青い空、青い海-2

 

島へ島へと

青い空、青い海-2

実際に与那国島にいってみると、北海道や東京あたりではとても考えられないような現実が待っていた。その現実の前では、心の中の夢などななにほどのものでもない。しかし、夢があるから予期せぬ現実の前に踏みとどまっていられるのだし、新たな現実をも受け入れることができる。

第一回の援農隊は予期せぬ現実に見舞われ、戸惑い、挫折したものでした。しかし、多くの人がどうにかやり切ることができた。その先には地平線が開かれ、私もこうして与那国島にいくことができる。

海野奏斗の理想郷・ニライカナイは実在したのである。

そこは食べるものがいくらでもある安楽自在の国ではなかったが、現実のその先から大いなる力をもらうことができた。砂糖キビ畑の仕事に苦しみ、戸惑うながら、自分の実現に戻ってそこで生きる力をもらって帰ってきたのである。過ぎてしまえばよい体験だ。その季節になると、またいきたくなる雨も降るし曇りの日も多く、船の出られない時化の日もつづくのだが、青い空と青い海はまんざら嘘でもなかったのである。そこが青いか透明か、どんよりして濁っているかを決めるのは、すべて自分の心なのだ。

私も東京の酒場で藤野博之さんから砂糖キビ援農隊の話を聞いたとき、目の前に青い空と青い海がひろがったのだ。その青に

身も心も染まってみたいと思ったのである。そして、私はこうして与那国島にとりあえず向かっているのだった。

ニライカナイは、行きっぱなしではいけない。戻ってくるからこそ、現実の中で力をだすことができるのだ。現実からの投影という要素がニライカナイには当然あるのだが、、これも現実と緊張関係を持っているということである。

伝わるところによると、与那国島のその先海の彼方には、パイ

ドナン(南与那国)というニライカナイがあると信じられ、比内集落の里人が集団で海の彼方に向かって船出したとい記録が

ある。しかし、彼らの姿は鷹杳として知れない。帰ってきてこそ、ニライカナイなのである。ニライカナイはいきっぱなしではいけない。そこが本当にニライカナイかどうか、確認できないからだ。

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仕事を求む

 

島へ島へと

仕事を求む

そもそも贅沢に持っているわけでもない旅の資金が

いよいよ貧しくなってきた。どんなに節約しても、

食べ物はたべなくてはならない。船賃も残してはならないので、仕事でもしてお金を稼がなくてはならなくなった。パスポートまがいの身分証明書を持たなければ沖縄に渡ってくることはできないとはいっても、外国ではないので労働許可書はいらない。自分で仕事を見つけ、労働の対価として堂々と賃金をもらえばよいのである。

さて、私にどんな仕事ができるのだろう。幸いに若いし、体も丈夫である。短期間なら、どんな重労働でもこなす自信があった。その気になれば、仕事などいくらでもあるようにさえ思えた。例によって、

ヒッチハイクをした。車に乗せてくれた人に、何か仕事ありませんかと尋ねる。「どの期間働くの」

必ずこう聞かれる。もちろんそんなに多くの時間があるわけではない。働くことも一種の旅として、最長で三週間か四週間であろう。要するにばいとである。

「それなら砂糖キビ畑がいいさあ。誰でもできる仕事だから。苦しいけど、それでもいいかなあ」

楽で稼げる仕事がいいに決まってるのだが、そううまくいくはずもない。もちろん、苦しくてもいい。

できたら今まで知らない世界にはいることができたら、それ自体が旅となる。砂糖キビとみて改めて見れば、あっちこっちの畑でも、人が固まって仕事をしている。砂糖キビ畑は、北のほうの人間には、旅情をかき立てる響きがある。なんだか砂糖キビ畑で働きたくなってきた。「使ってくれますかねぇ」

不安になりながら私はいう。

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仕事を求む-2

 

島へ島へと

仕事を求む-2

「それじゃそこに寄ってみようかねぇ。たのんであげるさー」

親切な男は畑のほうに車を回す。砂糖キビ畑には十人ほどいて、手鎌を振ってばさばさと砂糖キビを倒したり、葉を落として縄で結束したりしている。私を拾ってくれた男は車を降りて畑にはいっていき、主人らしい男と話しだす。砂糖の甘やかなにおいがしていた。しばらく話してから、男は一人で戻ってくるのだった。

