品は東京暮らしからもうかげえる憧れであったが、ゴーヤチャンプルや足テビチは私には本当に珍しいものであった。東京からうかがうのではなく、後に旅をくりかえすことになるアジアの空気とつながるのもであり、本当は幼いころから栃木あたりの生活でひたっていた水脈なのである。その時は不分明ながら、ゴーヤチャンプルの苦味を噛みしめつつ私が感じようとした魂の古層がそこにあるのだ。

でもその当時の私は、表面の賑わいに浮かれてコンビーフ炒めをせっせと食べたのだった。

離島農業の現実

島へ島へ島へと

離島農業の現実

まるで呼び寄せているかのように、困難は次から次へとよびよせている。製糖工場の寮は使えず、民宿に泊めてもらうことにしたが、急なことで蒲団が足りない。その晩は米軍払い下げの寝袋などを使ってどうにか過ごし、翌日に毛布を石垣から飛行機で運んでもらう。枕は藤野さんや他のスタッフや農協の女性職員が縫ってつくってくれた。与那国農協や町があれほど熱心によんでくれたのだが、実際にきいてみると、受け入れ態勢がまったくできていない。

肝心の作業をはじめることもできない。砂糖キビの製糖工場は農協に変わって沖縄県経済連が操業することになったのだが、工場買取りや創業資金を融資したのは県信連で、収穫した砂糖キビ原料一トン当たり二千万円を農家から差し引くとの条件が出されていた。農家は一日二百トンの原料を搬入しなければならない。などの厳しい条件が出されたこともあり、反発もあって話がまとまっていなかったのである。農家は農協に預金しているのだが、その預金は完全に凍結されていて、キビ一トンにつき二千円引き出されるということは、唯一の収入がより細かくなるということなのだ。また労働力の少ない与那国島では、毎日二百トンを収穫しつづけるのははじめてのことである。あまりに過酷な条件は、簡単にのむということではない。最後の一線で農家もゆずれないと踏ん張っていた。

援農隊にとって、島の事情は寝耳に水のlpとである。

農家に同情はあっても、踏み込むことのできない世界であった。時代の谷間に落ちて翻弄されている。やっと与那国島までやってきたのに働くことができず、何もしないでいるだけでも経費がかかる。少なくとも民宿代は毎日必要なのだ。

製糖工場が操業していないから、キビを刈り取ることはできない。どうにもならないところに追い込えいるのは明らかだ。何もしないでも民宿代がかかるのなら、やれることはないかと考えた。

砂糖キビは刈り倒してから、葉を落とし革を剥き、結束して製糖工場に運ぶ。その順番を変えたらどうかというのだ。まず砂糖キビは刈り倒さず、立っているままで葉を落とし皮を剥き、条件が整ったところで刈り倒そうというのである。そうすれば、あとは刈り倒しただけで、製糖工場に搬入することができる。製糖原料としてのキビは、刈り倒したらできるだけすやかに製糖工場に運ばなければ、糖度が落ちる。畑に立っている砂糖キビを先に葉を落とし皮を剥くというのは、前代未聞のことで、糖度が落ちて原料として品質が悪くなるのは当然である。しかし、援農隊としては遊んでいるわけにはいかない。

現場でそんなジレンマに陥っているのに、援農隊の第二陣の募集があ¥はじまり、すでに東京を出発した。あまりゆっくりしていたのでは製糖の時期が終わってしまうということで、飛行機で与那国島にやってきた。

それでもまだ製糖工場は操業をはじめることはできず、第二陣も葉落とし作業とし作業をやるしかなかったのである。畑では刈り倒せば風も抜けて涼しいのだが、立っている砂糖キビは葉を落としたくらいでは暑い。そして、先の見えないことが、何よりもつらかった。

新聞社から有給休暇をもらって付き添ってきた藤野さんは、東京に帰らねばならなかった。もちろん他のスタッフがいたのではあるが、援農隊の一人一人が離島農業の厳しさを身をもって体験することになったのである。善意だけではどうにもならない。

辺戸岬の奥

 

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辺戸岬の奥

沖縄本島の最北端の辺戸岬(へどみさき)は、鋭くそそれ立隆起サンゴ礁の断崖である。サンゴ礁の石灰岩がナイフのように尖ってならんでいて、ゴムゾウリでは歩きにくいことこの上ない。与論島が水平線に望まれる。

