島へ島へと
大東結び-2
だが島人のほうはまったく違う見方をした。援農隊の参加者を、「労務」「労務者」と呼び、これが、公然としたいい方だったのである。「労務」という言葉の中に、援農隊員は見下げられた気分を受けとってしまう。このいい方に、当然反発する人もでてくる。
気にしないというのが、大方の態度ではあるにせよ、気のする人もいた。そんなことで援農隊の中で議論が湧き上がったりした。
結局のところ、いつしか援農隊といういい方に落ち着いていったのは、援農隊の働きが島の人に認められてきたからである。私が援農隊に参加したのは、第一回から数えて五年後のことであるが、その時には援農隊といういい方が完全に定着していた。それどころこか、旅で与那国島にきたついでに製糖工場や砂糖キビ畑で働く人も、援農隊といっていた。自由な旅に来ていた学生などが、島の人にいわれて興味を持ち、よく働いていったのである。数日間の人も、最後まで働いていく人もいた。
波乱の中ではまった援農隊で、みんなはどうにか過酷な作業にも慣れていった。しかしながら、作業開始が遅れたのはどうにもならなかった。当初の予定では平均で一日二人で一トンを収穫するということが、そもそも過重な計画だったのである。
手斧を握って砂糖キビを倒す作業をやりつづけるのだが、朝起きると指に力が入らなくなっている。指が痛くて、歯ブラシが持てない。箸が使えないので、食事はスープでとる。そんな状態に陥る人もいた。
南の島の砂糖キビ畑で働くとい夢は甘く、現実は違っていた。