「うーん、人で不足で、猫の手も借りたいほど忙しくて、三週間四週間働いてくれるのはつごうがよくて、若くて丈夫そうだから最高だというんだけど、あんたのことがよくわからんというんだねぇ。東京の学生さんと説明したんだけど、住み込みさせなくちゃいけないし、結局あんたのことがよくわからないから雇えないというわけさー」農家の主人のいうこともよくわかる。

私は流れもので、いくら愛想よくにこにこしていたところで、心の中では何を考えているのかわからない。内地の人間ならまして胆の中は見えず、信用できない。農家の主人の態度はとどもるところそういうことだ。

親切な男は近くの砂糖キビ畑を三か所まわってくれたのだが、三か所とも同じ理由で断られた。冷たいというのではなく、内地と沖縄はあまりにも遠かったのである。沖縄の農民と、東京の学生と、こころの回路が結べなかった。

私は仕事が見つからなかった。

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戻らなければにドアをひが島へ島へと

 

島へ島へと

戻らなければにドアをひが島へ島へと

はじめての与那国

私ははじめて与那国島に立った時の印象を書こうとしている。

滑走路は海に沿ってある。飛行機のタイヤがアスファルトの滑走路に触れ、激しい揺れがあって、やがて静かにある。窓の外が与那国島なのだ。

スチュワーデスがドアを開くと、機内では乗客がほっとした様子ででいっせいに立ち上がる。頭上の棚や足元から荷物をとり、外に向かっていく乗客の一人が私である。頭を縮こめていなければ、機内では歩けない。踏むと揺れやすいアルミの小さなタラップを降り、滑走路と続いたアスファルトに立った。足元がしっかりしているので、安心した気分があった。

太陽の光は強いとも感じたのだが、不思議と明るいというようには感じなかった。私は新川明さんの「新南島風土記」や島尾敏雄さんの南島論などを読んでいて、南凕というイメージに漬かっていたからだろうか。光が強ければ、当然影も濃い。そのコントラストの強さが、全体的な風光に暗さを感じさせるのであった。

ターミナルはコンクリートのはこのような建物であった。そこで迎えの人がごったがえしていた。家族の帰りを待っている人もいるのだろうが、旅の人を迎えにきた人も多いはずだ。なにしろ十九人乗りの小型機で、迎えの人のほうがはるかに多い。人を迎えるのにこんなに熱心なのは、交通といことがこの島にとって重要な要件だからだろう。

人が行き来しなければ、この島は成り立たない。人口が少なければ自給自足も可能なのだろうが、人口が増えたので多様な食料を運んでこなければならず、現代の生活には多様な工業製品も必要なのだ。

もちろん砂糖の生産形態が交通を必要としている。砂糖キビの茎を短く切って埋めていく蒔きつけは、時間をかければ少人数でもできる。一年半かけて育てるもの、島の人数だけで充分だ。しかし、刈り取りは一気にやり、刈り取ったキビはできるだけすにやかに製糖工場に運んで黒糖に仕上げる。だから製糖時期だけはどうしても島の外の人間の力が必要なのだ。

こうして外部と交通しなければならないのが、離島の宿命である。交通するのは大変なことなのだ。そのため乗客が十九人しか乗っていない飛行機がつくたび、島の心えお率直に見せるような歓迎の仕方をする。

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戻らなければにドアをひが島へ島へと-2

 

島へ島へと

戻らなければにドアをひが島へ島へと-2

はじめての与那国

小型トラックで荷物がターミナルに運ばれ、台の上にのせられる。自分の荷物を取ると、迎えの人がそれぞれの車に運んでいく。あんなにごったがえしていた人も、たちまちいなくなってしまうのである。製糖作業のまっただ中で、迎えにきた人もすぐに砂糖キビ畑や製糖工場に戻らなければならないのだ。

私は援農舎の藤野雅之さんといっしょだったから、この先どうなるのかなど心配することもなかった。民宿の予約のしていたし、藤野さんと同室で泊ればよいのだ。藤野さんには援農舎スタッフの稲垣さんが、民宿の小型トラックを借りて迎えにきていた。

「飛行機は順調に飛びましたね」

迎えの人の最初の挨拶は大体このようなものだ。本当は欠航になって石垣島で一日待ったのだが、そのくらいは仕方ないことで、石垣空港を出発してから引き返しもせず無事に飛んできたという意味である。

「援農隊は順調ですか」

藤野さんが問うと、稲垣さんは応える。

「順調ですよ。事故もなく、トラブルもありません」

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ビアホール清水港

 

