初期の援農隊

 

島へ島へと

初期の援農隊

藤野浩之さん「与那国島サトウキビ援農隊ーー私的回想の三十年」(ニライ社)の記述に沿って、砂糖キビ狩り援農隊の初期段階を書こう。

韓国からの季節労働者受け入れは、事実上失敗したといえる。復帰特別措置では、一九七三年から七七年までの五年間受け入れることになっていた。しかし、二年が過ぎた時、藤野浩之さんと黒田勝弘さんの共同通信社会部の記者は、援農隊を組織することを決意し、与那国町と与那国農協に提案を行った。

砂糖キビ収穫期の四十日間与那国島で働く若者を、五十人から八十人ほど募集することを本土で呼びかける。受け入れ団体は与那国町と与那国農協で、日当に千五百円から三千円を支給する。四十日間すべて働いた人には、与那国と東京の往復船便二等席を支給する。滞在中、製糖工場の寮に宿泊する場合には宿泊費は無料にし、食費として一日五百円は本人の負担とする。農家に住み込んだ場合は、同様に一日五百円の食費を支払って、農家が三食を提供する。これは後に農家に住み込んだ私にも、思い当たる金額である。ただし私の個人的な都合で、行き帰りを援農隊として団体行動しなかったため、往復の船賃はもらっていない。もちろん当然のことなのである。

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初期の援農隊-2

 

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初期の援農隊-2

藤野さんと黒田さんの世話人はボランティアとしての位置づけで、渡航費用と滞在費を負担してもらうのだけで、一切報酬はない。この二人は、何と活動的なのだろうと思う。私はこの頃から共同通信社記者としての藤野さんと知り合い、彼のボランティアの話を聞いたはずだが、完全に理解していたとはいい難い。私が援農隊に参加したのは一九八O年のことで、その前年の一九七七年に援農隊の世話をする藤野さんと同行して与那国島に行った。その二年ほど前から心動かされていたはずで、藤野さんにすればはじめての提案から試行錯誤して、少しは落ち着いた時期になる。

提案をすると、島での反応はなかなかよさそうである。韓国から労働者を受け入れるよりも、経費はかなり安くてすむ。黒田さんが与那国島に飛び、さっそく農家に集まってもらい説明会を開いた。島として援農隊を受け入れることは賛成であるが、住み込みの農家という議論になると、手をあげる農家は一軒もなかった畑の動き手は必要であるが、見知らぬ他人を家の中に入れるのは嫌だといっているのだ。ここで藤野さんは朝鮮漂流任民が与那国島にきた時の話を思い出している。それは李氏朝鮮の「成宗実録」に出ているところである。池間栄三氏「与那国の歴史」には、比嘉春潮「沖縄の歴史」からの転載として、つぎの記事がある

「一四七七年(尚真王即位の年)、二月一日に朝鮮済州島の船が同島を出航して都に向かう途中、荒風に会って方向を失い、漂流十四日の後ろに一小島を発見、船を島に寄せようとしたら船がこわれて乗組員多数が轢死、わずかに三人が板にすがって流れているのを島民の漁船に発見されて救助された。この一小島が与那国島で、島民はさっそく浜に茅屋を急造して彼等を置き、まず食事を与え、それから、七日間はこの浜の小屋に置いた。たぶん漂流者に憑いた悪霊をはらうためであったろう」この事故から、藤野さんは島特有の心的現象を見る。怪我人を治癒し、食事を与え、親切に世話をしたといっても、浜に小屋を建てて集落の中にはいれなかったのである。漂流したのはたった三人だったが、この三人は見ず知らず者で、どんな厄災を島という閉鎖された共同体に運び込むかわからないのである。だから海岸というぎりぎりのところに留め置いたのだ。

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島抜け伝説

 

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島抜け伝説

島は閉鎖された世界である。共同体の構成も濃密である。いわば息が詰まる世界なのだ。そんな世界が居心地がよいという人もいるのだろうが、それはそとの世界を知らないという要素も強いからであろう。