沖縄がアメリカ軍政下にあって当時、辺戸岬は本土が見える唯一のところであったのだ。年に一度、沖縄側からと与論島川から船を出し、境界線上の海で集会を持った。そんなことが大々的に報道されたものである。

ヒッチハイクで沖縄をまわっていた私は、辺戸岬にいった。会場集会のある日でもなく、高い山もない与論島は、穏やかな陽の下で波の間に間に浮かんでいるかのように見えた。私が常日頃思い描いている南島のイメージそのものだったのである。

浜から赤土を歩いていると、農作業帰りのトラックに出会った。手を上げると止まってくれ、運転していた男はこれから奥という集落に帰るという。地図で改めて見ると、奥という集落がある。その先があるならいってみようというのが旅の情けであるから、奥という名の集落にいってみることにした。

細かなことは忘れてしまったが、奥は山のゆるい坂を下りたところに開けた小さな集落であったと思う。茅葺きの屋根の家もまだ残っていた。二人で旅をしていた私たちは、トラックの荷台に乗っていた。集落は空と大地との間にはさまっているかのように見えたことを覚えている。

運転していた人が世話してくれ、私たちは公民館に泊まることになった。そこは土間のある公民館だったとぼんやり記憶がある。十五人ほどの団体の先客があり、私たちは隅の土間のほうに寝ることにした。夜露を防げるだけでありがたかった。

先客は琉球大学の学生たちであった。私も東京の学生だから、お互いに珍しくていろんな話をした。その内容までは覚えてない。そのうち学生たちは座敷に座布団をならべ、座敷の隅のほうを

舞台にした。

夜になると、集落の人が一人二人と集まってきた。さして広くもない公民館の内部は、人でいっぱいになった。みんなこの夜を楽しみにしているふうな顔であった。学生のリーダーが挨拶をし、学生たちによる寸劇や楽器の演奏がはじまった。私たちも土間の端から見ていた。日本復帰前で那覇のあたりは政治活動がさかんであったのだが、学生たちの演じるものに政治的要素はなかった。この村の人たちすら楽しんでもらおうというのであった。都市の学生と村の人の積極的な交流の場に接したことのない私たちは、不思議な世界であった。昔の山村工作隊もこんなものだったのだろうかと、私は考えてみたりもした。

学生の出し物が終わると、集落の側からの返礼とばかりに泡盛が一升壜で何本もだされ、三線と太鼓がでて、歌と踊りとがはじまった。私たちにも泡盛がふるまわれ、たちまち大宴会の様相を呈してきた。東京からきた大学生の私たちは、珍客であった。琉大の学生も集落の人も、私たちを大切にしてくれたのだが、どうしても一線があった。外部の私たちがいるために、琉大の学生と奥に人は同じアイデンティティを持つ沖縄人としてむしろ強い意識が働いているように、私には思えたのだ。

賑やかな沖縄らしい宴会に入ったのは、私にははじめてもことだった。

アメリカの万年筆

 

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アメリカの万年筆

沖縄に行けばアメリカ製品が買えた。ウィスキーとか缶詰はそれほど欲しいとは思わなかったが、どうしても欲しいものがひとつだかあった。万年筆である。

パーカー万年筆は当時高嶺の花で、学生の身分ではとても手にはいらなかった。沖縄でも高いことは高いのだが、それでも本土に比べればずいぶん安い。一点豪華主義で、万年筆を一だけは本買いたかった。

その代金はなんとなく準備していたのだが、安いことにこしたことがない。そのために安く売っている万年筆屋を探すことになる。当時のバックパッカーの情報は素早くて正確だった。ユースホテルありで何人かに欲しい情報を尋ねると、ああそれならどこそこへ行けということになる。

記憶が正確ではないのだが、仲宗根万年筆店というのだったか、市場通りに面するあたりに、万年筆専門の小さな店があった。土産屋の一角で万年筆を売っていることはあっても、万年筆しか売っていない店は珍しい。

店に入ると、一見気難しそうな親父がいる。こちらが内地からきた学生で、本当に万年筆を求めてきたのだということはわかると思う。親父は特に親切ということではないが、つっけんどんというのでもない。