島へ島へと

ビアホール清水港

西武門の交番にある交差点からひとつ波の上神宮のほうにいったはすかい角に、「ビアホール清水港」と書かれた店があった。ビアホールとはっきり書かれてあるし、清水港だし、アメリカ兵たちが遊びに来るような店とはとても思えなかった。

昼間の歓楽街は、もちろんネオンの輝きではなく、妙に淋しいものである。夜になれば眩しいほどの光を放つネオン管は、まるで乾いた骨のようだ。太陽の光ばかりが照りつけて、亜熱帯のもの憂い雰囲気が漂う。私ははじめていったところであるから、夜の輝きなどはとても想像できないものであった。

入ろうか入るまいか迷った。周囲にはネオンの大きな看板に飾られたナイトクラブがならんでいた。ベトナムから休暇で一時帰休しているアメリカ兵たち、これから泥沼のベトナムの戦場に送り込まれる兵士たちが、夜毎に大騒ぎするところである。そんな派手なクラブと、ビアホールと、どちらを選ぼうかというのか。

私はビアホールのほうが穏やかでいいと思ったのである。アメリカ兵は身体もでかいし、腕に入墨をしているし、気持ちがすさんでいるだろうし、恐ろしい気がした。

私はビアホールの中にはいっていってた。案外内部は広くて、がらんとしていた。長いカウンターがあり、ソファが向き合ってならべられその間にテーブルが置かれたボックスシートが十ほどもある。中は暗くて、黴のにおいがした。確かにビアホールと看板がでているのに、ビアホールらしい明るさがない。

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ビアホール清水港-2

 

島へ島へと

ビアホール清水港-2

行こうか戻ろうか、絶えず私は考えてた。どのみち私には未知の世界である。路銀は本当になくなり、今夜の食事にも事欠く有様になっていた。今日中に潜り込める場所を見つけなければ、にっちもさっちもいかないのである。迷っている余裕などなかった。私は薄暗がりに向かって大声をだした。

「ごめんください。どなたかおられますか」

声は店の奥に吸い込まれていった。また私が声をだそうとした時、大声が響いてきたのだった。

「おおう」

腹の出た小太りの男が、パンツ一枚で現れた。目がくりくりして、可愛いような感じの男だった。私は気持ちの上で押されまいと精神を立て直す。

「仕事を探しているんです。使ってもらえませんか」

とうとう私はいったのだった。いってしまった以上、どんな解答をもらっても仕方がない。

「いいよ、今夜からこられるか」

あまりにも簡単に決まったので、私は拍子抜けだった。

「はい」

「よし、決まり。一日一ドルだ。それでいやだったら、帰ってもらう」

男のものいいには決然としてして、交渉の余地はなさそうだった。一日一ドルといえば、日当三百六十円である。これはいかにも安い。あとでわかったのだが、若い公務員の給料は月に三十ドルほどで、そこから割り出したのである。でも安いといっても、私はもう金がないのだから、これで了解するより仕方がなかった。

「わかりました。よろしくお願いします」

私はこういって頭をさげた。

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南凕というイメージ

 

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南凕というイメージ

滑走をはじめてから、陸地がぐんぐん近づいて、

私は飛行機に乗っているのだったと改めて感じた。

窓から遠影や海を眺めているときには、自分の力で空を飛んでいるような錯覚を覚えていた。いやそんなことを考えず、自分が海の彼方へと向かっていることにひたすら快感を覚えているのだった。

海の彼方には何があるのか。それは万人に共通する憧れにも似た思いであるだろう。もちろん私は台湾に行ったことがあるし、その先遥かな外国にも行ったことがある。日本国内も歩き回ってきた。日本が暮れたところがその日の宿というような、自由奔放

な旅を繰り返してきたのだ。

与那国島は日本国内の最も遠いところである。南凕

という言葉があるが、これは荘子にいう南方にある大きな海である。亜熱帯の明るい太陽の光が降りそそぐにもかかわらず、暗いイメージがつきまとう。

凕とは、暗い海という意味なのだ。単なるすき通った光に満ちているところとは違う。その暗さの原因は、要するに知らないというところから発するのではないか。与那国島はヤポネシアのはじまりであり

琉球孤のはじまりといってもよい。また台湾の位置する国境のしまである。だがこれは、あくまで地図を見た上での表面的な知識だ。一般的な知識として薩摩藩の人頭税の取り立てがことに厳しく、砂糖が

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南凕というイメージ-2

 