周囲を海で囲まれた島は、船がなければ外にでることもできない。船をつくるためには、森に木があり、造船のぎじゅっが必要だ。また操船をする技術もいり、未知の世界に入っていくという勇気もなければならない。

思いついたからといって、誰でも簡単に島を出ていくことができるというわけではないのである。泳いでいけば身体一つあればよいのだが、命懸けである。黒潮を泳ぎ切って別の島に行く体力と気力がある人は、そんなにいるとは思えない。しかしながら、たとえ孤島であっても現実が苦しければ、その現実から逃れたいという思いを抱くのは当然である。

与那国島には南与那国(ハイドゥナン)に渡ったという、島脱けの伝説がある。池間栄治氏「与那国の歴史」には、与那国島の口癖が記録されている。島の人たちはそれぞれに屋号を持っている。比川の浜川屋、兼盛屋、兼久屋、後間屋の人たちが、人頭税の苦しさから逃れるために、南方にあると信じられている楽土、南与那国に脱出したという。もちろん海上に楽土などないから、うまくいって台湾に上陸できた可能性もあるが、遭難して海に消えたと考えるのが無難であろう

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島抜け伝説-2

 

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島抜け伝説-2

 

「与那国の歴史」によると、一九O五年に編纂された「八重山年来記」には、波照間島の南には南波照間島という楽土があると信じられていて、平田村の四十五人の男女が船出したことが記録されているということだ。四十五名とは、離島にとっては大変な数字である。この事件により、波照間首里大屋子が免官になったと記録されているということである。人頭税をとられるほうが最も苦痛であろうが、とりたてるほうもそれなりの苦しみを得ていたということである。

池間栄治氏は「与那国の歴史」に次にように書く。「このように人頭税の苦難は他殺及び自殺を出し、或いは脱島逃亡者を出して、八重山かの人口は年年減っていった。「八重山年来記」によると、一六五一年八重山全体の納税者頭数は五二三五人で、その内与那国島はわずかに一二四人であった」

波照間島はより小さいにせよ、与那国島と似たり寄ったりであろうから、一つの村から四十五人も脱出するということは全体の率からすれば大変なことだ。役人が免官になるのも当然のことである。

今日、私たちは海の彼方に楽土などないと知っている。幸福がほしいのなら、遠くの海の向こうではなく、自分の踏みしめるこの土の上につくらなければならない。そんなことは、いくら十八世紀か十六世紀の人でも、当然のこととしてわかっているだろう。しかし、理想を願っても過酷な現実に押し潰されてしまう。逃げる場所はどこにもないのである。それならどうするか。楽土を求めて海の彼方に旅立ったという島脱けの伝説は、その楽土の存在を信じたくないのではなく、集団的な自殺だったのではないだろうか。絶望的な心理のうちの何割かは、もしかするという期待のあったのかもしれない。しかし、そんな夢のような期待よりも、現実のほうが遥かに過酷であったということだ。その苦しい現実から逃れる唯一の方法が、集団自殺であったのである。もしそうであったら、まことにいたましいといわなければならない。

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沖縄へのラブレター

 

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沖縄へのラブレター

与那国農協は事実上倒産状態にあり、製糖工場を葬儀用資金はない。しかし、畑には砂糖キビが刈り取りを待つばかりに育っていって、時機を逃せば立ち枯れになる。倒産は農協ばかりではなく、個々の農家にもおよぶであろう。まさに土壇場まで来ているのに、援農隊は東京を出発できないでいた。苦労して準備してきた援農隊にとっても、我慢の限界にきていた。そこで藤野浩之さんは沖縄タイムスと琉球新報に「与那国島サトウキビ刈り援農隊アピール」を出す。藤野さんの著書「サトウキビ援農隊」より、そのアピールの内容を要約する。沖縄の離島では労働人口の極端な不足に苦しみ、本土では沖縄の風土と文化をもとに労働をして学ぼうという希望がある。沖縄県の失業率が高くなっていることも知らないわけではないが、援農隊を送ることは与那国島にとっても、現地での生活体験を望む人にとっても有意義のはずである。