「気にいったのがあったら、インクをつけて書いてみたらいいさー」ガラスのショーケースをのぞき込んでいる私に、親父は声かけてくる。万年筆は外見から見ても良し悪しはわかるものでもない。私は手頃の値段の一本を指差す。

親父はそれをとって、ガラスの上に置いてくれる。それからインク壜の蓋をとってくれる。新しい万年筆のキャップを回転させてはずし、金色のペン先をほんのわずかインクの液体にひたす。どっぷんとひたすと新品の万年筆が汚れてしまう気がするのだ。

傍らに置いてあるメモ用紙に、丸をいくつもずらしながら書いてみる。万年筆はちょっと書いたくらいではそのよし悪しはわかるはずもないのだが、感触ぐらいはわかる。ちょっとペン先が硬いかなあという気もして、別の万年筆をとってもらう。試し書きをしても、それでわかるはずもない。

またきますといって、結局店を出てしまう。気負いが強すぎるため、一本の万年筆を選ぶことができないのだ。親父はこちらの気持ちを見通していて、またいらっしゃいとさり気なく言ってくれる。一まわりして、またくることになる。あるいは翌日、翌々日にきて、同じことをくり返し、確信が持てないまま一本を買うことになるのだ。その店では一番安いものかもしれないが、私にとっては最高級品である。

インクはたっぷりいれてもらった。ケースにいれたまま鞄にしまってあるのだが、晴れがましい気分である。さっそく使ってみたいので、土産屋で絵葉書を買い、昼食をとる食堂のテーブルでさっそく書きはじめる。故郷の親に旅先から手紙などだしたことなどないのに、新しい万年筆のおかげで親に孝行まがいのことをするようになる。友人たちも片っ端らから絵はがきを出す。

絵はがきを読んでもらうというより、万年筆を使いたいというただそれだけのことである。おそらく、自分自身への土産はその万年筆一本だけだったはずである。

ハーバーライトホテル

 

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ハーバーライトホテル

旅に対する沖縄の人々の解放的な気分も、若い旅人には新鮮だった。夕方近くになって、その日の寝る場所のことが心配になる。日の暮れたところがその日の宿と決め、たとえば港の船着場のテントで夜露をしのんで眠る時、私はその場所をハーバーライトホテルと呼んでいた。テントも持っていない旅人だったから、突然降りかかる雨をさけるためにも、屋根ぐらいはほしかったのだ。

那覇港は軍港という雰囲気であったから、私のハーバーライトホテルは、那覇市ならば離島航路のある泊港であった。ここがやっぱり平和でよく、野宿をする怪しい旅人でも追い出されることはなかった。

平らなところを見つけて近づいてきた男が声を出す。

「なにやっているのさー」

私はしどろもどろになりながら、東京の学生で、無銭旅行をしていて、ここで静かに寝かせてもらっていることを説明する。自分は怪しいものではないといえばいうほど、私は怪しくなってくる。無銭旅行はまったく金を使わないで旅行をするわけではないにせよ、あっちこっちでみんなに迷惑をかけているのだ。

東京からきたんですかー」

男はいう。酔っぱらっている様子だ。私は心細くなって声を返す。

「はい」

「学生さんですかー」

「はい」

「こっちにきて顔を見せなさいねー」

私は旅人でで弱い立場だから、寝袋よりごそごそとはいだして男の前に立つ。襲われたらどうやって逃げようかなどと、私は胸の中で考えている。

「それじゃこれから酒を飲みにいきましょうね。沖縄にきて、泡盛も飲まないで、こんなところに寝ていたらいかんでしょう」

思わぬ展開に私も驚いてしまい、いこうかいかまいか悩んでいる。ぐずぐずしている私に、男はいう。

「そんなもの、誰もとらんでしょう。よほど大切なものは持って、あとはそのままにしていったらいいさあ」

そのとおりにして私は男のあとをついていくのだ。沖縄が日本に復帰する前のことで、沖縄と日本の一般の人がそれほど交流をしていたわけではなかった。私のようなヤマントチューが、沖縄の人に少し珍しかった時代である。お互いを呼び合うような気持で、興味を持っていた。タクシーに乗り、たぶん桜坂あたりにいったと思うのだが、はっきりしない。ネオンのついた店にはいり、ピンクの照明に照らされたカウンターについた。若くはない女が一人カウンターにいて、徳利で猪口に泡盛をついでくれた。一見怪しそうだったが、照明が妙なだけで、怪しいところはまったくない。それでも私は慣れていなかったので、ドキドキしてしまった。