島へ島へと

南凕というイメージ-2

薩摩藩に膨大な富をもたらした。そのため人々の暮らしは厳しく、そんなところから南凕というイメージも生まれるであろう。また書物上の知識だが、過酷な表現があっても、海に囲まれた島だから、容易に逃げ出すことはできない。その現実とは、人口を調節するため、妊婦を海岸の岩の割れ目に飛ばせ、落ちたものを殺したクブラバリの伝説が物語っている。たとえ飛べたとしてもあまりのストレスのため、流産をした。食料が乏しかったために、一定以上の人口は調節する必要があった。トゥングダの伝説の悲惨である。ある時突然鍋や釜の底を叩いて合図を送り、一定時間内に島の中央部にあるトゥングダを集める。老いていたり、酔っぱらいだったり、

身体障碍者だったりすれば、短時間のうちに長い距離を移動してくるころができない。トゥングダに集まることができなかった人は惨殺されたという。クラブバリもトゥングダも私は新川明「新南島風土記」を単行本で読み、亜熱帯の明るい島に恐ろしい

南凕という印象を持つに至った。

もちろん後に私はクラブバリもトゥングダにも何度もいき、観光客にまじって記念写真におさまったり

してきた。クラブバリでは観光客たちは岩の裂け目を飛ぼうとするポーズを決まってする。成人の男が飛ぼうとして飛べない距離ではないので、実際に飛んで得意になっている人もいる。

あれは伝説にすぎないだろうなと私は思う。小さな共同体の中で、人はそんなに残酷になれない。しかし、よくできた伝説で、「新南島風土記」は八重山

の発見の書物でもあったのだ。八重山は沖縄の中の

他界で、与那国島はその最深部、他界の中の他界であった。つまり、南凕の中でも最も暗いのが与那国島であった。

その与那国に私の乗った飛行機は着陸しようとしていた。滑走路のアスファルトに車輪のタイヤが触れた。

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藤野博之さんとの旅

 

島へ島へと

藤野博之さんとの旅

紆余曲折の中で与那国島へサトウキビ刈り暖農隊がはじまったのが一九七六年で、私が興味を持ち参加をしたいと願ったのは、暖農舎の藤野博之さんから話を聞いたのが直接のきっかけであった。

一九七六年二月に藤野さんは暖農隊が現地でうまく溶け込んでいるか視察し、また暖農隊を励ますために、与那国島に行く計画を立てているということだった。藤野さんは共同通信社の記者で、私は昔からの友人であった。その頃私は長編小説「遠雷」で野間文芸新人賞を受賞したばかりで、何かと忙しかった。暖農隊に参加して、二ヶ月も三ヶ月も家をあけるのは無理だったが、藤野さんが休暇をとっていく一週間ほどの旅なら、私も同行することができる。今回は暖農隊の様子を見て、来年も改めて時間をとって畑で働けばよいのである。

そのようなことにたちまち話が決まり、私は藤野さんとともにまず那覇にいった。宿泊したのは、暖農隊がよく泊まる民宿であった。共同通信社の支部は沖縄タイムスのビルの一室にあるので、そこを訪問すると、沖縄タイムスの新川明さんや川満信一さんを紹介された。雑談の折、私が復帰前に那覇の波の上のアメリカ兵向けナイトクラブで働いたという話をした。その店はAサインではなく、Aサインが閉まったあとに開くモグリ営業だったのだ。折からベトナム戦争が激しく、私は客のアメリカ兵を通して裏側から戦争を見ていた。

そんな話をすると、それを書きなさいと新川さんにいわれた。新川さんも川満さんも復帰運動をリードした知識人だったが、当時は沖縄タイムスの編集幹部だったのだと思う。さっそく私は原稿用紙とボールペンを借り、片隅の机で書いた。その文章は数日後の新聞に掲載された。

藤野さんと沖縄にいると、どこにでも知人がいる。沖縄との親密な付き合いをしてきた人だということがよくわかるのだ。

東京から与那国島にいく場合、当時はまず那覇に飛び、それから石垣、与那国と飛行機を乗り継がなければならない。今は東京から石垣、那覇から与那国の直行便がそれぞれあるのだが、当時の那覇と石垣に寄っていくのがというのが友人をつくるためには幸いである。しかも、悪天になれば飛行機は欠航になるのだから何日も滞在せねばならず、顔を見合わせる機会も多くなる。藤野さんはそのような旅を、これまで幾度もくり返してきたのだろう。

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