与那国島農協との二年越しの話し合いの条件を示して本土で募集したところ、定員六倍の募集があり、そのうち八十人を選考した。この中には会社を辞めて参加を望んだ人もいる。出発予定日の三日前に、電報で与那国農協より出発延期の要請があった。援農隊ではとりあえず出発延期を決め、参加者に知らせた。アピール文は次のようにつづく。

 

沖縄へのラブレター-2

 

島へ島へと

沖縄へのラブレター-2

「私たちは、今沖縄の人びとが抱えているさまざまな問題を少しでも共有したいと思います。私たちは単なるキビ刈り労働力としてだけ与那国島に出掛けて行くのではありません。援農隊の趣旨は、単なる観光旅行ではうかがい知ることのできない沖縄の現実を、生活と労働を共にすることで共有するということです。今回の与那国援農隊がそのきわめて有効な試みであると信じています。そして、さまざまな困難な問題を乗り越えて、今回の援農を成功させることが、沖縄と本土の新しいつながりの一歩となることを私たちは期待しています。」

一九七六年一月二十一日の日付があるから今から三十一年前に書かれた文章を読み、ウチナーとヤマトの距離を感じるとともに、その差が表面的に薄まり、ウチナーとヤマトもグローバルスタンダードの荒波にもまれたことを私は感じるのである。苦しい条件の含めて与那国島はどこまでも与那国島であり、ウチナーはウチナーで、ヤマトはヤマトであった。その文化の差異を感じることが、旅の深い楽しみであった。差異を感じたなら、自分たちが身に帯びている風土や文化への客観的な視座を持つことができる。

このアピール文は藤野さんによるラブレターなのだと私には思える。恋する相手は、正確な情報がないのでよくわからないのだが、自分の気持ちはまったく変わっていないと呼びかけている。恋人を案じる気持ちが、今からではいじらしいような感じがする。私は同じ時間の中でこのアピール文に接したのではないが、同じ気持ちを持っていた。「沖縄の現実を生活と労働を共にすることで共有する」という問題意識である。若い私たちは砂糖キビ畑でともに汗を流すことが可能でこの方法が沖縄の真相に触れるのに最も有効で手っ取り早い方法だと思えた。私も藤野さんとじかに話して共鳴するところが多く、そのアピールから四年後の一九八O年に援農隊に参加している。

この真情あふれるアピールが沖縄の新聞に載ると、さっそく大きな反響があった。

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闇のドル買い

 

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闇のドル買い

アルバイトをしてコツコツ貯めた所持金はもともと少なく、それをできるだけ有効に使いたい。そう考えるのは、旅人の常識である。安いというここと、心が踊るということが、よい旅をしているかどうかのバロメーターだ。私が当時していた旅は、安いところが最善だったといえる。

私は日本円を持っていて、沖縄ではドルでなければ使えない。両替をしなければならないので、ここに隙間ができる。当時私は隙間で生きていたといえる。最初は必要な分だけ東京の銀行で円をドルに替えていったが、やがて沖縄で両替したほうが有利なのだと気づいた。闇ドル買いである。

市場通りと国際通りが交差する那覇の繁華街の中心あたりにブラックチェンジの場所があった。周りは人間が多くて、白昼堂々と何をしているかみんな分かっていた。通りすがりの人に「お金の両替所はどこですか?」と尋ねると、その場を必ず教えてくれた。教えるほうも教えられるほうもコソコソした気分はなく、交番の場所を話しているような感じだったのである。

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闇のドル買い-2

 