男はタクシーで泊港に落としてくれ、私は寝袋に入って眠った。このようなことは、何度も体験した。あの親切さは、沖縄を旅して今でも感じることだ。

後年、私は泊にできた大きなホテルに宿泊した。窓から外を見ると、たまらないほどに懐かしい泊港があった。水銀灯に照らされている港を、ガードマンが歩き回っていた。野宿をしようとしたら、たちまち追い立てられるだろう。

私のハーバーライトホテルは、消えてしまったのだ。

藤野浩之さんとの旅

 

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藤野浩之さんとの旅

紆余曲折の中で与那国島へのサトウキビ刈り援農隊がはじまったのが一九六七年で、私がそれに興味を持ち参加をしたいと願ったのは、援農舎の藤野雅之さんから話を聞いたのが直接のきっかけであった。

一九七九年二月に藤野さんは援農隊が現地でうまく溶け込んでいるか観察し、また援農隊員を励ますために、与那国島に行く計画を立てているということであった。藤野さんは共同通信社の記者で、私は昔からの友人であった。その頃私は長編小説「遠雷」で野間文芸新人賞を受賞したばかりで、何かと忙しかった。援農隊に参加して二ヶ月も三ヶ月も家をあけるのは無理だったが、藤野さんが休暇をとっていく一週間ほどの旅なら、私も同行することができる。今回は援農隊の様子を見て、来年改めて時間をとって畑で働けばよいのである。

そのようなことにたちまち話が決まり、私は藤野さんとともにまず那覇にいった。宿泊したのは、援農隊がよく泊まる民宿であった。共同通信社の支部は沖縄タイムスビルの一室にあるので、そこを訪問すると、沖縄タイムスの新川明さんや川満信一さんを紹介された。雑談の折、私が復帰前に那覇の波之上のアメリカ兵向けのナイトクラブで働いたという話をした。その店はAサインではなく、Aサインが閉まったあとに開くモグリ営業だったのだ。折からベトナム戦争が激しく、私は客のアメリカ兵を通して裏側から戦争を見ていた。

そんな話をすると、それを書きなさいと新川さんにいわれた。新川さんも川満さんも復帰運動をリードした知識人だったが、当時は沖縄タイムスの編集幹部だったのだと思う。さっそく私は原稿用紙とボールペンを借り、片隅の机で書いた。その文章は数日後の新聞に掲載された。

藤野さんと沖縄にいると、どこにでも知人がいる。沖縄との親密な付き合いをしてきた人だということがよくわかるのだ。

東京から与那国島にいく場合、当時はまず那覇に飛び、それから石垣、与那国と飛行機を乗り継がなければならない。今は東京から石垣、那覇から与那国の直行便がそれぞれにあるのだが、当時の那覇と石垣によっていくというのが友人をつくるためには幸いである。しかも、悪天になれば飛行機は欠航になるのだから何日も滞在せねばならず、顔を合わせる機会も多くなる。藤野さんそのような旅を、これまで幾度もくり返してきたのだろう。

那覇にいけば、新川さんや川満さんと酒場にくり出し、談論風発する。時には朝まで飲む。おかげで私も新川さんや川満さんと友人になった。今でも顔を見合わせれば、暗黙のうちに酒場にくり出すということになる。

石垣島では、私立文化館にいった。与儀館長は当然のことだが、ルポライターの友寄英正さんや八重山毎日新聞の上地義男さんがいる。みんな藤野さんとは旧知の間柄で、藤野さんといっしょにいるというだけで私も友人になる。途端に世界が一段と広くなるのだ。もちろんその晩は酒盛りである。泡盛は悪酔いしないので、いくら飲んでも平気だ。

与那国に飛ぶ日、風が強かった。私は民宿で朝に自転車を借り、飛行機の様子を見にいくと、すべての便に欠航の表示が出ていた。風がおさまるまで、あと何日か石垣にいなければならない。日程に余裕がないので困るのだが、無理な自己主張をしても仕方がない。

さっそく私はシマチャビ(離島苦)の洗礼を受けたのだった。