どうなん・ちま

 

 

島へ島へと

どうなん・ちま

与那国島のことを「どうなん・ちま」という。「与那国の歴史」で池間栄三氏は次のように記述する。

「琉球の旧記である『指南広義』(程順則著)や『中山伝信録』(徐保光著)には、『由那姑尼』と書いてある。現在用いてる『与那国』は慶長の検地から書き始まったもので、伊地知李安著『西藩田祖考』の中に見えている。」

「どうなん」とは、「渡難」からきて絶海の孤島であるため渡海が難儀であったからこの言葉をあてたのだと、長いこと私は思っていた。しかし、そう単純ではなさそうである。南からやってきた男が、海に盛り上がっている「どぅに(土根)」を見つけたという島建ての伝説から生まれたという説がある。船四隻を与那国では「どうなん」と数えたそうで、小浜島からやってきた「いぬがん」の犬退治をした男は、一人ではなくて四隻の船に分乗してきたという説もある。

あおい科に属するオオハマボウは、沖縄の海岸のいたるところに自生している奢木である。オオハマボウの別名は、ゆうなという。この「ゆうな」から転化して、「どうなん」になったという説が最も有力ではないかと、池間氏は説く。

渡るのに難儀であった「どうなん・ちま」も、宮古島に支配され、中山王朝に支配され、やがて薩摩藩による苛酷な人頭税が課せられる。この税制によって、与那国に生まれた伝説はあまりにも有名だ。

「トゥング・ダ」は島の中央部にある一ヘクタールばかりの天水田で、そばにいってみてもごく平凡な田んぼである。伝えられるところによると、ある時突然鳴り物を鳴らし、十五歳から五十歳までの村中の男を集める。一定の時間内に指定された田んぼにはいることのできなかった男は、殺されたという。非常召集に応じられない場合とは、たとえば酒を飲みすぎて酔っていたとか、身体障碍者だとか、重病にふせっていたとか、いろいろなことが考えられる。つまり、村にとっては有能な働き手ではない人が、人口調整をされたのである。人頭税はただ頭割りで重税が課せられたから、税を支払うことのできない人は、他の島人の負担となったのである。

「トゥング・ダ」は人舛田と書く。まさに人間は舛ではからかわれるような存在であったのである。

もう一つの伝説は「クラブ・バリ」である。久部良港の東側の海岸は岩出形成されている。その岩に割れ目があり、幅はおよそ三メートル、深さは七メートル近くある。妊婦をここで飛ばせ、飛ぶことができなければ落ちて死んだ。たとえ飛べても、心労のあまり流産したという。もちろんこれは弱い人間を淘汰する人口調整機能である。

「クラブ・バリ」の裂け目は、海底に今もあり、観光名所になっている。三メートル幅は微妙である。立ち幅跳びでは飛べず、助走をつけるのにもまわりはでこぼこだ。私もふざけて飛ぼうとしたのだが、足がすくんでしまう。

「トゥング・ダ」と「クラブ・バリ」も、実際におこなわれたのではなく、伝説にすぎないのかもしれない。そうではあっても、こんな物語が現実味を持っているのである。

この現実の裏返しとして、海の彼方に楽土を見た人々がいた。海の向こうに「ハイ・ドゥナン(南与那国)」という理想郷があり、比川の人が船で旅立ったという伝説も伝わっている。もちろんその人々には、苛酷な現実がいつまでも追ってきたのであろう。

「ハイ・ドゥナン」は沖縄では「ニライ・カナイ」と呼ばれている。

 

 

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