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闇のドル買い-2

那覇最大の大通りの市場通りと交わるほんの小さな広場になったような所に、ワンピースを着たアンマー(叔母さん)たちがたむろしていた。アンマーなら誰でも着ている安物の普段着に必ず手さげ袋を持っていた。その中には商売道具の現金と計算機が入っているのだ。「兄さん、しないねー」何気ないふりをして前を通のだが、必ず私はアンマーに声をかけられる。心の中を読まれているのだ。ゴム草履にTシャツにジーパンで沖縄の人たちと全く同じ服装をし、私のような顔たちをした男もいるはずなのに、いとも簡単に見破られる。一言でも交わそうものなら、もう絶対に逃げられない。偽るつもりはないにせよ、どのようにしても私はヤマトンチューなのだ。アンマーにしてみれば、ポケットの円を米ドルに両替したがっているヤマトンチューなのである。私にしたら、1ドルをいくらで売ってもらえるのかというのがただ問題である。公定レートでは1ドルは360円の固定であった。「355円」尋ねもしないのに、アンマーは1人で呟くようにして言う。「高いよ」こう言って私は隣のアンマーにレートを尋ねる。「355円」みんな同じである。いつも同じ場所で高売りをしているのだから、協定をしているのであろう。私はいわれた通りのレートで20ドル替え、100円儲けるこの100円が貴重なのである。

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苦しい船旅

 

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苦しい船旅

お欣和になぜ行こうと思ったのか。私は大学二年生、十九歳だった。十九という年齢を覚えているのは、免税店で酒を買えなかったからである。一九六八年当時沖縄は日本にとっては外国だったのだ。

私は外国旅行をしようとしたのではない。当時はベトナム戦争が激化し、その後方基地としての役割をはたしていた沖縄の位置が理不尽であるとかんじていた。ベトナムで戦われていたベトナム戦争は、世界戦争の危機をはらんでいて、拡大した戦火がいつ沖縄にやってこないとは限らなかったからだ。

「民族の怒りに燃える島、沖縄を返せ、沖縄を返せ」と歌いながら、私は東京の竹芝桟橋から琉球海運の船に乗ったのだった。実態は組織にも属さない単なる一学生であったのだが、気分は民族主義者だった。インターナショナルなものを求めながら、こと沖縄となると、とたんに民族主義者になったものだ。本土の多くの学生たちが、私と同じ気分だったはずである。そんな表面的な政治状況とは別に、私は北関東のはずれ、冬になると乾いた冷たい空っ風が吹きまくる栃木県宇都宮市の生まれ育ちである。沖縄の風土とはまったく違う。しかし、私の母方の地は関西はずれ、兵庫県朝来郡、つまり但馬の、生野銀山にあった。渡り坑夫として栃木県の芦尾銅山に流れてきて、その子孫が私なのである。つまり、私という一個の血をとってみても、交通してきたことがわかる。

南へ欲求というものは、自分でもよくわかっていないながら、血の奥にはっきりとかんじていたのだ。そのことが政治状況とは別に、よんどころないものとして私を動かす根源的な泉であった。

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苦しい船旅-2

 

島へ島へと

苦しい船旅-2

故郷を離れて東京に遊学し、まだ二年目である。旅に出たという気分はあったが、吹きくる風に誘われても身も世もなく身体を動かしてしまうというような強いものでもなかった。なんとなく南に行きたい。その場に自分を置き、皮膚と血がどのような作用をすゆのか感じてみたい。そして、もしかすると遠い先祖たちの故郷として感じられるかもしれない沖縄が、アメリカ軍の統治化にあり、ベトナム戦争の火を受けるかもしれないのだ。実際、嘉手納基地からはB52戦闘爆撃機が北ベトナムのハノイやハイフォンに爆撃にいっていたから、ベトナムに報復されても仕方ない立場にあったのだ。若い私の内部は混沌とした感情が渦巻いていた。社会の影響を受けてもいた。

東京湾を出航する船旅は、未知への不安と船酔いとで苦しいものであった。二泊三日ほど、三等のすえた臭気のする船室で、他人の体臭の染み着いた湿った毛布にくるまり、じっとしていた。立ち上がると、伊の奥から酸ぽいものが込み上がってくる。それまで気分は悪くなかったのに、トイレに行こうと立ち上がった瞬間、一気に嘔吐感に襲われる。

横たわっていても波の乗って持ち上がっていき、登りつめたところでほうり出されるようにしてふわっと落ちる。これを際限なく繰り返すので、胃の中は空っぽで疲れ切っているはずなのに、頭が冴えて眠れない。

沖縄の旅は、苦しいものであった。

それでも沖縄に行きたかった。